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2025/10/09

■ まなぶ ■ 吉田秀和 - シューマン『交響的練習曲』の終曲はうるさい?


"まなぶ"というタイトルよりむしろ、"読む"話、しかも「吉田秀和って誰?」というあなたに意味不明な話なんですが。

 吉田秀和『LP300選』は、愛読書です。タイトルも時代遅れなら、推薦盤もLP初期から中期のもの。画像はすっかり変色し切った新潮文庫昭和59年版ですが、これ、大学生の時に"買い直した"2冊目です。いまだによく手に取ります。知り尽くしたフレーズですが、ときおり眺め、感銘をあらたにしたり反発したり...。

 さて、そんな箇所はいちいちたくさんあるのですが、今日は、シューマンの記述の前半。

 "300選"を作曲家ごとに選ぶこの"選集"のうち、1割近い29点はモーツァルト、ついで22点がバッハ。これはごもっとも。

 笑ってはいけないが笑ってしまうのが、"ショパンは(たったの)2点"。

 うち1点は『マズルカ』。これは何百回か読みなおし聴きなおし、歳月を経てからやっと、実感できるようになりました。

 "私の三〇〇選には、以上の二種目で我慢してほしい。偏見と承知しての話である。そうして、私は、とかく「ショパンは、天才的素人作曲家である」というルネ・レイボヴィッツの言葉に共感したくなるのである。"

 ...吉田のスタンスに共感と納得を得ます。

 "この私が、シューマン(Robert Schumann 1810-56)には、少しあまい。これも偏見だろう。"


 と言って、ショパンの時と同様、次々とピアノ曲を俯瞰し、さて、けっきょくどれを選ぼうかという段になって、"『交響的練習曲』は天才的な作品だと思うが、フィナーレがなんとしても長すぎる。あの反復はたまらない。"と、選から捨てます。

 大学生の時以来、コレはムっとした箇所でした。

 「評論家大先生はいいよなぁ、シューマンの大作をも"反復がたまらん、長い、うるさい(?)"といって、ポイだもんなぁ」と、大学時代同好の士だった友人らと軽口をたたき合ったものです。

 血気盛んな若者(?)なら、あの頃にリリースされた若き日のポリーニ(DG)盤を聴くと、拳を握りつつ感動したのですが、それは多少引き潮気味だとしても、今でも思いは同じです。

 自分の好みに合う文章かそうでない意見かを、吉田にぶつけつつ気にしつつ読んでいたあの頃。

 いま、考えてみると、吉田秀和の、白水社の全集も新潮の文庫本も、手に入る限りかき集めて読んできたわけなんですが、読み方はちがうと気づきます。

 ショパンとちがって、シューマンには、歌集も室内楽も管弦楽も多いので、ピアノ独奏曲は、グッとこらえて『クライスレリアーナ』『幻想曲』だけに絞りに絞ったようですが、そこに至るまでに、存分に吉田の、シューマン・ピアノ曲の位置づけを読んで楽しむスタンスを取るようになりました。しぼるのにずいぶん苦しんでいるはずのところ、選に漏れたものをも、記述の中で上手にそれぞれ位置づけ、きれいにしまいこんでいて、数年後数十年後の今になってすぐに、整理整頓されてしまわれてしまった棚から、自分で取り出して聴けばいいだけ、にしておいてくれていたんですねぇ...。

2025/10/08

■ まなぶ ■ 教科書を読...まずに、絵を眺める(3) - 中学1年国語


このシリーズ(?)(🔗10/1)まだやるつもりなの? という感じでごめんなさい。このくらいにしときます。

 検定教科書(『新しい国語』東京書籍(令和3年))の、芥川のお話の最後に、著作者の紹介があり、その見開き2ページの紹介の半ページを割いて『作家を知る』と称して、「作家について書かれた本」3冊の紹介をしています(p219)。

 媚びている...。

 教科書編集者と販売会社は、中学生に媚び、教育委員会採用担当者に媚び、売上とカネに媚び諂っています。

 まるで、高等教育を受けた老人が、自分の興味からではなく、娘や孫娘の歓心をかおうとする一心で、ラノベを一緒に読み始めたりインスタやX(ツィッター)を始めたりして楽しがるようすをあえてするのと同じ、ムリな醜さを感じます。

 "芸術作品に親しんでもらうために、まずは芸術家の身近な・人間的な・下世話な・ゲスい話題を"、"まずはビジュアルから入ろう"...などというアプローチだって、アリだろう...そのことは、否定するつもりは無いです。また、紹介されているその3冊を否定するつもりもないです。書名も内容も知らないですし。もしかしたら自分でも読んで楽しい本かも。

 でもその安易なアプローチを、13歳を相手に、検定教科書の場で、しなくてはダメなものなの? 

 どうしてもこの商業誌を検定教科書の紙上で宣伝しなきゃダメなものなの?

 それ以前に、作品そのものの魅力を13歳にさりげなく伝え、作品を手に取ってみたい気持ちにさせてくれる努力をしてはどうなの?

2025/10/01

■ まなぶ ■ 教科書を読...まずに、絵を眺める(2) - 中学1年国語


国語教科書の、レイアウトに不満がある話その2...。

 個人的なぼやきを先日(🔗9/27)から続けているだけなので。

 どのお話の最後にも、著作者の顔写真と経歴が必ずあります。

 文庫本や新書などは、著作者の顔写真を掲載していないのがふつうでは。

 "教科書なんだから載せてよい/載せるべき"という議論があるのかもしれないのですが、ちょっと...。

 写真の写り方/写し方によって、見るすべての中学生の目には、カッコよかったり悪役風だったり、好みのタイプだったりその逆だったり...。それによって、読む内容の印象にも影響があったりしませんか。

 でも、"国語教科書"に必要なのは、「言語を通じて何が書かれてあるか」じゃないのかな。

 で、教科書の著述がきっかけで初めてその著作者に興味を持ったら、今どきの世の中、さらにどんどんその人の著作物に触れる手段は多様にあり、その過程で、顔や容姿や経歴など外見的な部分にいくらでも触れる機会があると思います。

 顔写真はその人のごく一面しか反映しない気がしますし、ましてやその書いた内容と顔写真は関係がないので、"教科書"にどうしても掲載する必要はない気がします。

 やはり前回同様、著述内容にとって、"ヴィジュアルな要素"があるせいで、ことばとその内容以外の、余計な印象を混入させている気がするんです。

2025/09/27

■ まなぶ ■ 教科書を読...まずに、絵を眺める - 中学1年国語

H.ヘッセ/高橋健二訳『少年の日の思い出』
「新しい国語 1」東京書籍 (以下同書)

変な見出しですみません。実は自分が小学生だった時以来ずっと、"教科書"に対して持ち続けるこころの不満...半世紀以上も腹ふくるる思いです...。

 その1は、『教科書の挿絵って、どう思いますか。あった方がいい? なくていい?』 (って、"その2"以降もあるのか(;^^!?)

 「美しい絵・上手な絵なら、あっても良い」という中間論もありそうですが、美しくて上手という伝統的評判が定着したような著名な画家の挿絵ならいいってわけにもいかないのでは...。

 美しくないけど上手かもしれないし、美しいけど児童生徒の目からして"上手"か判別不可能かもしれません。童話『カチカチ山』の挿絵に、"即興"時代のカンディンスキーや"プロトキュビズム"後のピカソが挿絵として添えられていたら...。

 翻って、たとえば李白『月下独酌』の白文を、5回目50回目に、別な装丁や好き勝手な挿絵が施されたものを手に取り、それも見ながら自由に読み下すのは、それなりに気軽な楽しさがありそうです。そこにシュルレアリスム期のクレーの挿絵があろうと、青の時代のピカソの挿絵があろうと(著作権の話は置くとして)。

 でも、13歳中1が、生まれて初めて芥川『羅生門』のすさまじい世界に触れるとしたら...。

 ひとりで、静かに、文字を読み進み、考え、想像し、さらに読み進もうよ。

芥川龍之介『トロッコ』
(...わかる気がするのですが
視点を固定され押し付けられそう)

 バカげた挿絵で、若い想像力は一気にごく偏狭な制約を受け、作品そのものなんてめちゃくちゃにされそうです。

 初めてその作品を読む13歳にとって、13歳の読解力で読み進む日本語の文よりもはるかに高速にいきなり目に飛び込み脳を刺激するイラストの方が、訴えかけ支配する力が強いのでは?

芥川龍之介『トロッコ』
(...ぽつぽつキラキラ
ナニ? なんで? いる? 
(蜜柑のようなんですがね))

 芥川よりもイラストレーターの方がずっと大きな存在です。

 本を読むのは、本質的に孤独で抽象的な要素があります。だからこそ、自分の脳という、真っ白い広い紙の上で、想像力を大きく広げ、自由に描けるのでは。

吉橋道夫『さんちき』
(雰囲気はあるんですが)

 ら、その場、自分と著者の間に、いきなり割って入ってくる無関係な猥雑なイメージ...。

吉橋道夫『さんちき』
(死んだ侍のイラストらしい...
口や鼻はどのへん?
頭や首はどう曲がってるのコレ? )

 著作者の予定しなかった後づけのイメージがべったりと貼り付けられるのは、"編集者"という知的な点では短絡的な暴君が、"親しみやすいだろう", "わかりやすいだろう", "ウケるだろう", すなわち"売れるだろう"という異次元の要因を混入させるからではないかなと思います。

 検定教科書も、どれも同じようなレイアウト...。

 現代の書籍というコモディティは売って儲けるためにある手段にすぎないのですから、それで良いのですが、せめて教科書では...、"禁止にせよ"とは思わないのですが、まったくイラストのない検定候補品もあってよさそうなんですが...。さすがにナシにできないか。調達権限のある教育委員会のメンツが採用してくれない、つまり"売れない"ですよね。

 岩波や新潮の文庫本を開くのは好きですが、イラストが無い点もその理由の一つかもしれないです。

2025/09/25

■ まなぶ ■ 教科書を読む - 中1国語『筆順』


 漢字の「正しい筆順」については、国が定めた"めやす"があるようです。

 文部省が、1958年(昭和33年)に、「筆順指導の手引き」を発刊して、小学校で学ぶ漢字881字について定めました。が、"美しい漢字を効率よく書くための一般的な基準"にとどまるようです。以来今日まで、改訂版などは発刊されていないようです。

 中1教科書(『新しい国語 1』東京書籍 令和3年)のこの設問について、私は、7"興"、8"飛"を間違えました。小学校時代、習字とともにかなり正確に覚えたつもりだったのに...。

『新しい国語 1』東京書籍 (R3)

 一生懸命覚えたというくだらない思い出にそれますが、高校時代に、学校で、全校生徒学年無差別で、月に1回、"漢字テスト"が執り行われ、1年間の総合得点で上位者が表彰されていました。高1の当初は何の興味も無かったのですが、そのうちムキになり、毎回満点を重ねるつもりでバトルに参入。

 結果、高2、高3と、全校生徒で2位、1位になったのですが、高3に1位になったときの賞品が、"明治の板チョコ5枚"という、まるで意味不明物だったので、あまりにも激しくガッカリした強烈な記憶が残っています。賞品は、漢文の先生の個人的好みで選んだのだそうです...。

 20代の頃にペン習字を始めた際、漢字"上"の筆順が違っていたことに、衝撃と憤慨(?)とともに気づき、何度も本を見、納得がいかなくて区立図書館で調べました。

朝日新聞社
"どっちが正解?正しい書き順が複数ある漢字"

 小学校1年の最初に習う漢字を正確に覚えていなかったのか...小学校入学以前の実力だな...。

 その後、"同じ漢字でも、世代により、小学校教科書で教えられる筆順に違いがあるのが日本の教育"だとわかりました。

 あまりこだわらなくてもよかったんですね。そう思うと、自分の覚えていたつもりの筆順との違いを見つけて「へぇ」と驚き笑うのが少し楽しいです。

 書家の田中鳴舟先生の美しい手による『硬筆新辞典 - 学文社(2020年第8版)』を見ましょう(トップ画像も)。

 左欄の筆順は、現代のものになっています。

 行書体の赤い①②は、私が付しました。の筆順は、昭和世代の小学生が習った「ヨコ画が第1筆」、の筆順が現在の「タテ画が第1筆」。

 ついでに草書体は、と親和性を感じますが、どうなのでしょうか。


 "臣"は、上のヨコ画から、と覚えていたのですが、タテ画が先のようです。行書体も当然のようにそうなっていますネ。が、草書体(赤文字は私が付しました)は、いずれも横角が第1筆です。

行書も草書も、楷書の筆順や文部省の意向などもともと何ら頓着しない世界ですので、国の方針に合うかどうかなんてどうでもいい話です。そう考えると、中1の皆さんは、この教科書の問題を何個か間違えたくらいであまり思い詰めないことにしましょう...。

2025/09/24

■ まなぶ ■ 「香害」


 やはりあったのか、こういう言葉。

 以前にも書きました(→ 🔗2024/1/5)。通学時の児童生徒さんたちに感じる洗剤の香り。これを、通う学校教室内で過剰に意識した近所の知人のお子さんが、医療機関の診察を受けた話。

 私は嫌いではないし特別好きでもないです。清潔感を感じて好感が持てる、くらいの意識です。

 んで、先日また洗剤を購入したら、これが強烈な香り。ずっと同じものを使っていればよいのでしょうが、違う製品だとハッキリ強い香りかも。業界のリーディングブランド製品は、合成洗剤として効能に優れているかどうか知らないのですが(それを期待して買うのですが)、価格は高めで香りがきついです。それが日本の家庭ではウケるんでしょうか。「いや、アメリカの柔軟剤(メキシコ産ファーファなど)はもっとキツいから」とおしえてくれた方もいます。どんな世界だ。

 洗濯して屋外で乾燥させる分には何ら気になりませんが、これからの雨天・低温・降雪時の室内干しを考えると、次回からホームセンターの安いプライベートブランド品にした方がいいのかなと逡巡しています。

 こういう時に限って、NHKの記事が、タイミングよく目に入ります。やはり一種の社会問題になっていたんですね。


以下引用;

"中学生以下の子ども1万人のうちおよそ8%が、生活用品の人工的な香りで体調不良になるいわゆる「香害」を経験したことがあるとする調査報告を、国内の学会の研究チームがまとめました。

この調査は、柔軟剤や合成洗剤といった生活用品の人工的な香りが子どもに与える影響を調べようと、日本臨床環境医学会と室内環境学会の研究者たちのチームが実施し、9つの都道県に住む中学生以下の子どもおよそ1万人について、保護者に聞きました。

調査では、「香害」と言われる人工的な香りによる体調不良を経験したことがあるか質問したところ、「ある」という回答は全体の8.3%にあたる856人となりました。

症状としては、吐き気や頭痛などを経験したという子どもが多かったということです。


また、経験があると回答した割合は、
▽未就学児で2.1%
▽小学生で8.9%
▽中学生で12.9%と、
学年が上がるにつれて多くなる傾向がみられたということです。

さらに、どこで経験したか質問したところ、「園や学校」という答えが最も多く、香りが原因で登園や登校を嫌がるケースもあったということです。"
引用終わり。

競うようにして強烈な製品をつくり大いに潤っている化学薬品会社ですが、そういう形での需要という圧力があったのかもしれないですね。会社はもちろん、お客の側でも"豊かな暮らし"を実感しているものなのかな。

2025/09/21

■ まなぶ ■ 教科書を読む - 中学1年国語『トロッコ - 芥川龍之介』


ご存じということで...。

 文庫本で何百回か読んだとしても、芥川初期の短編は、何度でも何度でも手に取ります。

 簡潔で論理だち、ていねいな語り口に近づいてみると、ゾッとするような研がれた刃に触れてしまっている自分...。

 平安古典の作品に材を得たものがその典型です(🔗2023/7/16)が、コレは人から聞いた小さな日常の出来事から想を得たごく短い話。青空文庫なら、1,2回スクロールしたら終わるような短い話です。

 最初のうちは刺激も興奮もなく、ゆるゆるとのどかにけだるく話を運んでおきながら、かすかに一瞬よぎる緊張感;

"茶店の前には花の咲いた梅に、西日の光が..."

 ...春の日にほんのりあたたまって乾きかけたような「意識」という土を、いきなり深く掘り返して冷たく湿った黒々とした生々しい土が露わになるような気が、このささいなセリフで、します(私の無意味な連想です);

"...われのうちでも心配するずら"

 ゆるゆると最初から読み進むのは、その最後の2段落の心理的壮絶さをかみしめたいからじゃないかなと、自分では思っています;

"うちの門口へ駈けこんだ時、良平はとうとう大声に、わっと泣き出さずにはいられなかった。その泣き声は彼のまわりへ、一時に父や母を集まらせた。ことに母は何とか云いながら、良平の体を抱かかえるようにした。が、良平は手足をもがきながら、啜り上げ啜り上げ泣き続けた。その声が余り激しかったせいか、近所の女衆も三四人、薄暗い門口へ集って来た。父母は勿論その人たちは、口口に彼の泣く訣を尋ねた。しかし彼は何と云われても泣き立てるより外に仕方がなかった。あの遠い路を駈け通して来た、今までの心細さをふり返ると、いくら大声に泣き続けても、足りない気もちに迫られながら、... ...

 良平は二十六の年、妻子と一しょに東京へ出て来た。今では或雑誌社の二階に、校正の朱筆を握っている。が、彼はどうかすると、全然何の理由もないのに、その時の彼を思い出す事がある。全然何の理由もないのに?――塵労に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。"

 「ラストの段落はいらないのでは?」という疑問、の余地は、私には存在しないです。これがあるから読み始めるのかも。

 眠っていて、えんえんとあるく夢を実によく見てきました。実際にそうだった -- 駅を3つ分4つ分もあるいた、山で道迷いをして夕暮れまであるいた、など -- も何度も何度もありました。

 あの日の良平のように"手足をもがきながら", "余りにも激し", "いくら大声に鳴き続けても足りない"ような思いで泣く(ことのできる)瞬間って、もう人生には、死ぬまで来ない。でも、あの細々としたひとすじは、死ぬまで続いている、ということ...。二十六の年の、校正の仕事をしている塵労に疲れた"良平"。人生のみこみや華やかなゴールなどこの生活のはるか先にあるのかどうかおぼつかない、という意識がふとよぎるとき、よみがえる記憶かもしれません。私にも意識できる気が、ちょっとだけ、します。

2025/09/18

■ まなぶ ■「中学生レベルの知識」って!?

中学校検定教科書
"あたらしい社会-歴史"
東京書籍

 「中学生レベルの知識しかない」「中学生レベルの知識にとどまる」と、たまに、目にしたり耳にしたりします。

 「低いレベル」のつもりでおっしゃっているの?

 この表現を見聞きするのは、英語と歴史・公民分野なんですが...。

 さすがに、中学校(都立高校県立高校合格レベル)の数学や理科1&2分野を蔑んで「中学レベルの数学知識しかない」「中学レベルの物理化学生物地学の知識しかない」と豪語する人は見かけないです。

とある"投資解説マンガ"より
無断で借用...

 "中学英語レベル"って...。ダメなレベルのことなの?

 あの、そのレベルを縦横に駆使できるなら、アメリカで日常生活を送る分には何の痛痒も感じないのでは? 

 基本的な英単語2,000語で、日常会話なら、90%近くをカバーするようですよ。

TOEICは2,000語で9割をカバー
🔗 English Club (外部リンク)

 最も著名な英英辞書の1つである"Longman英英辞典"は、辞書掲載の23万項目すべての英単語の説明文に、2,000語程度に絞った"基本英単語"のみを使っています。


 中学校の英文法は、ゼロから始めて3年間で関係詞や複文構造を含む直説法の全てのみならず、仮定法なら仮定法過去まで学ぶんだし、その語彙力は、例えば検定教科書の1つ三省堂"New Horizen"(令和7年2月)では、3年間で1,700語に及びます。

Google AI 検索

 それじゃだめなの? 日本の中学レベルの英語力さえあれば、現地での日常生活も、大学留学でもビジネスでも、そう困らないのでは?...もしホントに使いこなしているならば...。 アメリカの大学で英米文学を専攻するとかアングロアメリカン法を学んで現地でバリスター弁護士やソリシター弁護士になるとかいうつもりじゃなければ...。

 ただ単に、積極的に使いこなせないってことでは? それは中学教育が低レベルなわけじゃなくて、あなた個人が...。

 歴史や法律経済などの公民分野でも、いかにも"中学レベル"を、低レベル知識の喩えとして見下しているような表現が...。たとえば;

"理系の日本史音痴ですので江戸時代の将軍の評判などは中学生レベルの知識にとどまっていましたが、さすがに「犬公方」というのは知っていました。「生類憐れみの令」を出して人間よりも犬猫のほうを大事にした愚かな権力者、というイメージです。"

という、ネットの個人ブログによく見かける表現。

 あの、今の中学校では、そんなラノベや通俗歴史小説みたいな珍妙な教え方や"犬公方"という蔑称は、少なくとも教科書レベルでは存在しないのですが。

 トップ画像は、検定教科書の1つ東京書籍"新しい社会-歴史"(令和7年2月)。

 「生類憐れみの令」という1つの法令は存在しなくて、関連した社会保障系政策に基づく諸法を、被統治者側が象徴的にまとめて呼んだ俗称です。


 1980年代半ばから、日本史の学会やその解釈は、非常に多様な要因(ITの普及や資料の理化学的解析技術)により爆発的な展開を遂げているようです。初代から3代の将軍の武断政治が終焉し、5代の彼の頃から社会保障的見地で、また、直後の正徳の治や元禄文化頃から貨幣経済的見地で、この中央集権体制を見直す流れが、現在の中学検定教科書の表現の背景にあります。

 「人間よりも犬猫のほうを大事にした」「犬公方」という"バカ殿"像は、わかりやすいステレオタイプで俗耳に入りやすいのですが、この"中学生レベルの知識"で高校受験に臨んだとして、合格すると思いますか。幕藩体制をアンシャンレジームと位置付けて憎んだ大日本帝国による歴史教育(戦後しばらく残存した"帝国史観")ならどうだったかはわからないのですが、少なくとも、現在の"中学生レベル"では無い、のは確かです。

「中学生レベルの知識」という表現を使う人って...。

2025/09/07

■ まなぶ ■ 教科書を読む - 中学1年国語『月夜の浜辺 - 中原中也 』


(東京書籍「新しい国語1 (令和3年)」)

昨夜は月齢14の"十五夜"の月が煌々と灯り、眠っていられないほどでした。日の出前の闇夜の4時にはもう厚い雨雲に閉ざされてしまいました。

 明け方、黒い山塊となった岩木山に見えつ隠れつする配置となる、西に傾きかけた上弦から下弦にかけての月の風情が、年間を通して、個人的には美しいと思う月の姿です。🔗2024/9/19

 それゆえ、中原の海辺の月の光景は、私はほぼ見たことがないです。が、"海にある月の光景"は、遠い憧れでもあり、うっすらとした恐怖でもあります。(🔗2024/10/12)

 中1でこの詩に出会ったら、ショックがありそうです。あった人がイマこれを書いているかもしれません。中3で寺山修司に会ったときも同じような...。

 言葉を、ていねいにじょうずに、しかし、人さまに向けたり、人の理解を得ようとしたり、"よそ行き"のために...というつかい方をいったん置いて、誰のためでもない、自分のためにつかって、できるだけいっしょうけんめい表してみたら、こうなのかもしれないな、とおもいました。

 でも、その醸し出す、ほの暗いなかで、何かが月明かりで小さく光っている光景(それが"きれいな貝がら"なら凡百の駄作でしょう)...。いまいる背景が、"海","闇"という深淵だけに、2つの小さな明りがあるせいで、かえって"恐怖心"が、ほんのりと、でも大きな背景として、ひろがっている気がするんです。


   -  月夜の浜辺  -


月夜の晩に、ボタンが一つ

波打際に、落ちてゐた。


それを拾つて、役立てようと

僕は思つたわけでもないが

なぜだかそれを、捨てるに忍びず

僕はそれを、袂に入れた。


月夜の晩に、ボタンが一つ

波打際に、落ちてゐた。


それを拾つて、役立てようと

僕は思つたわけでもないが

   月に向かつてそれは抛れず

   波に向かつてそれは抛れず

僕はそれを、袂に入れた。


月夜の晩に、拾つたボタンは

指先に沁み、心に沁みた。


月夜の晩に、拾つたボタンは

どうしてそれが、捨てられようか?

2025/09/03

■ まなぶ ■ 教科書を読む - 中学1年国語『矛盾 - 「韓非子」より』


中学1年生の国語で学ぶ「漢文」は、歴史的仮名遣いの"書き下し文"のみです。その下に現代語訳が。白文に訓点返り点を打った"訓読文"は中学2年生になって初登場となるようです。

 "楚人に盾と矛とを鬻ぐ者有り。之を誉めて曰はく、

「吾が盾の堅きこと、能く陥すもの莫きなり。」と。又、其の矛を誉めて曰はく、

「吾が矛の利きこと、物に於いて陥さざる無きなり。」と。或ひと曰はく、

「子の矛を以つて、子の盾を陥さば、何如。」と。其の人応ふること能はざるなり。"

 訓点も句読点も、教科書(東京書籍『新しい国語1(令和3年)』)のまま書き写しています。"或ひと"と"其の人"の表記に矛盾が...(じ、冗談ですよ)。

 中1の方にとってみれば、訓読文は無いにしても(1枚めくってすぐ『古典コラム』と称する小さい活字のコーナーに出てくるのですが)、歴史的仮名遣いだけでも、違和感でいっぱいではないかとお察し申し上げます。

 とある自称「県内有数の進学校」の高校2年生の「現代文」の教科書をうっかり拝見した経験があるのですが、鷗外の『舞姫』の雅文体本文脇に、0.2mmのシャーペンで、現代語訳(?)を必死に書き込んでありました...。書き込むその努力がスゴいッつっていいんでしょうか。当然のように(?)4ページ目くらい書き込んだところで挫折していました...。私には衝撃的でした。ぜひ中1から古典には親しみましょう。

 この中1教科書は、次のようなおすすめ4行でこの単元を終えています:

 " 声に出して読んでみるとよく分かりますが、このように中国古来の漢文を日本語として読んだ文章からは、格調が高く引き締まったリズムを感じ取ることができます。それに対して、日本古来の大和言葉には、しなやかな美しさがあります。その二つが存在することで、日本語はより優れた言葉に高められてきたのです。"

2025/08/30

■ まなぶ ■ 教科書を読む - 中学1年国語『オオカミを見る目』


山あいの道をさんぽするのも、クマさんを怖がるようになったので、家にいて本を読むことにします。

 手元にたまたま個人的に購入した検定教科書が何冊かあるので、私でも理解できる範囲で、少しずつ読んでいこうかなと思います(私は学校関係者でも生徒の父兄でもないです)。

 『オオカミを見る目』 高槻成紀 (東京書籍『新しい国語1(令和3年)』)というお話です。

 要約;

私たちのオオカミに対する印象は、ヨーロッパ童話のような"ずるがしこくて悪い動物"。

-ヨーロッパでは、麦を栽培し羊を飼う農牧業。肉食動物のオオカミは羊を捕食し農牧業にとって忌まわしい存在。加えて、中世暗黒時代のキリスト教の影響で、羊や人まで襲うオオカミを悪魔のイメージと重ねた。

ところが日本では古来、オオカミは神の使者のように敬われ、神社で祀られていることもある。

なぜなら、古来日本は稲作菜食の農業国家。その生活基盤となる稲や畑を荒らすのは、シカやイノシシ。肉食獣のオオカミはこれら草食獣を捕食することから、日本においてオオカミは、農業を守り、ヒトの味方である存在だったからだ。

イマ、日本人は、そのような目でオオカミを見ていない。むしろヨーロッパ的な憎しみに基づき、明治期には撲滅作戦が展開され、明治38年にオオカミは日本から絶滅した。

オオカミに対して日本人が手のひらを返すような経緯になった理由は2点。

1. 江戸中期、海外から狂犬病が流入、オオカミが罹患すると、獰猛となり、それまで襲わなかったヒトにも噛みつき、全国に流行することとなった。

2. 明治期に、富国強兵策のもとで、欧米の価値観や教育が広く普及した。

以上の2点に加えて、感染症ジステンバーの流行、開発による生息地の減少、捕食できるシカなどの激減により、オオカミは絶滅した。

現在、増えすぎたシカによる食害などは、オオカミの絶滅が自然の生態系バランスを崩したことが一因だ。

- オオカミに対する日本人の見方が変遷した例によって、私たちは、人の考えや行いは、置かれた状況によって異なり変化するものだということを心に留めておきたい。

 内容に対する読後感や感想は、たいていくだらないものになるので、ナシで。

 もしも教科書のココが定期テストの範囲に指定された中1の皆さんは、これを何度も何度も読んで試験に臨むことでしょう。1回読んだだけで感想を書いているブログの浅はかさにくらべると、何度も読んだら自然と深    く自分で考え・咀嚼し・栄養となり、それが中1の生徒さんの知性をつくっていくんですねぇ。あやかれるよう、本は何度も読んで音楽は何度も聴いて、考えるクセをつけたいと思います。

2025/08/23

■ まなぶ ■ 並んで待つ - 大学入試センター試験2012年追試験 英語第6問


待ち行列に関する話題の続きです(🔗8/19)。

 今度は数学でなくてセンター試験の英語で、日常的に"並んで待つ"話題を考察していますので、和訳してみます。

 大学入試センター試験の内容は、待ち行列に並ぶことの苦痛を和らげる改善策に関し、多面的に考察し、実に要領を得ていると感じます。語数制限のあるコンパクトな問題文にするために、長時間または大人数でまたはその両者を投じて、大いに推敲したことでしょう。

 なお、6つあるパラグラフの冒頭の見出しは、設問Bの組み合わせ問題の選択肢を、私が選んで和訳したものです。

---...---...---

(1) はじめに
    列に並んで待つことは、日々の生活では、避けられないし、また不快なこともしばしばある。バスや電車に乗るときに待ち、スーパーマーケットでレジに並んで待つ。驚くほど長い時間を待ち行列で費やしている。例えば、平均的なアメリカ人は一生のうちに2年から5年も並んで待っていると言われている。これについて私たちに何かできることはあるだろうか? 実は、人々の列への並び方は、昔とは全く同じではない。列に並ぶことは、慎重な研究対象となっていて、待ち時間を短縮するためにさまざまな対策が講じられてきた。とは言うものの、待つという経験は、待っている時間の長さだけでなく、待つことをどう感じるかによっても左右される。心理学的研究で得られた知見は、待ち時間に対する人々の認識を改善するのに貢献してきたのだ。

(2) 待ち状況に関して、説明が得られること 
    待ち時間をより良いものとする方法の一つは、待っている人にハッキリとした情報を提供することだ。"どれくらい待てばいいのか"、"イマ自分が並んでいるのがこの列でいいのか"、などがわからないと、待ち時間は長く感じられ、いっそう苦痛になる。そのために、一例として、駅では、"次の電車の到着時刻と到着番線"が表示され、音声案内される。"どのくらい待つのか"や、"どこに並べばいいのか"を告げることは、人々が待ち時間とうまくつきあえるようにしてあげるのに欠かせない。

(3) 待つ人の気を惹いておいてあげること
    「手持無沙汰な」時間を減らすことも有用だ。たいていの人は、待っている間、何か気を紛らわせるものがないと落ち着かない。何かやるべきことがあれば、時間などスグ過ぎていくように感じるものだ。そのため、病院やクリニックの多くは、患者がぱらぱらとめくれる雑誌が置いてあるし、レストランの中には、客が席に案内されるのを待つ間にメニューを手渡してくれるところもある。

(4) 待ち行列の管理に公平感があること
    待つという体験を改善するまた別の方法は、"公平"とか"社会正義"といったものを尊重することだ。後から来た人が先にサービスを受けることで、イライラはつのる。これが起こりがちなのは、複数の列に並んでいる場合だ。列を1つに絞ることで「先に来た者が先にサービスを受ける」という原則を徹底することができる。

(5) 以上の改善策を種々組み合わせている事例
    アミューズメントパークなどは、上に例示した解決策を、どううまく取り入れているかを示す好例だ。アミューズメントパークでは、来場者に待ち時間を告げている。また、来場した待ちの客を楽しませようと、互いにやり取りするようなゲームや着ぐるみなどコスチュームを着たキャラクターを待ち行列に配置している。さらに、あとから来た人が、間違って先にサービスを受けることがないよう、来場者を一列に並ばせている。これらに加えて、表示する待ち時間を、予想されるよりも長く告げている。というのも、"思っていたより待ち時間が短い"ほうが、来場者の気分を良くするからだ。なお、さらに、待つ来場者たちが、長い行列を見てビビって離脱などしないよう、行列の先が視界に入らないよう、待ち行列を配置している。アミューズメントパークでは、客が長時間にわたって列に並ぶため、"待つこと"について、その心理的影響を、きわめて重大なものと考えているのだ。

(6) 結論
以上挙げたとおり、並んで待つことの心理的な面を検討することによって、並ぶという体験は、著しく改善できる。研究者たちは、今後も、待ち時間の質を高めようと、アイデアを次々と繰り出す点は疑いがない。他方で、私たち自身も、待つことに対する意識を変革できるとすれば、列に並ぶという体験を、いっそう良いものにできるかもしれない。世の中はますますせっかちになり、今すぐ結果を求めがちのようだ。もうちょっとゆっくりいこうぢゃないかと思えるようになれば、みんなが恩恵を受けられるかもしれない。いやむしろ、待ち時間というものが、生産的でこころ楽しいものにだってなりうる。友人とおしゃべりしたり、スマホでSNS・メールをチェックしたり、好きな音楽を聴いたり。待つということは、今後も依然として私たちの生活には避けられないのだが、それをいっそう楽しい体験に変えることは、可能なのだ。

2025/08/19

■ まなぶ ■ 待ち行列の所要時間 - 青森県立高校入試 H29(2017)年 数学第5問


健診による体調不良からやっと回復しました(🔗8/16)。やはり土日まるまる体調不良でしたが、昨日月曜日の午前中もずっと、しくしくと胃痛、ごろごろと下腹部...。

 市の定期健診にともなう侵襲の過大感を分析すると、2点。
1) 胃透視検査。絶食空腹の胃に腹いっぱい硫酸バリウムを飲み、直後に緩下剤と水を腹いっぱい飲み、直後に食事をするよう推奨されること。胃痛と下痢と脱力感と疲労感。

2) 待ち行列に長時間並ぶ精神的ストレス。

  1)の胃がん健診については、今後、集団検診での胃透視検査をヤメて、毎年個別にいつものKクリニックで胃内視鏡検査を受診することにします(🔗2025/1/30)。

  2)は、待ち行列の順位1位を確保することと、待ち行列の数十番目以降にいて待つこととを衡量すれば、前者の方が精神的ストレスは小さいと判断し、毎年可能な限り頑張ります。なんだか子どもっぽいですネ。でも心の安らぎが得られるならそれで。

 県立高校の入試問題に、待ち行列の、待ち時間の計算や終了時間の計算をさせるものがありましたので、「設問を解く」のではなくて、「それを使って自分のためにチョっと考える」にとどめます。

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【5】 ある中学校で、入学予定者100名に新入生説明会を行うことになった。図は、そのときに使用する[ 資料 ]の一部である。

[ 資料 ]
① 受付で1番から100番までの番号札を受け取ってください。1番から50番までが1班、51番から100番までが2班になります。
② 生徒会役員が誘導するので、指示があった班は書類点検を行う場所の前に並んでください。
③ 番号順に1人ずつ、書類点検、内履き選び、運動着サイズあわせの順番で進んでください。

入学予定者1人につき、書類点検に20秒、内履き選びに30秒、運動着サイズあわせに50秒かかるとき、次の問いに答えよ。


(1) 図2で、Aは書類点検の時間、Bは内履き選びの時間、Cは運動着サイズあわせの時間、↔ は待ち時間を表している。
例えば、3番の人の運動着サイズあわせが終わるまでにかかる時間は200秒、そのうち待ち時間の合計は100秒である。

1班から始めるとする。

ア. 7番の人の書類点検が始まるまでの待ち時間は何秒か。

イ. 10番の人の待ち時間の合計は何秒か。

ウ. 午前9時に、1番の人の書類点検を始めるとき、37番の人の書類点検が始まる時刻は何時何分何秒か。

エ. 1班のn番目の人の運動着サイズあわせが終わるまでにかかる時間は何秒か、nを用いて表せ。

(2) 午前9時に、1番の人の書類点検を始め、45番の人の運動着サイズあわせが終わった時点で、2班の書類点検を始めるとする。

ア. 45番の人の運動着サイズあわせが終わる時刻は何時何分何秒か。

イ. 51番の人の書類点検が始まってから運動着サイズあわせが終わるまでの待ち時間の合計は何秒か。

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 「解いて解説」するつもりはないんですが、解く分には楽しいかも。

 イマ考えてみたい話は、「コレもし市の健診なら...」というコトですよ。

 "Aは書類点検、Bは内履き選び、Cは運動着サイズあわせ"にかかる時間という設定ですが、たとえば、"Aは問診(20秒)、Bは血圧測定(30秒)、Cは採血(50秒)"などと考えれば、自分がどのくらい待つかなぁと、やや現実味を帯びた問題になりそうですネ。

  A, B, Cの処置をいま『ノード(関門)』と名付け、ノード間を『待ち時間』とします。待ち行列を『キュー』と名付け、早く並んだものが早く処置を受けるという「先入先出法(FIFO)」のルールを貫くとします。

  キュー1位の人は、待ち時間の合計000秒。計100秒で3つのノードすべてを終えます。

  キュー2位の人は、待ち時間の合計050秒。計150秒で終了です。

 キュー3位の人は、待ち時間の合計100秒。計200秒で終了です。

 ということは、この数列を、を用いた一般項で示すと;

キュー n 位の人は、待ち時間の合計"50(n1)"秒。計"50(n1)"秒で終了です。

 たとえば、設問(2)ア.の、45番の人(キュー45位)なら、n  = 45を代入して、
50(45+1) = 2300(秒)、すなわち38分20秒。
ゆえに、時刻9時38分20秒に、本日の手続きは終了となります。
45番目にならんだら、40分ほどかかるということですね。

 あなたが朝7:00開始の健診で1番目に並んだら、100秒後 (1分40秒)、つまり時刻7時1分40秒で本日の健診は終了です。
 一番に来たら1分半で今日の健診は終わりだよ。

 あなたが朝7:00開始の健診で100番目に並んだら、n = 100を代入して、50(100+1)=5050秒後(84分10秒)、つまり8時24分10秒に終了。3つの検査そのものは合計でたったの1分半で終わるのですが、待ち時間の合計は1時間22分30秒。
  100番に来ちゃったら1時間半もかかって、終わるのは8時半だよ。

 先日書いた通り、市の健診は、ノードが13あり、それぞれ、例えば、問診で5分、尿検査で2分、胸部X線で3分、心電図で3分、採血で3分、胃透視検査で5分など、ずっと多くの項目数とずっと長い所要時間です。3時間も4時間もかかり、「朝7時に受付の市の健診を終えて帰宅したらお昼ごはんの頃」というのがあたりまえという気がします。

 運営側の市役所職員の健診企画担当者の方々が、むしろこの計算をあらかじめしてくれた上で、保健師看護師の人数、血圧測定器の台数、心電図の床数、採血の床数を配賦計算してくれれば、たいへんスムーズになるに違いありません...。市役所の皆さん、たまに県立高校の入試問題も解いてみてください...!?

2025/07/09

■ まなぶ ■ 角川書店ビギナーズクラシックス「万葉集 ~『二上山』」坂口由美子


読んだうちの、ごく一部を、抜粋します。(以下最終行まで抜粋です): 


天武天皇には、
皇后鵜野皇女(うののひめみこ)(後の持統天皇)との間に草壁皇子(くさかべのみこ)、
大田皇女(おおたのひめみこ)との間に大津皇子(おおつのみこ)大伯皇女(おおくのひめみこ)、
があった。
皇位継承については、一歳年長の草壁が皇太子であったが、病弱であった。他方、大津皇子は、大柄で容貌も男らしく、漢詩にも武道にも優れ、豪放磊落で人望が厚かった。草壁を脅かす存在であった。

天武天皇が崩御して一か月もたたないうちに、「天皇暗殺陰謀」の罪で大津皇子が捕らえられた。時に大津二十四歳。草壁皇子の安泰を図ろうとする皇后(後の持統天皇)の思惑が絡んでいたと考えられる。

事件の直前に、大津は、ひそかに、伊勢にいる姉の大伯皇女をたずねた。巫女である姉に神意を聞く気持ちがあったのかもしれない。

大伯皇女は十四歳から伊勢神宮の斎宮となり、すでに十年余り。斎宮とは未婚の皇女が神に奉仕する仕事で、天皇の即位ごとに選ばれる。母大田皇女はすでになく、神に仕える大伯皇女にとって大津は唯一の頼もしく愛しい存在でもあっただろう。


" 我が背子を 大和へ遣ると さ夜更けて 暁露に 我が立ち濡れし "

一〇五 大伯皇女

愛しい弟を大和に旅立たせるとて、私はひっそりと見送ったのだった。夜更けにいつまでもじっと立ち尽くしていた、とうとう夜明けの露にすっかり濡れて。


" ふたり行けど 行き過ぎかたき秋山を いかにか君がひとり越ゆらむ "

一〇六  大伯皇女

ふたりで行っても越えにくいあの寂しい晩秋の山を、いまごろあなたは、どのようにしてたったひとりで越えてゆくのだろう

訪ねてきた大津を都へ帰す時の大伯の歌。「大和へ遣る」には、帰したくないのに行かせる気持ちが現れており、大津を待ち受ける暗い運命を予感するような響きがある。晩秋の夜明けの闇の中に送り出し、茫然とそのまま立ち尽くしていると時が過ぎ、やがて未明の露がおりて着物もすっかり濡れてしまう。

あの人は今ごろ寂しい山のどのあたりを一人越えているのだろうと、闇の中、目を凝らし耳を澄まして愛しい人の姿を求めるのである。「秋山」には、死者の赴く所という意味もあり、不吉なイメージにつながっていく。


この直後に大津皇子は逮捕され、その翌日処刑される。


大津皇子、死を被りし時に、磐余の池の堤にて涙を流して作らす歌一首

" ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ "

四一六  大津皇子

磐余の池に鳴く鴨を見るのも今日限りで、私は死ぬのだろうか。

「雲隠る」は、死を意味する。大津の魂は鳥の姿になって、独りあてどなく遠い雲のかなたへ飛んでゆくだろう。そして、明日も変わらず、鴨は磐余の池に鳴くだろう。


天武天皇の崩御に伴い、大伯皇女は十二年間務めた斎宮を解任され、都に戻った。


" 神風の伊勢の国にもあらましを 何しか来けむ 君もあらなくに "

一六三  大伯皇女

伊勢の国にいた方がよかったのに。いったい私は何のために都に帰って来たのだろう、あなたももうこの世にいないというのに。 

大津の死後一か月して詠んだ歌。都から離れ、斎宮としての厳しい日常の中で、弟の処刑の知らせは、現実味を伴わないものだっただろう。都に戻れば、もしかしたら弟に会えるかもしれないというかすかな希望。しかし、都に戻って残酷な現実を突きつけられた彼女は「何しか来けむ...」とつぶやくばかりである。茫然として打ちのめされる。

大津皇子の屍は、二上山に埋葬される。二上山は葛城連峰の山で雌雄二峰に分かれ、大津の墓所は雄岳の頂上にある。


" うつそみの人にある我れや明日よりは二上山を弟背と我れ見む "

一六五  大伯皇女

この世の人間である私は明日からは、この二上山を弟だと思って眺めていよう。


" 磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに "

一六六  大伯皇女

岩のほとりに咲く馬酔木の花を手折ろうと思ったけれど、せっかく手折ったところで、それを見せるはずの弟がこの世にいるとは、誰も言ってくれないのに。

「うつそみ」とは現世のこと。半年近くたってようやく、大伯皇女は弟の死を現実のこととして受け止めようとする。生きている自分とは違う世界に行ってしまったことを自分に納得させようとする。しかし、頭では理解できても気持ちの切り替えは簡単ではない。馬酔木の白い小さな花を思わず手折ろうとして、無意識に弟に見せようとしていたことに気づき、はっとする。当時は、「死者に会った」と言って遺族を慰める習慣があった。しかし、大津は処刑されたのだから、誰もが口をつぐんで、言ってはくれない。


これら大伯皇女の歌には、何の技巧もなく、それだけ愛する者を突然、それも普通でない形で喪った人間の悲しみの深さが、切々と伝わる。



2025/03/26

■ まなぶ ■ アレルギーの原因の一考察? - 大学入試センター試験2006年本試験-英語第3問C


アレルギーは何かお持ちですか? その種類は多いでしょうが、食物アレルギーをいったん置いて、春先の今の季節は、花粉、ハウスダスト、寒暖差などさまざまなアレルギーが、最も発症しやすい時期のようですね。

 私はまったく縁がないのですが、この時期つらそうな方々と接するにつけ、胃がキュっと痛くなる思いです。

 「"アレルギー"なんて昔は無かった」という主張もありますが、・認識されていなかった、・大気汚染や気象変動の有無、・食生活の変化、など、様々な要因で、昔は"認知件数が少なかった"が、現在は"分類・体系化され、数も増加した"と言うべきでしょうか。

 大学入試センター試験の英語科の問題に、アレルギーの原因について考察しかけた(?)ものがあるので、季節柄、ちょっと目を通してみます(2006年本試験 英語3C)。あいかわらず拙訳で恐れ入ります;

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アレルギーに悩まされる子どもの数は、過去30から40年で激増したが、科学者たちは今なおその原因を模索している。中には、大気汚染が増加したせいだという者もいるが、都市部の子どもだけでなく、一般的には汚染の程度がずっと低い地方の子どもにもアレルギーは共通して見られるということもわかっている。 

アレルギーの増加に対する説明として現在有力なのは、いわゆる『衛生仮説』 である。その基本となる考えは、 清潔すぎる環境で育てられた幼い子どもたちの方が、アレルギーを発症する危険性が高いというものだ。今日では、人々は、風呂に入ったり衣服を洗ったりするのは、昔よりも頻繁だ。また、電気掃除機のおかげで、家の中のほこりは昔よりも少ない。こうした変化の結果として、子どもが幼いときにさらされるアレルゲン、つまりアレルギーの原因物質が、以前よりも少ないということであり、これはつまり、子どものからだが、アレルゲンに対する自然の免疫をつくれないということにつながる。簡単に言うと、アレルギー原因物質の増殖を防ぐ自然の抵抗力をつけるためには、そうした物質にさらされることが必要なのだ。 

小家族化する傾向も、幼い子どもが家の中でアレルゲンに触れることが少なくなっていることを意味する。 実際、兄や姉のいる子どもは、アレルギーに対し、より抵抗力があることがわかっている。同じことが、家の中でペットを飼っている子どもにも言える。そのような子どもは、たとえばごくふつうに見受けられるネコやイヌの毛に対するアレルギーになることはずっと少ない。

幼少時により多くの種類のアレルゲンにさらされることが、子どもが強い免疫を発達させる助けとなるという点で、科学者らの見解は一致している。とは言え、遺伝、家庭の収入、さらには両親の教育レベルでさえもが、子どもがどれほどアレルギーにかかりやすいかということに何らかの影響を持っているとするデータもある。したがって、『衛生仮説』は、重要な研究領域ではあるが、過剰な清潔志向だけがアレルギー患者の急激な増加の原因だと決めつけることは、まだできない。 

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 この『衛生仮説'hygiene hypothesis'』は、なるほど、と納得したり思い当たる節もあったりするのですが、でも、ごく一面的な考察ではないかな。とりわけ、いま罹患している人たちがみな賛成してくれるとは思えないです。正確な医療の記事ではないので、議論してもしょうがないかもしれませんが、このロジックを敷衍すれば、逆に不衛生であればあるほど強い免疫力がつくのだろうか、と疑問が湧きます。ものすごいホコリの中で暮らしていたら、やはりむしろアレルギーになりやすいのでは?

 自分ではどうだろうかと振り返ると、3点、心がけるというより気になる箇所として、

1) よく「あるく」記事をここに書いていますが、寒い季節だから花粉の季節だからという理由でマスクをしないようにしています。また、台所仕事もPCハード分解組付けもチャリ分解組付けも、「なるべく素手、ただし手洗いは頻繁に」。いずれも、異物質微生物曝露を意識してこころがけているんですが、どこまで正しいかは不明。誤った場面もありそうです。

2) 毎日机に向かう生活なら、やはりイマの日本で暮らす限りは、床に掃除機とモップはかけ、デスクをマメに拭き掃除はしたいです。チェアはメンテ性を考慮して30年来アーロンチェアなどのメッシュ地製のみを選んでいます。思うんですが、目の前のPCのキーボード内部やPC本体内部は、想像以上ではないでしょうか。半年でアレルゲンとなるバクテリアが豊かに繁栄を謳歌している気がして、つい想像すると思い立って分解清掃しています。PC前での飲食は厳禁にしています。ノートPCを使いたくない理由の一つに、キートップの分解清掃がめんどうで不潔になりがちな点もあります。

3) クルマのダッシュボードとフットマット。毎週拭いています。座席は、軽トラは撥水ファブリック素材、ロードスターは革製です。いずれにしても、ウェスで拭き取れる素材を意識して選びました。対して、乗用車や鉄道や航空機の「布地」がちょっと怖い...って、気にしすぎでしょうか?

1)は、多種多様なヴィルス等アレルゲンに短時間曝露、2), 3)は、同じアレルゲンに長時間曝露しない、というつもりです。それで免疫能の学習を増やし負担を減らす、などというつもりですが、どのくらい根拠があるかと言うと...、"おまじない"くらいです。

 患者でもないし医療関係者でもない私のような一般の生活人が、アレルギーに罹患しないで済む対策を簡単に理解するために、Google AI先生に訊いてみました;


 AIの説明【遺伝的要因】は、上のセンター試験本文第4段落でも挙げられていますね。『衛生仮説』の主張は、上の【環境要因】の4点目「幼少期に多様な微生物(=アレルゲン)に触れる機会が少ない」と要約されている点、一致した見解でしょうか。いずれにせよ、どれかたった1つの要因でアレルギーになるわけじゃなさそうです。

 アレルギーと縁がないあなたや私が、今後アレルギーになるかもしれないとして、【遺伝的要因】と【環境要因】は、こちらの手に負えないのですが、【生活習慣】の4点なら、自力でコントロールできそうですね。でもこの4点って、どの1点を備えても、アレルギーに限らず、いずれQOLの低下や何らかの病気に直結するのはあたりまえなんじゃ?...と、わかっちゃいるけどなかなかコントロールしきれないのが現実でしょうか。

2025/02/07

■ まなぶ ■ お誕生会は、レストラン貸し切りでするもの...なの? - 青森県立高校入試問題 - 英語 - 平成21年第5問


あなたは8歳で、遠く離れた所に暮らす祖父母に会いに行くとしましょう。めったに行けない特別な日。あなたはうれしいです。

 ところで、何がうれしいですか? "家族みんなで過ごす特別な休日の気分"という雰囲気が大きいですよね。もっと突っ込んだ「うれしさ」の実利的本体は? 現金をもらえる? まだお金の価値はよくわかっていないからそれは除外。子どもなら、「いとこたちと遊べる」「いつもと違うおいしいものが食べられる」という期待が大きいのではないでしょうか。

 後者について、2通りありえます。

i) おばあちゃんお手製の、あのごちそうにありつける

ii) おじいちゃんおばあちゃんが外食に連れて行ってくれる

 i)は、たとえば、盆暮れという特別な日に連れて行ってもらえる、農家の祖母のつくる"甘い茶わん蒸し"。茶わん蒸しなんか、今となっては大したものじゃないかもしれないのですが、昭和の時代、自家製となると、たいへんな手間のかかった特別な日のごちそうです。孫たちの顔を思いながら、ただでさえ忙しい盆暮れの時期の、前の日朝早くから、20も30もの蒸椀、巨大な鍋、膨大な材料の山のなかに祖母はうずまるようにして仕込みます。

■ ii)の経験は無いのですが、現代では当然あるでしょう。せっかく孫が来るのだから、ひとつ豪華盛大に、高級旅館の割烹、高級ホテルのレストランなどに、予約を取って、孫たちを引き連れて、クルマで乗りつけます。孫にとっては、ハンバーグステーキ&ビーフシチューセットが、いつも食っているのと違って葡萄酒みたいなお酒の匂いがきつくて、大人向けの味なのかな。

■ その孫たちがティーンエイジャーになる頃、祖父母は他界。

i) あの茶わん蒸し、もしかして盆暮れに準備するのってたいへんだったんじゃないのかな。もう二度と...。祖母の手仕事を味わえた幸せが、今になって実感され、それは生涯続くでしょう。

ii) あの高級ホテルのレストラン、もう二度と...、って、ふつうにまだあるしぃ、今度は親にあのハンバーグを食わせてもらえるかな...。味は...思い出せないが、ま、ハンバーグだからいいじゃないか。

 そのティーンエイジャーが親になる頃、父母は他界。

i) 祖母のあの茶わん蒸しは、もう永遠に失われたけれど、もう大昔の記憶でも、自分が生きている限り覚えているあの味わい。自分にも他人にもとうていマネできない複雑な料理の仕込みに、祖母のまごころを実感。

ii) 祖父母の家に行くたびに、あちこち外食に連れていかれたのが、もう大昔のことで記憶は薄れ、ドコで、ナニを食ったかなど忘れてしまった。けど、ま、外食に連れて行ってくれる人たちだったのは確かだったかな。

 i)は私の経験です。ii)のように「家族で外食」の経験は絶無です。私にとってはi)が貴重な思い出ですが、i)でもii)でも、今どきそう重大な問題ではないかもしれません。

 まったく同じ事例とはいえないのですが、特別な日、と言える「お誕生日」。お誕生会は、自宅で家族で? それともレストラン貸し切りで? 青森県立高校入試問題の場合を見てみましょう。あい変らず恐れ多くも拙訳で:

"ジェニーは8歳。おばあちゃんが大好き。ジェニーの家は祖母の家から遠く、そうたびたびは会えなかった。

ある日ジェニーが「お父さん、私はおばあちゃんの誕生パーティーをしたいの。どう?」と言った。「それは素晴らしいね。駅の近くに良いレストランがあるよ。ロブスターキングっていうんだ。私は店の主をよく知っている。そこでパーティーを開こう。私が予約しておこう。」「ありがとう、お父さん。」

父親は電話に駆け寄り、レストランに電話して、パーティーについてウェイターに話した。「申しわけないのですがブラウン様、店主は今ここにおりません。お嬢様の考えはわかりますが、来週の日曜日は閉店しております。」ブラウンさんはそれを聞いて悲しかった。「わかりました。ありがとう。店主さまによろしくお伝えください。」

いくつか他のレストランにも電話をしたが、予約を取ることができなかった。ジェニーは泣き始めた。「お父さん、私たちどうしたらいいの。」「心配ないよ、ジェニー。私がレストランを見つけよう。」

父がずっと電話帳でレストランを探しているときだった、電話が鳴った。ロブスターキングの店主のグリーンさんからだった。「ブラウンさん、お嬢様が、おばあ様のために来週日曜にここで誕生パーティーを催したいとのこと、ウェイターから聞きました。」「ええ、でもお店は閉まっていると。」「何人の方がパーティーにお越しですか?」「4人です。」「実はその日ここで、私の父の誕生パーティーを開く予定なんです。2つのパーティーを一緒に開くのはいかがでしょう? 人が多いほど楽しいでしょう。」「本当ですか。あなたのお父様にお願いしていただいたのですか?」「そうです。父は2つの楽しいことがあれば、みんなもっとうれしくなるだろう、と言っています。ですので、どうぞレストランにお越しください。ビュフェ式のパーティにします。」「どうもありがとうございます、グリーンさん。」

「ジェニー、良い知らせだよ!私たちはロブスターキングでパーティーを開けるよ。盛大なパーティになるよ、きっと。」「ほんとう? どうやってできるようにしてくれたの?」父は電話での会話をジェニーに聞かせた。

2つの誕生パーティーが始まり、20人の人々が集った。ジェニーはプレゼントを祖母に贈った。ブラウンさんは自分の娘にこう言った。「ジェニー、店の主のお父さんはステキな人だよ。彼の親切なことばのおかげで、今日、私たちはパーティができたんだということを覚えておきなさい。」すると、彼女は店の主の父のところにあゆみ出て、「ご親切をありがとうございます。私はあなたのことは忘れません。お誕生日おめでとうございます!」彼女は彼にプレゼントを贈った。その場の誰もがほほ笑み、しあわせだった。"

 "ハッピーエンドでよかった!ほのぼのとこころあたたまるお話で...す...ね..."って、なんだか素直にこころがあたたまってくれない気もチョっとします。お誕生会って、どうしても"パーティ"をしなきゃだめ? しかもそれを"レストランで"しなきゃだめなものなの? という疑問。

 ■「そりゃ当然だろう」という声もあってよいですが、「う、う~ん」の声の余地も同等に、どうぞ認めてください。なんだか、出題者たる青森県教育委員会の偉い方々の生活水準の高さと価値観の乖離をここでも(🔗2023/11/16)また感じてしまったのは、私だけかなぁ。受験生のみんなはどう思うんだろう。

2025/02/02

■ まなぶ ■ オペラ界が直面する事情 - センター試験 2016年本試験 英語 第6問


旧センター試験の英語、最後の大問6問目の長文問題に、出題者のまるっきり個人的趣味選んだ知見あふれる話題が、割と頻繁に登場したことは、すでに触れました(🔗2024/2/10) 。音楽やオーディオ機器についての話題です。

 そのうち、オペラの話題に、この年の全国のセンター試験受験生50万人がつき合わされたその豊かな知見を共有した年がありました。

 いつもながら恐れ多くも拙訳にて見てみたいです。

---...---...---

(1) オペラは、人間の声による表現を最高レベルで讃える芸術だ。オペラほど興奮を生み出し、心を動かす芸術形式は、他にない。とりわけ、すぐれた歌手たちによって歌われる場合はなおさらそうだ。そういったな歌手たちは、人間の声のために作曲された最も偉大で最も困難な音楽のいくつもを披露できるよう訓練されているのだ。

(2) オペラは、西洋のクラシック音楽の伝統の、重要な一部だ。音楽、言葉、演技を用いてドラマチックな物語に命を吹き込むものだ。そのオペラは、16世紀末にイタリアで始まり、後にヨーロッパ全土で人気を博した。以来長年にわたり、世界中のさまざまな音楽や演劇の発展に応えようとしてきた。今もそうだ。ここ数十年、現代の録音技術によって、はるかに幅広い聴衆がオペラに触れるようになっている。ラジオ、TV、映画などにおいて演奏したことで著名になった歌手もいる。

(3) しかし、近年、オペラは深刻な問題に直面している。これらの原因のなかには、オペラの手には負えないものもある。現在直面している問題の 1 つは、経済的なことだ。現在の世界経済の減衰により、文化機関や芸術家に回してもらえる資金は減っている。この資金不足により、オペラ歌手やその他の芸術家を支援するためにはいくら支払うべきか、という、より広範な問題が生じている。世の中では、企業経営者に支払われる莫大な報酬や、スポーツ選手に与えられる何百万ドルという契約は容認しているようだ。が、オペラ歌手はどうだろうか。どういうわけだか、"芸術家というものは、貧困に苦しむことでのみ創造的になれる"という観念が人々にはあるのだが、これは非現実的だ。オペラ歌手を含む芸術家に、必要な支援がないとすれば、貴重な才能は無駄となるのだ。

(4) 資金不足に加えてさらに困難を招いているのは、オペラ界の資金管理方法だ。主役級の歌手たちは、一般的に、公演を終えると出演料を支払われる。公演前の何週間にも及ぶリハーサル中は、何ひとつ受け取れないのが普通なのだ。その間彼らは、役作りのために、レッスンや指導の費用を支払わなければならない。病気になったり公演をキャンセルしたりすると、出演料は支払われない。このシステムの不安定さが、オペラの将来を危険にさらしている。

(5) オペラが直面しているもう一つの問題は、大衆娯楽に影響を受ける観客の要求にどう応えるかということだ。ポップスの歌手なら、歌声だけでなく、見た目でも評価されることが多い。そのため、この大衆文化に影響を受けた観客の前で歌うオペラ歌手は、今では『歌うモデル』であることが求められている。が、こうした要求は非現実的、いや有害でさえある可能性もある。オペラ歌手は、もし体重があまりに軽いと、マイクなしでは大きな劇場やコンサートホールに響き渡らせるほどの大きな声を出すことができない。歌唱力よりも外見を重視するならば、観客は、人間の肉声の最高のものを聞き逃してしまうおそれがある。

(6) オペラの問題には簡単な解決策はないし、オペラの価値についてはさまざまな意見がある。とは言うものの、毎年多くの若者たちが、この特別な芸術形式の中で才能を伸ばそうと、希望と夢を抱いて音楽のコースに登録している。オペラが多くの障壁を乗り越え、若い世代を魅了し続けているという事実。それこそが、オペラが価値に満ちた尊敬されるべき芸術形態であり続けていることを示している。

2024/12/14

■ まなぶ ■ 本は好きだが読まない - 青森県立高校入試 H30-2018年 英語第4問


またお気楽に入試問題を眺めてみます:設問文の全てを拙訳で:

"私は本が好きです。本を4歳の頃から読み始めました。家にはたくさんの本がありました。私が小さい頃、両親は私にたくさんの本を読んでくれました。そのおかげで私は本が大好きな女の子になりました。

"あなたは本が好きですか?ある調査によると、日本の中学生の70%が「本が好き」または「本を読むのが好き」と答えています。では1日に本を何時間読んでいるでしょうか?同じ調査で、彼らの35.4%は、月曜日から金曜日まで本をまったく読まないと答えています。残念です。本を読めば、知識と知恵が得られます。本から言葉や表現を学ぶことができます。そして、本を通して良い想像力が得られます。本から得られるものは、他の人とのコミュニケーションに役立ち、新しいものを作る多くのアイデアを与えてくれます。

"「読む本がない」「何を読んだらよいかわからない」と言う人もいるかもしれません。しかし、学校図書館や公立図書館があります。そこにはさまざまな種類の本があり、私はそこで多くの時間を過ごしました。読みたい本を見つけることができます。同じ調査で、学生の57.8%がほとんど図書館に行かないと答えています。もっと多くの学生が図書館に行き、多くの本を読んでくれることを願っています。"

 内容としては、1段落目が「本と自分史」、2段落目が「本を読むことの利点」、3段落目が「図書館の薦め」ですネ。

 1段落目: "本は4歳から読み始めた"とカウントできる点がすごいです。ほとんどの人は、「私が本を読み始めたのは、確か4歳のとき」と時系列を遡及できるマネはムリかも。

 2段落目: "35.4%の人たちは、月曜から金曜まで本をまったく読まない"としても、言及されていない土日に集中して、もし80%の人が読んでいたとしたら、筆者は"残念です"と嘆かなくてもよさそうです。土日も調べてみてはいかがでしょう。

 3段落目: 前の2段落目の"中学生"は、"Junior high school students"(中学生)で、その後この2段落目をつらぬいてtheyで承けています。

 が、3段落目の最後の2文は、theyではなく、改めて、一語で"students"となっているので、同じ調査の対象となった回答者に、実は高校生や大学生もいるということでしょうか? 曖昧です。なお、この調査の出典はないです。

 「みんな、もっと図書館に行こうじゃないか!」と声を大にして主張した結果、多くの人が図書館に詰めかけたとすれば、図書館という行政施設の需要圧力が高まり、行政側でも、設備や利便性を、充実させてくれるでしょう。期待したいです。

 他方で、図書館が混んだり本の争奪率が上がり、汚損が早まったら困るけど...。

 図書館に行って、ぎゅうぎゅう詰めに腰かけて古い汚れた本をめくるよりも、広々として人がまばらな空間でキレイな本を使いたい...というのは、人情です。が、私のわがままかもしれません。

 全体に、たいへん良いことを言っているのではないでしょうか。しかも中学生でここまで表現できる英文を書き、スピーチできたら、見上げるようなすばらしさです。私もこのくらい書けるように、図書館に通って努力しなくては。

2024/06/01

■ まなぶ - 連休明けの3人 (3)

パイロット website「色彩雫見本帳」より
https://www.pilot.co.jp/promotion/library/010/index.php

書道のお手本って、どんな言葉が思い浮かびますか? 小学校で書道を始めるとしたら「希望」「元気」「努力」など二字熟語。書道は、学校外で教室に通うとすれば、級位段位を設けて研鑽を積む形が多いです。進むにつれて、そりゃ2字熟語や4字熟語じゃなくなりますよネ。

 毛筆書道の会派流派は非常に多いです。他に、硬筆書写の世界つまりペン字で美しい字の研鑽を積む芸術分野もあって、コレは会派流派が集約されている印象です。

 文房具メーカーのパイロットでは、万年筆の需要掘り起こしも兼ねてか「硬筆書写の廉価な通信講座」というユニークな事業を実施しています。ここの「今月の課題」は、ウェブサイトで公開されているので、その級位クラスの課題を見てみましょう。

パイロット ペン習字講座 「今月の課題 2024年5月」
https://www.pilot.co.jp/promotion/penmanship/info/202405.html

 わかりやすい日常のことばですネ。パイロット講座は、楷書でも行書でも提出可能だそうですが、順調に進級するには「希望をもって元気に努力」する必要があるようです。

■ 5月の連休明けにチョイと机に向かった人を、3人ほどご紹介中。おとといの続きです。

 Cさん。年齢30代、研究職。地方の旧帝大の修士卒の方です。

 明るく楽観的なCさんは、数学理科が好きだし得意。文学のようなあいまいさ、美術や音楽のような主観的バイアス、公民科目のような結論なき狭い価値観の衝突。これらに比べると、数学や物理のような「疑義のない客観的な一つの真理」、化学や生物のような「物質たちのクッキリとした個性と多様性」。迷いなく進み、思考と結論を積み重ね、楽しめます。大学進路もそうなりました。希望の大学に合格し、理系である自分に対する自信、誇り、プライドも高まります。

  Cさんの大学受験の頃と時期を同じくして「リケジョ」が流行語に。学部・修士と彼女があゆむと同時進行で、女性研究者への社会的注目度が爆発的にアップしました。すばらしい好条件で研究職に就き、迷いのない生き生きとした毎日です。

 若き研究職のまさに花であり花形としての毎日なのですが、世間では、輝くリケジョのアイコン的存在の方が発見提唱したナントカ細胞が、世界的注目度がピークになった...ら、なんだか妙な雲行きになってきました...。

 職に就いてからの趣味は海外旅行です。お盆・年末年始・5月大型連休は海外のリゾート地を満喫します。「研究職」の毎日からの大きな解放感が得られ、非日常の休日で大いに充電してまた仕事に臨みます。

 コロナの世の中になりました。気にせず海外旅行したいのですが、社内の同僚たちの目がちょっと...。また、仕事は、研究の現場があるのですが、基本的に自宅でリモートワークです。

 その状況下でお盆や年末年始のお休み...、とは言っても、家で仕事、家で休日...。世間のニュースでは製薬会社の若い研究職夫婦間で殺人事件など、気持ちがしぼむ世の中になってしまいました...。

 家で過ごす休日のある日、同居する母親に簡単な頼みごとをされました。母のお友達に書道何段だかの方がいて、いつもは展覧会を見てお食事やおしゃべりをして...だった習慣が、コロナ禍で「書道展覧会がオンラインにて実施」になっちゃったのだそうです。母は、展覧会のウェブサイトを見たいとのことで、Cさんの大画面パソコンを操作して展覧会を見せてもらいたいのだそうです。

 Cさんは書道には興味がないです。学校時代にすでに気づいた通り、芸術作品などは、見る人によって価値が異なる主観的バイアスが、知性では納得できず、理不尽です。が、母の頼みごとはたやすいことでしたから、いっしょにPC上で展覧会のウェブサイトを見ました。

 見ると、母の世代の書家の方々の毛筆は、楷書体はなく、草書体...。行書体もあるのですが、平安仮名で綴った詩歌のようです。隣で一緒に画面を見る母は、喜んだり感心してため息をついたりしていますが、Cさんは、どれを見ても意味不明です。

 が、ずっと見て進むうちに、硬筆書写の展覧会にもブラウザで遷移できました。そこで、ペンで書いたその展覧会の作品群を見ると、楷書も多く、行書も読みやすく、意味が分かる...どころか、なんだか美しさもわかります...

 い、いや、わかる、を越えて、その美しさに引き込まれます。

 見るほどに、蜘蛛の糸よりも細く、経験したことのない美しい行書体や仮名の連綿体が大画面いっぱいに広がり、まったく新しい価値の世界がどんどん奥に広がっていく気持ちになりました。

 このコロナのご時勢、私も硬筆書写を始めたい!とまで、こころを打たれました。

 調べてみると、教室に通わなくても、「パイロット」と「日ペンの美子ちゃん」が通信講座の双璧とわかりましたので、親しみがわく「美子ちゃん」の、ペン字の「競書誌」を毎月購読して課題(お手本)を書いて提出し、進級していく形で、自分も練習して、あの美しい文字を目指すことにしました。

 新しい価値観・新しい人生の目的ができました。コロナ禍の閉塞した毎日に張り合いが出ました。

 最初は10級からスタート。毎月、清書した課題を郵送で提出。2か月後の競書誌で自分の名前と進級したかどうかを見ることができます。もし順調に進めば、...2級,1級,準初段,初段,2段...5段...準師範,師範という最高位に登りつめるシステムです。

 級位クラスと段位クラスでは、課題(お手本)が違います。級位クラスの手本は、10文字以内のごくやさしい日常表現です。

 1カ月間、ほぼ毎日課題を練習して、清書して、送るのが、彼女の日課となりました。

 Cさんは、9級, 8級, 7級と、毎月どんどん進級します。

 夢中で練習して半年以上...。意識下で気づいていたかもしれないチョっとした違和感が...。

 彼女は学部時代以降ずっと、科学論文を読んで書いてきました。その際は、誰にでもわかりやすい日本語や英語に慣れ、こころがけてきました。必要な情報が、客観的に、短く、装飾なく、主述が完結した一文に、おさめられていなくてはなりません。

 他方で、ペン習字のお手本って...。感傷的だったり、途中で切れている感があったり、誤った表現に思えたりと、国語的な感覚が、自分の価値とは整合しない気が...。

 彼女が違和感を感じた課題が何なのか、その時点における課題がもう再現できないのですが、類似の課題の例は、どうやら、以下の↓ようなものらしいです;

日本ペン習字研究会「ペンの光」

 「LEDの多彩な光が」;え?...光が、...どうしたの? そこまで言って感極まったの? それきり言って息絶えたの? 

 「すっかり冬の装いで」;え?...装いで、それで、どうしたの? 続きは?

 「先んずれば人を制す」;繰り返し練習すればするほど、な、なんだかこれまでの課題から一転して急に攻撃的な雰囲気を感じるのですが...。

 「霞始めてたなびく」;これは新暦では2月にあたる七十二候の「霞始靆」に由来する漢語なのはわかるんですが、現代日本語では、「はじめて」という単語は、「経験・時期的に」の意味で「副詞として/名詞(体言)として」使う場合は、「初めて」という漢字をあてたほうがいいんじゃないかしら。「始めて」だと、動作を表すマ行下一段動詞「始める」の連用形に接続助詞の「て」を接合した一文節で、動作の並列状態を指すのじゃないかしら...。疑問に感じたCさんは、図書館で数冊の「類義語辞典」や岩波の「広辞苑」を調べます。すると、Cさんの理解と似たような説明がありますが、追加的に、"慣例的にいずれも用いられる"点を書き添えています。

 Cさんは、自分が大学受験までに学んだ「日本語の現代文法と古典文法」vs「今月の課題」の齟齬を感じたことが、もう数回。その都度、「今月の課題」の日本語を図書館で何冊かの辞書に相談した経験をしました。するとそのたびに「どちらも誤りではないが」「慣用的にそう用いられる」などといった結論に達して、自分は大学受験時代に理系だったけど、国語だって人並み以上には勉強したのに...と、自分の知識や自信やプライドが揺らぎ、腑に落ちない気持ちになりました...。

 極めつけが、日常的な、あまりにも日常的なお題、お料理名です↓。「美子ちゃん」でも「パイロット」でもたまにあるのですが、Cさんには初めての体験だったこの課題は、積もっていた疑問「習字はきれいな字を書けばそれでいいんだけど...」「でも、毎日練習する甲斐がある、ちょっと日常を離れて上を見上げるような『努力』『希望』的なお題がいいんだけどな」「私、小料理名を毎日繰り返し書いていて、楽しいのかな...」を明確な意識に浮上させてしまいました。

日本ペン習字研究会「ペンの光」

 さて、そんなふうに疑問を感じ始めた途端、これまでの情熱が色褪せてきました。

 すると、順調に昇っていた進級が、3級でぱたりと止まりました。先月も3級、今月も3級でした。だからいっそ1カ月お休みして、気を取り直して次の課題を清書して提出したものの、やはり3級...。

 この連休中こそ一生懸命に書道の練習を重ねようとして与えられた課題が「サンマの塩焼き」や「本マグロの中トロ丼」だとしたら...。「サンマの塩焼き」を繰り返し激しく真剣に清書しなくちゃ...し、しなくちゃ...。た、食べればおいしいんだ...、なごむんだ...、楽しいんだ...、と言い聞かせる自分。

 なんだか気が進まないような気がするペン字課題を自宅にこもって練習して、今年の5月の大型連休は終わりました...。え? 「充実感」? 今は、こころに寒い風が吹く言葉です。これを清書して提出して来月も3級なら、私の連休って...。

 知性では納得がいきません。こんなに頭を抱えた連休は経験がありませんでした...。

 これまで、爽やかな5月の連休は、青い海と白い砂浜の海外リゾートで、大いにのびのび解放感...だったのにナ...。

 私は、Cさんが自力でブレイクスルーを成し遂げてくれることを、心の中で祈っています。

2024/05/30

■ まなぶ - 連休明けの3人(2)


 5月の連休明けにチョイと机に向かった人を、3人ほどご紹介中。おとといの続きです。

 Bさん。年齢30代、宮仕えをヤメて自営業。私大御三家(?)の経済学部卒。実は旧帝大を受験して不合格。とはいえやはり学校時代の16年間はある程度は人並みに勉強した人でしょう。私などこの方の爪のアカでも...。

 こだわりのないストレートな性格。高校生のときは大学めざして一途に努力したけど、落ちてすぐ私大へ。私大受験科目は、英語・国語・数学。つまり社会科の科目ではありません。彼にとっては、大学のこだわりは、過ぎてしまえばもう不要。まして文系理系の区別など、18歳の一時的便宜的区別。7歳の運動会で赤組になったか白組になったかという区別と同じレベル。社会に出たら不要。「文系は事務屋・理系は技術屋」という昭和ステレオタイプとそれに伴う優越感劣等感はゴミ箱へ。経済学も哲学も数学も言語文法も法学も、論理構造のコアは、記号や言語という外延を定義済みの概念を用いた論理学の分野なんだから、この時点で文系理系の区別は破綻していないか?...という持論です。

 仕事は自分のオフィスの自作ハイスペックPC複数台を忙しく操作。早朝深夜土日も仕事。平日朝夕の交通頻繁な時間帯は外に出ず、平日昼に、用足しや健康のエクササイズや昼寝。1年中連続して仕事なので、「気分転換」「仕事を離れた休日気分」などはなく、それで別にかまいませんでした。

 数年来の仕事も慣れた頃、とある6月の日曜日の爽やかに晴れた静かな朝、平日なら通学の時間帯に、所用で近くのコンビニに歩いて行くと、意外にも社会人風の若い人たちで混雑しています。人の流れを見ると、近くの高校の校門へと吸い込まれていきます。コレは何かの試験とか? と推理し、門前を見ると「危険物取扱者試験会場」。

 「危険物」だなんてまるっきり縁がない世界。でも、勉強したみんなが年の差なく集まって努力の成果を試す場...。なんだか忘れかけていた充実感のような羨望の気持ちが湧いてきました。しかも、こんなすぐ近くで「国家試験」が受けられるとは。

 自分も参加してみたくなりました。調べると、化学の分野の資格ですか...。思い出すと、物質量の手計算から始まって、熱化学方程式や酸塩基や酸化還元反応など理論編、物質各論の金属非金属、果ては大物難物の有機化合物まで思い出すと...、改めて勉強できる自信はゼロ。自分には全然関係ない...けど、資格試験の出題内容を調べてみると、「化学」はあれど暗記系が多い上、かなり実用的で楽しそうです。資格のグレードは何種類かありましたが、来年は自分も参加するとして、気候の良い6月の試験を受けるなら、連休中に集中して勉強すれば、その期間で間に合いそうなグレードは、身近な「危険物乙種第4類」だと特定しました。

 来年の予定表(MS Outlook)の出願時期頃の週予定に書き込んでおき、その後すぐ試験のことは忘却したのですが、翌年、予定表を見て思い出しました。勉強開始と終了は4月末の連休から2か月間と決め、参考書と問題集を買い込んで、開始。高校化学に比べればそう恐ろしく難しいものではない反面、関連諸法令をはじめとする暗記系も分量があったので、連休中、わざわざ色鉛筆を使って楽しんで勉強しました。忘れかけていた「紙にシャーペンで書いて勉強している」「休日感」「充実感」を得たかったんです。

 終わってみると、やはりあっけなく合格した感じです。その後またいつもの、休みも平日もない生活に戻りました。でも、毎年、5月の連休の時期になると、虚しく一人人混みの中にお出かけなど論外、むしろあのときの充実感を思い出して、自分の仕事には関係のない身近な資格試験のため、ひとり自分のオフィスで机に向かうようになっているそうです。

おとといのAさんみたいに、長い時間をかけてちょっと重い資格を取るのではなく、いつもと違う休日気分を味わいたいがために机に向かうという、一種の気分転換なのでしょうか。それでもAさんとBさんは、何か発想が同源のような印象をもちました。