ラベル 4-00-学:まなぶ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 4-00-学:まなぶ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026/02/04

■ まなぶ ■ 中谷宇吉郎『立春の卵』


今年は今日が"立春"。 今朝は未明前からついにみぞれとなり、今この昼まで小雨模様です。

 大学時代に読んだ表題のお話。以後ウン十年、"立春"と聞いた瞬間にはかならず思い出します。

 1945年(日本では太平洋戦争終戦の年)の年明けに、突如、世界中で、"立春の時に(限って)卵が立つ"という話が、爆発的な話題となったそうです。

 中谷のこの話(1947年初出)を読むまでもちろん知りませんでしたし、"卵を立てる"="コロンブスの卵"、つまり、"もとから立つはずのない卵を立てるには、発想を転換し、破壊したら容易に立つではないか"などという、コロンブスをある意味賞賛するような刷り込まれた発想しかありませんでした。大いに教訓を得た体験でした。

 中谷の著作の結論から言うと、中谷から学んだ態度は;

1) コロンブスのように暴力によって物や人に本来そなわる性質を枉げる、物理学的には"外力を加えることにより物体に本来備わらない性質を物体そのものの性質として認識する"のは、科学としては論外。

2) 科学者や権威者が、"客観的真実"と主張したり騒いだからと言って真実とは全く限らない。況や全世界の人類が一斉に主張したからといって於呼。

3) ゆえに、自身で、知識と理路一貫性を十分考え、複数の主張と、可能な限り自力による検証を用いて、真実を同定しよう。

 以後ウン十年、私にとって、"立春の日"は、"戒めの日"です。

 以下、🔗青空文庫 - 『立春の卵』中谷宇吉郎から引用。漢数字は一部算用数字にしてあります。また、語句を適宜省略したり( )で補完したりしています;

"(1947年)2月6日の各新聞は、写真入りで大々的にこの新発見を報道している。

 昔から「コロンブスの卵」という諺があるくらいで、世界的の問題であったのが、この日に解決されたわけである。というよりも、立春の時刻に卵が立つというのがもし本統ならば、地球の廻転か何かに今まで知られなかった特異の現象が隠されているのか、あるいは何か卵のもつ生命に秘められた神秘的な力によるということになるであろう。それで人類文化史上の一懸案がこれで解決されたというよりも、現代科学に挑戦する一新奇現象が、突如として原子力時代の人類の眼の前に現出してきたことになる。

 ところで、事実そういう現象が実在することが立証されたのである。『朝日新聞』は、中央気象台の予報室で、新鋭な科学者たちが大勢集って、この実験をしている写真をのせている。七つの卵が滑らかな木の机の上にちゃんと立っている写真である。『毎日新聞』では、日比谷の或るビルで、タイピスト嬢が、タイプライター台の上に、十個の卵を立てている写真をのせている。札幌の新聞にも、裏返しにしたお盆の上に、五つの卵が立っている写真が出ていた。これではこの現象自身は、どうしても否定することは出来ない。

 もっともこの現象は、こういう写真を見せられなくても、簡単に嘘だろうとは片付けられない問題である。というのは、上海ではこの話が今年の立春の二、三日前から、大問題になり、今年の立春の機を逸せずこの実験をしてみようと、われもわれもと卵を買い集めたために、1個50元の卵が一躍600元にはね上ったそうである。それくらい世の中を騒がした問題であるから、まんざら根も葉もない話でないことは確かである。

『朝日新聞』の記事によると、この立春に卵が立つ話は、中国の現紐育(ニューヨーク)総領事張平群氏が、支那の古書から発見したものだそうである。そして、国民党宣伝部の魏氏が1945年即ち一昨年の立春に、重慶でUP特派員ランドル記者の面前で、2ダースの卵をわけなく立てて見せたのである。ちょうど硫黄島危しと国内騒然たる時のこととて、日本では卵が立つか立たないかどころの騒ぎでなかったことはもちろんである。さすがにアメリカでもベルリン攻撃を眼前にして、この話はそうセンセーションを起すまでには到いたらなかったらしい。

 ところが今年の立春には、丁度その魏氏が宣伝部の上海駐在員として在住、ランドル記者も上海にいるので、再びこの実験をやることになった。

ラジオ会社の実況放送、各新聞社の記者、カメラマンのいならぶ前で、(2月)3日の深夜に実験が行われた。実験は大成功、ランドル記者が昨夜UP支局の床に立てた卵は、4日の朝になっても倒れずに立っているし、またタイプライターの上にも立った。

4日の英字紙は第一面四段抜きで、この記事をのせ、「ランドル歴史的な実験に成功」と大見出しをかかげている。立春に卵が立つ科学的根拠はわからないが、ランドル記者は「これは魔術でもなく、また卵を強く振ってカラザを切り、黄味を沈下させて立てる方法でもない。ましてやコロンブス流でもない」といっている。みなさん、今年はもう駄目だが、来年の立春にお試しになってはいかが。

 こうはっきりと報道されていると、如何に不思議でも信用せざるを得ない。おまけに、この話はあらかじめ米国でも評判になり、ニューヨークでも実験がなされた。ジャン夫人というのが、信頼のおける証人を前にして、3日の午前この実験に成功したのである。

「最初の2つの卵は倒れたが、3つ目はなめらかなマホガニーの卓の上に見事に立った。時刻はちょうど立春のはじまる3日午前10時45分であった」そうである。

 上海と、ニューヨークと、それに東京と、世界中到いたる処で成功している。立春の時刻はもちろん場所によって異なるので、グリニッチ標準時では2月3日午後3時45分である。それがニューヨークでは3日午前10時45分、東京では5日午前0時51分にあたるそうである。ところがジャン夫人の実験がそのニューヨーク時刻に成功し、中央気象台では、4日の真夜中から始めて、「用意の卵で午前0時いよいよ実験開始……30分に7つ、そして9つ、すねていた最後の1つも時間の0時51分になるとピタリ静止した」そうである。こうなると、新聞の記事と写真とを信用する以上、立春の時刻に卵が立つということは、どうしても疑う余地がない。数千年の間、中国の古書に秘められていた偉大なる真理が、今日突如脚光を浴びて、科学の世界に躍り出て来たことになる。

 しかし、どう考えてみても、立春の時に卵が立つという現象の科学的説明は出来そうもない。立春というのは、支那伝来の二十四季節の一つである。一太陽年を太陽の黄経に従って24等分し、その各等分点を、立春、雨水、啓蟄春分、清明……という風に名づけたのである。もっと簡単にいえば、太陽の視黄経が365度になった時が、立春であって、年によって少しずつ異るが、だいたい2月4日頃にあたる。地球が軌道上の或るその1点に来た時に卵が立つのだったら、卵が365度という数値を知っていることになる。

 如何にも不思議であって、そういうことは到底あり得ないのである。ところがそれが実際に世界的に立証されたのであるから、話が厄介である。支那伝来風にいえば、立春は二十四季節の第一であり、一年の季節の最初の出発点であるから、何か特別の点であって、春さえ立つのだから卵ぐらい立ってもよかろうということになるかもしれない。しかしアメリカの卵はそんなことを知っているわけはなかろう。とにかくこれは大変な事件である。

 もちろん日本の科学者たちが、そんなことを承認するはずはない。東大のT博士は「理論的には何の根拠もない茶話だ。よく平面上に卵が立つことをきくが、それは全くの偶然だ」と一笑に附している。実際に実験をした気象台の技師たちも「重心さえうまくとれば、いつでも立つわけですよ」とあっさり片づけている。しかしその記事の最後に、「立春立卵説を軽くうち消したが、さて真相は……」と記者が書いているところをみると、記者の人にも何か承服しかねる気持が残ったのであろう。何といっても、5日の夜中の実験に立会って、0時51分に10個の卵がちゃんと立ったのを目のあたり見ているのだから、それだけの説明では物足りなかったのも無理はない。

 もう少し親切な説明は、『毎日新聞』に出ていた気象台側の話である。「寒いと中味の密度が濃くなって重心が下るから立つので、何も立春のその時間だけ立つのではない」というのである。それもどうも少しおかしいので、ニューヨークのジャン夫人の居間なんか、きっと夜会服一枚でいいくらいに暖くなっていただろうと考える方が妥当である。もう一つはどこかの大学の学部長か誰かの説明で、卵の内部が流動体であることが一つの理由であろうという意味のことが書いてあった。そして立春の時でなくてもいいはずだということがつけ加えられていた。ラジオの説明は、私はきかなかったが、何でも寒さのために内部がどうとかして安定になったためだというのであったそうである。

 それらの科学者たちの説明は、どれも一般の人たちを承服させていないように思われる。一番肝心なことは、立春の時にも立つが、その外の時にも卵は立つものだよと、はっきり言い切ってない点である。それに重心がどうとかするとか、流動性がどうとか、安定云々とかいうのが、どれもはっきりしていないことである。例えば流動性があれば何故倒れないかをはっきり説明してない点が困るのである。

 一番厄介な点は、「みなさん、今年はもう駄目だが、来年の立春にお試しになってはいかが」という点である。しかしそういう言葉に怖けてはいけないので、立春と関係があるか否かを決めるのが先決問題なのである。それで今日にでもすぐ試してみることが大切な点である。

 実はこの問題の解決は極めて簡単である。結論をいえば、卵というものは立つものなのである。"

...(ここからは、中谷自身が、数個の卵とゆで卵を使って、自ら実験し、実際に卵を立てて確認したいきさつが詳細に述べられていますが、省略)...

"要するに、もっともらしい説明は何も要らないので、卵の形は、あれは昔から立つような形なのである。この場合と限らず、実験をしないでもっともらしいことを言う学者の説明は、大抵は間違っているものと思っていいようである。

 物理学の方では、釣合の安定、不安定ということをいう。釣合の位置から少し動かした場合に、旧の位置に戻るような偶力が出て来る場合が、安定なのである。卵が立っているような場合は、よく不安定の釣合といわれる。しかし物理学の定義では、この場合も安定なのであって、ただ安定の範囲が非常に狭いのである。"

...(ここからは、「卵は理論的にはふつうに立つ。」その根拠として、 

1) 重心を通る垂線が底面積を通過すれば、物体は立つ。球と平面の接触面積という点で、卵はその接する底面積が極端に狭い、その数学的具体例。

2) 卵の殻の表面に顕微鏡レベルでは凹凸があり、弾性的歪により隣り合い安定する3点か4点の間を垂線が通過すればよい)...

"しかしそれにしても、余りにことがらが妙である。どうして世界中の人間がそういう誤解に陥っていたか、その点は大いに吟味してみる必要がある。問題は巧く中心をとればというが、角度にして1°以内というのは恐ろしく小さい角度であって、そういう範囲内で卵を垂直に立てることが非常に困難なのである。その程度の精度で卵の傾きを調整するには、10の1粍(mm)くらいの微細調整が必要である。それを人間の手でやるには、よほど繊細な神経が要いることになる。実は学校へ卵をもって行って、皆の前で立てて、一つ試験をしてみようと思った時は、なかなか巧く行かなかった。夜落著いて机に向っていて、少し退屈した時などにやれば、わりに簡単に立つのである。

 卵を立てるには、静かなところで、振動などのない台を選び、ゆっくり落ち著いて、5分や10分くらいはもちろんかけるつもりで、静かに何遍も調整をくり返す必要がある。そういうことは、卵は立たないものという想定の下もとではほとんど不可能であり、事実やってみた人もなかったのであろう。そういう意味では、立春に卵が立つという中国の古書の記事には、案外深い意味があることになる。私も新聞に出ていた写真を見なかったら、立てることは出来なかったであろう。何百年の間、世界中で卵が立たなかったのは、皆が立たないと思っていたからである。

 人間の眼に盲点があることは、誰でも知っている。しかし人類にも盲点があることは、余り人は知らないようである。卵が立たないと思うくらいの盲点は、大したことではない。しかしこれと同じようなことが、いろいろな方面にありそうである。そして人間の歴史が、そういう瑣細な盲点のために著しく左右されるようなこともありそうである。

 立春の卵の話は、人類の盲点の存在を示す一例と考えると、なかなか味のある話である。これくらい巧い例というものは、そうざらにあるものではない。

(昭和二十二年四月一日)



2026/01/30

■ 農家の積雪期の剪定作業にはぜひスキーを


画像は、りんごの"樹氷"。美しいです...

  ...などとは言いたい気分にならないのが、りんご農家ではないでしょうか。

 この光景は、農家にとっては、今にも雪の重みによる"枝折れ", "幹割れ"が起きつつあるのが一目瞭然で、心が痛む図だと思います。

 りんごなどの果樹の樹形は、陽の光をまんべんなく浴びやすく、花と実の着きを良く、かつ作業性を良くするため、低い地上高で枝が十分横に広がる"噴水型"樹形になるよう、"矮化"栽培がなされてきました。

 結果として、積雪地に生息する針葉樹のような雪に耐える構造から離れ、雪の重みには極端に弱い形に変化させられたことになります。

 その歴史はやむを得ないアプリオリなものとして受け入れ、どんな対策が考えられるかですが、積雪地にて林檎や梨や桃を"矮化"した果樹で栽培するのであれば、積雪期間は、マメに巡回して枝の雪落としをするしかないでしょう。積雪地の住宅の屋根の雪下ろしみたいなものでしょうか。

 この際に大きな障害となるのが、そもそもりんご畑のなかには、積雪のせいでたどり着けないことです。

 個人的に何十年も思っていることですが、農家の積雪期の剪定作業には、スキーを用いるわけにはいかないのでしょうか?

  現時点まで、"かんじき(スノーシュー)"が伝統的に用いられています。が、履いて雪上をあるいてみたことはありますか?

 普及しているのは、ホームセンターで売っている数千円のプラスチック製のものです。

 が、1) あるきづらい、2) 割れやすい(ひと冬か数シーズンで使い捨て)、の2点で、致命的な欠陥商品です。数歩あるくだけで体力の消耗は大きいです。ただ、安さゆえに購入され普及していますが、使う農家は、上の2点のせいで、気が重く、冬は畑に足が向かず、作業がはかどらずに滞り、結果として毎年多かれ少なかれ積雪被害を被る宿命となっている図式です。

 私は軽量で高速移動可能な競技用のスノーシューも持っていますが(🔗2025/1/5)、競技用なら軽く速く少しラク、でも高額。とは言え、農家には、歩荷(ぼっか)するという、競技とは別の目的があります。いずれにしても移動の速さや容易さは、スキーと比べられるような快適さではありません。

 他のアプローチ手段として、スノーモービルや除雪機もありえますが、積雪は、1m2mと新雪が累積していくとすれば、両車両のクローラ(キャタピラー®)は、新雪上で空転し、車両は前に進まずに下にのめり込むばかりです。また、サイズが農作業にはデカすぎ、価格が乗用車並みと高すぎる点もナンセンスでしょう。

 深雪の果樹園に容易に進入できるベストな移動ツールは、"あるくスキー"だと思います。作業の樹木群まで雪原をスキーで歩荷しつつアプローチし、作業現場ではかんじきで雪落としや剪定をする、というわけにはいかないのでしょうか?

 長いスパンで見て、普及する日が来ることを願っています。

2026/01/16

■ まなぶ ■ 寺田寅彦『コーヒー哲学序説』

🔗 2025/5/11

今日の天気は、強い風・みぞれ・雷...。前二者ならまださんぽに出ようとすれば出られるのですが、雷はムリです(🔗2025/8/10)。でも、机に向かってばかりの座りっぱなしの生活はよくないので、せめて昼休みのシェービング&シャワーの温冷浴を唯一の楽しみにします。

 気分転換の読書...といっても青空文庫で。

 遠い世界の話としてこの寺田の世界とのギャップを楽しみます。茶もコーヒーもパンもヤメてしまいましたので(ref. 🔗2025/5/18 )、いっそう遠い世界となりました。

 タイトルは壮大なものですが、エッセイで、3分で読了できます。

 前半3分の2ほどでは、コーヒーと自分のかかわり。時系列に少年時代・高校時代・大学・留学・帰朝後の見聞。後半3分の1は、コーヒーは、それ自体を味わうためにあるのではなく、それがもたらす陶酔的な雰囲気・時間が、芸術や信仰にすらつながる話です。今では、誰でも書きそうな、どんな駄ブログにでも溢れていそうな話の流れですね(...わりと自虐的な感想か)。

 ただし、読む際に留意すべきは、砂糖を入れたコーヒーという途方もない贅沢品を明治大正の頃に口にできるのは、日本国民の非常に限られた階級のみだという点です。彼はその階級です。なお、寺田は1878(明治11)年生~1935年没なので、明治維新と富国強兵という国策により、生活水準が劇的に西洋化し、日清・日露・第一次大戦とあらゆる戦争で負け知らずという背景があり、日の出の勢いの大日本帝国の頂点にて、豊かに人文主義を謳歌した科学者という立ち位置な気がします。

 留学時のベルリンで、帰朝後は銀座風月で、その間、やはり当時は特権的知識人のさらに特権としての諸国留学で、その時代その場所における最高品質のコーヒーを口にしたようです。ここでも留意すべきは、"海外渡航"は、第二次大戦後までは、日本国民には事実上不可能だったことです。渡航には、外務省の許可事項である"渡航免状"が必要です。なお、法律的には一般に"許可"という行政法上の用語は、"原則として広く禁止されている事項につき、個別の要件を満たす場合に限り行政判断により一時的に禁止を解き合法化すること"です。その例外が、官僚と知識人の視察渡航でした。

 その留学の際の、ロシア・スカンディナヴィア・プロイセン・パリ・ロンドンでのコーヒーを語ります。その話の流れが楽しいかは読む人次第ですが。

 というわけで、私個人としては、全体に、知識人の極度に主観的な自慢話にしか思えないこの随筆の(...す、すみません)、序盤の1段落の数行には、驚き、おもしろいとつくづく感じます。ここを読みたいがために、何度も本を、いや今では埃っぽい岩波文庫ではなくPCの青空文庫で、読んで笑います。文筆の師、漱石直系のユーモアがくすぶります;以下にその部分を引用。

"当時まだ牛乳は少なくとも大衆一般の嗜好品でもなく、常用栄養品でもなく、主として病弱な人間の薬用品であったように見える。そうして、牛乳やいわゆるソップがどうにも臭くって飲めず、飲めばきっと嘔吐したり下痢したりするという古風な趣味の人の多かったころであった。もっともそのころでもモダーンなハイカラな人もたくさんあって、たとえば当時通学していた番町小学校の同級生の中には昼の弁当としてパンとバタを常用していた小公子もあった。そのバタというものの名前さえも知らず、きれいな切り子ガラスの小さな壺にはいった妙な黄色い蝋のようなものを、象牙の耳かきのようなものでしゃくい出してパンになすりつけて食っているのを、隣席からさもしい好奇の目を見張っていたくらいである。その一方ではまた、自分の田舎いなかでは人間の食うものと思われていない蝗(いなご)の佃煮をうまそうに食っている江戸っ子の児童もあって、これにもまたちがった意味での驚異の目を見張ったのであった。"

_ "飲めばきっと嘔吐したり下痢したりするという古風な趣味の人の多かった"
...風変わりな趣味ですね。表現の楽しさに吹き出してしまいます。でも、ま、遺伝的に乳糖耐性のない多くの日本人にとってはやはり笑えない苦しみかと...。

_ "小学校の同級生の中には昼の弁当としてパンとバタを常用していた小公子もあった。...
蝗(いなご)の佃煮をうまそうに食っている江戸っ子の児童もあって、"
...壮絶な対比ですね。対比の巨大な乖離に、ほんとうに何というか、一種胸のすくような(?)驚きを覚えます。

2025/12/19

■ まなぶ ■ 理解できなかった『忠臣蔵』-4 -理解できそうに...

井沢元彦『逆説の日本史』
14 近世爛熟編

この30年間で飛躍的に進歩した日本史研究。50歳台より上の方が学校で習った'かつての日本', '知っていたハズの日本'とは、まるで異なる背景をもった'日本'に、実は生きてきたのですよ。70代80代90代の人は、あのときの知識が更新されないままであれば、過去に幻想を抱いたまま消えゆく世代かもしれませんが、この情報化時代を活用してまだまだ新しいいきいきとした世界がこれから開けると思います。

 20年以上前なら単行本で高額だった井沢元彦の『逆説の日本史』。"日本の歴史を創るのは「言霊、和、怨霊、穢れ」への無意識の信仰"という基調に惹かれ、読むともなく手に取ってきましたが、 2010年代に文庫本化され、けっきょく今日まで全26巻を手元に置いて読んでいます。未だ完結していないのですが、もはや中公文庫-堀米庸三他『世界の歴史』16巻、井上光貞他『日本の歴史』全26巻など、大学生の頃に古本屋で揃えて読んだ大著に匹敵する巻数となっています。

 芝居『忠臣蔵』に対する個人的な違和感をスッパリと解消したのが、井上の14巻-『近世爛熟編』でした。

 吉良による浅野への嫌がらせの複数の論拠が浅薄なことを始め、襲撃現場の詳細など、芝居やドラマで日本人が常識だと思っている『忠臣蔵』のデタラメな(つまり史実と異なる)ディテールを、一つ一つていねいに論証で覆しています。

 「だからどうぞお読みください。終わり」でいいんですが、要点を書き出すと;

 そもそも芝居『忠臣蔵』を、史実たる『赤穂事件』の再現だとする点が、多くの日本人の根本的な誤り。芝居は、事件から着想を得て庶民にウケるよう複数作家の手で改訂に改訂を重ねたまったくの創作。だから、"『忠臣蔵』は史実と異なるデタラメ"などと言っても無意味です。...この時点で、私は、自分の長年の勘違いを、膝を打って納得しました。別なんですよ。そういう発想をまずしなくては。

 芝居の襲撃場面と、歴史的資料に基づく襲撃場面は異なる。いかなる一次史料にあたっても、朝廷からの勅使到着、それも"ご予定より早いご来城"の情報を得て、江戸城内における準備の慌ただしさはピークのはずで、芝居のような、吉良による浅野への直前のあのねっとりした挑発という目撃証言は存在しない。

 しかも実は、この度の朝廷勅使接待は、恒例のもの以上の重大さがあった。綱吉が、朝廷に対し、母桂昌院に、女性では史上前例のない、"従一位 (摂政関白クラス)"を拝命しようとかねてより重ねて大運動展開中のところ、その正式な会見となるはずのものだった。この'プロジェクト'に際して、総責任者たる吉良が、部下に嫌がらせをしたり恥をかかせたりして、勅使接待を失敗に終わらせる意図など介在の余地はないはず。

 襲撃の模様も異なる。浅野(33歳)は吉良(60歳)を、突然背後から肩口に切りつけ、驚いて振り返ったところ顔面正中から切り、逃げようとした背後からさらに2度切った。その時点で梶川に羽交い締めにされて制止された。

 浅野は大名=藩主であり、幼少時より武芸の訓練を得た壮年。一方、吉良は旗本として大小を挿すことも慣れないような本丸出仕の中央官庁の官吏であり、老人である。浅野は背後から、殺意を持って老人を襲うという、殺人方法としては圧倒的に優位だったにもかかわらず、また、武士の戦い方としてはありえないほど卑劣だったのだが、4度も斬りつけたのに、絶命させることができなかった。

 殿中では小刀のみ帯刀を許されていたが、小刃の用い方は、『斬る』のではなく『突く』というのは武芸の基本である。また、城内の接待役たちは皆、勅使接待の場における正式装束の"大紋"着用、と同時にとうぜん風折烏帽子を着用していたが、これは型崩れ防止のために頭まわりの全周に鉄輪が用いられ、額を斬りつけても小刀で斬ることは当初より不可能である。

 この点は、事件当時の江戸市中の川柳でも揶揄され("初手を斬り 二手を突かぬ不覚さよ...")、明治期の乃木希典ですら、「斬るのではなく刺すのだ」と、襲撃手法の不可解さを露わにしている。

 その勅使到着の本当に数時間前の殿中での抜刀と刃傷事件で、赤穂藩の末路は明らかであるにも関わらず、藩主でありながら見境もなく行為に及んだ。

 判断力が欠落し、武道に劣り、人格的に卑劣...。

 綱吉が激怒して、みずから「浅野は即日切腹」を言い渡したのも当然すぎる結論だ。

 ついでながら、私にも、その判決"切腹"は、綱吉ならではの政治的温情、いや、武家政権のコペルニクス的転回にも近い発想だと思えてきます。

 井沢によると、平安貴族に代わって、暴力を政治力とする鎌倉武士団台頭以降の武断政治であれば、このような場面では、"切腹"でなく"打首"です。綱吉こそ、一連の社会保障政策である"生類憐れみ関連諸法"(🔗9/18)と"服忌令(ぶっきりょう)"で、暴力でも宗教でもなく、政治力によって統治体制を変えた、明治維新にも匹敵する支配体制の転換を遂げた将軍、という捉え方がなされています。

 さて、そもそも最大の疑問、「なぜ浅野は、見境もなく殿中にて襲ったのか」については、奇想天外な結論です。

 井沢は、歴史学者大石慎三郎、精神医学者中野静雄、大石神社社務所宮司飯尾精などのプライオリティを断りつつこれを引用して、"浅野は統合失調症(かつての'精神分裂病')もしくはその周辺の精神障害を持病としていた"、当時の表現で"癪を持病とし", "毎日薬持参で登城"という記録や結論です。

 あの刃傷の場で、いきなり猛り狂った'乱心'は、当時の一次資料にもあるようです。井沢はさらに歴史学者松嶋栄一による、刃傷事件の決裁の場を引用しています。綱吉が集めた5人の老中のうち3人は、浅野の'乱心'、つまり発作によるもので、今日の刑法・刑事訴訟法上の"責任無能力(心神喪失)状態"と見受けられるとして、綱吉に、最終的な処分の猶予を願ったとのことです。日頃の異常行動が周囲に知られていたのかもしれないですね。が、怒りの綱吉は座を立ち、奥にて、月番老中の土屋を呼んで、浅野の切腹を命じたとのいきさつがあります。

 この本で、いわば初めて、浅野という人物像の概要を少し詳しく知った気がして、また、長年のもやもやが意外にも収束した自分の気持ちを知って、放心した記憶があります。

 このくらいにしましょう。反発する方もいらっしゃるかもしれません。が、明らかになりつつある史実に接することの重要さに並行し、その一方で、芝居は芝居として、日本人の心に触れる作品へと長年に渡り洗練された芸術作品として尊重します。引き続き、さまざまな視点や立場と新たな史料から歴史書を楽しむ傍らで、芸術作品の訴える大きな情動や感動も、楽しみ続けたいと思います。

2025/12/18

■ まなぶ ■ 理解できなかった『忠臣蔵』-3

赤穂城
赤穂観光協会Website

この芝居で、ストーリーを知った高校時代から理解不能だった点が2つ;

 最も不可解な疑問;殿中(江戸城内)で刀を抜いて刃傷沙汰を起こすと、"本人は切腹、その配下のお家は御取り潰し"という鉄の掟を知らない者は絶対にないはず。凶行に及んだ赤穂藩主浅野長矩だって百も承知だったではないの? 

 言葉による度重なる罵倒や遺恨にガマンしきれなくなって刀を抜き、その場で鬱憤を晴らすことができたとして、翌日以降、自分と赤穂藩はどうなるのか、藩主浅野に見境がつかなかったのはなぜか、という点です。

 第2の疑問は、"仇討ち"という表現です。一般に、仇討とは、親や主君が殺された場合、子や臣下に当たる者が、殺した者に、決闘を挑むことです。

 この芝居では、"主君たる浅野長矩が、吉良義央に殺され、この'仇討ち'を旧藩士四十七士が遂げた"ワケじゃなくて、どちらかと言えば発端たる事件の被害者加害者が逆転し、"主君たる浅野が、吉良を殺しそこね、四十七士は重ねて吉良を襲った結果殺した"というのが事件の経緯です。これは'仇討ち'のカテゴリーに入るのか、逸脱していないか、という点です。

 以上の2点、どう説明をつければ納得がいくかなぁと、以来ずっと、大学時代もその後も、12月14日になって"今日は討ち入りの日"などとお気楽モードな報道を耳にする度にもやもやとしてきました。

2025/12/17

■ まなぶ ■ 理解できなかった『忠臣蔵』-2

忠雄義臣録第三 
歌川豊国三世画 1847

芝居『忠臣蔵』のストーリーのうち第1の事件『刃傷事件』の場面;

 加害者被害者両当事者は、赤穂藩主浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)と吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)。

 後者は高家旗本(高家肝煎)職なので、中央省庁たる幕府江戸城にて朝廷関連儀式を司る職で、定期的にある勅使饗応行事の実務を監督する。そのもとで、饗応役事務方は、各藩の持ち回り当番制。

 1701年の勅使饗応役は、播磨赤穂藩が選任され、藩主浅野長矩が江戸城に登城し、吉良の指示で立ち回っていた。言うなれば、中央省庁本庁の局長級の偉いお役人が、当番制でやってきた県知事に指示を出して、共同プロジェクトの遂行にあたっていたとでも捉えることができそうです。事件の4月21日は、勅使到着の当日。

 浅野は吉良から、日頃、ことあるごとに、田舎者扱いされ、恥をかかされ、パワハラ、嫌がらせ、イジメ、挑発を受けていた。

 その原因は、諸説によると、吉良の指導に対する浅野からの"指導料"たる献上進物(賄賂)が少ない、という短期的なものから、塩田における製法と販路と販売量を両者が競っていたが、赤穂藩が圧倒していた、という長年に渡る因縁まで、種々積層していたというもの。

 事件は、江戸城本丸御殿の中で、最も広く、かつ長いもので、障壁画として松が描かれていたことから、「松之廊下」と呼ばれていた場。 ここは、御三家、加賀前田家、越前松平家等の登城時の控えの間があり、幕府の権威を示す特に重要な儀式が行われる場。儀式によってはこの廊下で行われることもあり、当日はこの場に朝廷勅使が到着する直前であった。

 この時点で、芝居『忠臣蔵』と史実である『赤穂事件』とで、"傷害事件"である事件の時系列に食い違いはないようです。

 芝居『忠臣蔵』の描写によると;

言葉による挑発に耐えかねた浅野が、「吉良、待て」と声をかける。振り返った吉良の顔面に正面から一太刀浴びせ、額に流血。驚いて逃げようとするその肩口にさらに一太刀。膝から崩れ落ちる吉良。この時点で、現場にいた梶川与惣兵衛頼照によって、浅野は背後から羽交い締めにされて制止され、逮捕・拘引され、お裁きとなる。

 この、襲撃行為の描写に、芝居と史実とで大きな喰い違いがあるようです。

2025/12/14

■ まなぶ ■ 理解できなかった『忠臣蔵』-1

江戸城本丸 松の廊下 
(模型 都江戸東京博物館)

12/14は"赤穂浪士討ち入り事件の日"。

 毎年この日になってニュースなどの話題に"今日は『忠臣蔵』の日"なんてのを耳にする度に、もやもや感が...。

 人形浄瑠璃・歌舞伎から現代のお芝居に至るまで、最も有名な伝統的芝居です。

 一般的には、彼らの"主君の仇討ち"行動は、"忠義"に基づいた、人としてあるべき"義挙"として、日本人の琴線に触れるような称賛される見解が優勢です。日本の文化や価値観において広く"美談"として受け止められている気がします。

 いま、あなたも私も、「暴力は/自力救済は/決闘は、現代の民主主義国家では禁止されて...」という現代法をひとまずおいて、武家社会に身を置いてみるとすれば、古来日本人の儒教的価値観に基づき、"肉親と主君の仇討ちは、忠義で美しい行為"ということをいったん疑義なく肯定するとします。

 討ち入った"赤穂浪士"は、"主君を自死に追いやった敵を、討ち倒し、亡き主君の無念を晴らした"。上の価値観に適合しそうです...。

 じゃ、その"敵"って、"主君"を殺したんですか? どんな殺し方をしたんですか。だから"仇討ち"という報復を遂げたんですか?

 主君が自ら死なざるをえなくなったいきさつを知って、激しい疑問が沸いたのが、ストーリーを知った高校時代。

 祖母が、やはり年末迫る今の時期、テレビで『忠臣蔵』を見ていて、私が、それはどんな芝居かと尋ねたら、お前は忠臣蔵を知らないのかと驚かれたのがきっかけです(;^^...く、くやしい...。当時高校生の私は、すぐに調べました...。

 史実となる事件は、時系列的には2つに分けられます(Wikipediaを参照);

1) 1701年4月21日、江戸城内で、赤穂藩藩主・浅野長矩が、高家肝煎・吉良義央に対し、背後から重傷を負わせる刃傷に及んだ。

幕府が江戸城内で朝廷の使者である公卿を歓待する当日に起きたこの刃傷事件に対し、激怒した五代将軍徳川綱吉の命で、浅野長矩は即日切腹となった。結果、浅野家赤穂藩は取り潰し、藩士は全員牢人(浪人)となった。

2) 翌1702年12月14日深夜、うち47名が、吉良邸を襲撃、1)の刃傷事件の被害者吉良義央らを殺害した。その後、この浪士たちは切腹、その遺族は連座して処罰された。

 私の目には、どうしても、

"殺人未遂犯が処刑された。被害者は一命を取り留めた。翌年、犯人の元部下47名が被害者を再度襲って殺害した"という事件に思えました...、今でも、というかますます強く。

 これは"仇討ち"なのですか。日本人の価値観において"美しい行為"なのですか。

2025/12/11

■ まなぶ ■ 演奏会で"ブラボー"やめて

X(旧ツイッター)

" 名古屋フィルハーモニー交響楽団@nagoyaphil

様々なご意見があるかと思いますが、終演後の早すぎる「ブラヴォー」は、私どもにとってうれしいものではございません。完璧な静寂の方が、はるかにうれしいです。今日は、指揮者も楽員も事務局員も、失望を感じておりますので、あえて投稿いたします。

午後6:23 · 2025年10月11日"


名古屋フィルハーモニー交響楽団の苦しい一言。

 もうちょうど2ヶ月たちますか、名フィルの事務局があえてX(旧ツイッター)に投稿して大きな議論になったのは。

 演奏会に来る客というのは、そもそもオケ自身の存立基盤の中核をなすであろう熱烈なファンと最大の資金源なはず。その人たちに対して苦言を呈する以上は、よほどの苦悩があったことでしょう。

 楽員・事務局員のこらえきれない総意を、抑えに抑えて短くつぶやいたのでしょう。

 論争のほとぼりの冷めた今さら、賛成の意をぼやっとひとこと。(論争のさなかだと、恐怖の論争に巻き込まれる危険がありそうでしたので。)

 演奏会に個人的には絶対に行きたくない多くの理由(→Syn🔗2023/11/5)の、最大のものです。

 300年前に確立した裕福な市民向けの"演奏会"って、今でもそうあり続けています。

 おそらくその当初から、"音楽を聴く"のが第一の目的の人のためのものではなくて、それを踏み越えたいくつかの何らかの欲望を持って向かう場な気がします。

 ゆえに、"演奏会"に"完璧な静寂"は今後も絶対にありえないです。この点、名フィルは、演奏会形式という集金機構によって存立する職業音楽家の立ち位置に、絶望的な矛盾を孕む願いを述べている気がします。

 更に加えて、20世紀の多様な音楽媒体が、"演奏会"を、"音楽を聴くこと"とはいっそう無縁にしたと感じています。

 でも、そういう場に生涯縁がない私を含んだ人類の多数派が存在し続けるのと同様に、演奏会がこのような形で存在し続けるのも、経済的な需給関係があるのであれば、別に良いのでは、と思います。

 さりながら、その場にいなければならない芸術家の皆さんの心中は、お察し申し上げたいと思います。→Syn🔗2024/2/3

2025/11/29

■ まなぶ ■ 老いてからでは...

『ゴルゴ13 vol.41』

 農家だった祖母を最後に病院に見舞ったのは、若者の頃。

 「春の土手をあるくのは、ほんとうに楽しかったなぁ」と、私の存在を意識していないかのように、ひとりごとかうわごとのようにつぶやいていました。

 「退院してまた来年の春にあるこうよ」と言う私のうわべだけの返答もむなしく...。

---...---...---

 初めて、あのカリスマ検査員整備士Sさんの小さな整備作業場F. Garage(🔗4/14)を、二級整備士や電気工事士の資格を持つ消防士のTさんに紹介してもらったときのこと。「この小さい街に何十年も住んで何十年も国産や欧州産の幌型自動車に乗って(無駄に)苦労してきたけど、そんなすぐ近くにそんなスゴい場があるだなんて聞いたこともないです。いったいどんな敷居の高い所なんですか!?」と疑惑の質問をすると、Tさんは笑って、「まぁ、行ってみれば。たまに目が飛び出るようなオートバイやスーパーなカーがいるからな。でもたいていはヒマな社長連中のおっさんのたまり場だけどな。」と...。怖気づきました。

 その後、そのヒマな社長連中とその高級オートバイに囲まれて、数人の方々に、前々から聞きたかった「こんなスゴいオートバイに惹かれたキッカケ」を聞いたら、皆、口を揃えて「少年時代に乗ったあの50ccのワクワク感が、最初で最高のオートバイ経験」と。大昔のショボいガキんちょだった自分たちとショボいバイクたちの話で大いに盛り上がったことがありました。それが嵩じていまでは、周りが口を開いて振り返るようなすごいバイクになっちゃって...。

---...---...---

 数ヶ月前、ネットの古書店で、送料を無料にするためのフィルアップとして適当に選んだ、数百円の、たしか和田秀樹の古本かな。

 同世代の彼の話は、退職して衰えていく高齢者をあえて妙な切り口から励ましていくスタイルで、なんだか友人とダベっているみたいです。古本で一度読んだら、ああ楽しかった、と満足してすぐ売却処分します(読み捨ての新聞雑誌みたいですみません...)。

 それらの本の主張はたいていこうです;

人生は楽しみを先送りするほど損をする。

老後に楽しみを取っておいて今ガンバって働いて稼いでいるつもりでも、いざ歳をとったら体力や気力が落ちてしまい、その"楽しみ"をもはや実行することができなくなっている。

60, 70と過ぎてから「あれをまたやりたい」「でももうできない」と後悔しても遅い。

日本人は不安を感じやすい民族ゆえ、ノーリスクを求めがちだが、

"リスクのない老後"とは"金銭的に豊かな老後"だと勘違いしているおバカを何千人と診てきた。

リスクなしで老後にリターンを得ることなんてムリだろう。

家族と自分の幸せのために、60過ぎて再雇用してもらって給料半分にされて卑屈に働く。気づいてみれば老けてうつろな自分。

お金の浪費は取り返せても、時間の浪費は取り返せないと気づけよ。

節約したり稼いだりすべきものは、お金じゃなくて、時間。

"死ぬ前にもう一度あれをやれればなぁ"の時点で手遅れ。

死ぬときに、"あれをすればよかった","これをやればよかった"と言っても手遅れ。

50を超えたら、カネも家族も後回しにして、自分のために、しろよ。

 この切り口が、まともじゃなくて、それゆえ新鮮です。

---...---...---

 東京での大学の同級生の一人が、とある大手商社に就職した際に、研修で『ゴルゴ13』が教材になったと言っていました。1980年代後半のことです。大学生の頃から読んでいる『ゴルゴ13』。学齢期のお子様には教育上よろしくないのですが、コミックは218巻の全巻を今日まで愛読しています。

 第41巻の『蒼狼漂う果て』のストーリー;

二・二六事件で"尊皇討奸"を唱え天皇親政を理想とする青年将校軍は、その後、賊軍扱いされ、投降後、彼らと彼らの家族の多くが捕縛と投降を恥として自決。経緯上死を免れて満州に落ち延びた"反乱将校"五島少尉は、満州馬賊に身を落として生き延びたが、日本軍で鍛え抜かれた乗馬と射撃で頭角を表し百人の手下を従える頭目となり、中国ソ連国境地帯の高原で縦横無尽に馬を操って略奪と戦いに明け暮れた。まもなく日中戦争で大陸に侵入した日本軍は匪賊そのものと化し、大陸本土は共産紅軍の手に落ち、絶望してモンゴル高原から中央アジアの遊牧民として暮らす。第二次大戦で、ナチスやソ連の手を逃れたユダヤ人の集う活気あふれるイスタンブールにてイスラエル建国に立ち上がり、その目的を果たした。が、彼の心が戻っていったのは...↓



 ニンゲン、最後に思い浮かぶのは、少年青年時代の、のびのびとした緑の自然の記憶なんですねぇ...。死の直前にそよ風がふきぬける思いです。→syn. 🔗2023/8/22

"おがさま(おばあちゃん)"のようにうわ言をいわずとも悔いを残さないくらい、去年今年と、ぽかぽかあたたかい土手をあるけたかな。

ref. 🔗2024/6/7

2025/11/22

■ まなぶ ■ 偉人のことば...は、耳が痛いものです


「なぁ〜にが "W.ゲーテも200年ほど前におっしゃっているとおり"だよ...(→🔗11/19)。また妙な弁を弄して...!」とのことで、見透かされてしまいました。偉人の権威を借りることで人を煙に巻いたまま逃走するというスタンスなわけで(🔗2023/3/22)...。

 似たようなことはおっしゃっているようです。

"Wer klug ist, lehnet daher alle zerstreuende Anforderungen ab und beschränkt sich auf ein Fach und wird tüchtig in einem."

かしこい人は、気を散らすようなさそいはいっさいしりぞけて、 

自分を'ひとつの'専門に限定し、

'ひとつの'分野に明るくなっていくものだ。

J. P. Eckermann: “Gespräch mit Göthe” エッカーマン 『ゲーテとの対話』

Dienstag, den 24. Februar 1824

拙訳で痛み入ります

 思い出すにつけ、読み直すにつけ、自分をかえりみては、身も細るような、耳が痛くなるような、人生を送ってきたのですがね...。

 きれいならざる本で失礼します。うん十年前の学生時代に購入。単語上の色鉛筆桃色は知らなかった単語のつもりのようです。"現在存在する最善の書"だとF.ニーチェ先生による太鼓判も...↓。ニーチェ先生なら満足して幾度も読み直したことでしょう、が、私がまた読み直すとしたら、送ってきた人生を責められる一方になりそうです...

Insel Taschenbuch 1981

2025/11/21

■ まなぶ ■ ベートーヴェンは善い音楽でジャズは悪い音楽の例? - 漱石と寅彦

寺田寅彦『線香花火』

あいかわらず、夏目漱石・寺田寅彦を味読中です。

 "美しい音楽"の代表例がベートーヴェンですか。他方、"俗悪な音楽"の代表例がジャズ、という概念ペアを感じます。(カッコは私が付しました。)

夏目漱石『吾輩ハ猫デアル』 (明治39年;完結)

吾輩は主人と違って、元来が早起の方だから、この時すでに空腹になって参った。とうていうちのものさえに向わぬさきから、猫の身分をもって朝めしに有りつける訳のものではないが、そこが猫の浅ましさで、もしや煙の立った汁の鮑貝の中から、うまそうに立ち上っておりはすまいかと思うと、じっとしていられなくなった。...(中略)...御三(おさん;女中)はすでにの飯を、御櫃(おひつ)に移して、今や七輪にかけたの中をかきまぜつつある。...(中略)...吾輩はにゃあにゃあと甘えるごとく、訴うるがごとく、あるいはまたずるがごとく泣いて見た。御三はいっこう顧みる景色がない。...(中略)...ひもじい時の神頼み、貧のぬすみに恋のふみと云うくらいだから、たいていの事ならやる気になる。にゃごおうにゃごおうと三度目には、注意を喚起するためにことさらに複雑なる泣き方をして見た。自分ではベトヴェンのシンフォニーにも劣らざる美妙のと確信しているのだが御三には何等の影響も生じないようだ。

 ベートーヴェンのどの交響曲のどの箇所のことなんでしょうね、"美妙の音"って


寺田寅彦『線香花火』(昭和2年)

夏の夜に小庭の縁台で子供らのもてあそぶ線香花火にはおとなの自分にも強い誘惑を感じる。これによって自分の子供の時代の夢がよみがえって来る。今はこの世にない親しかった人々の記憶がよび返される。

 はじめ先端に点火されてただかすかにくすぶっている間の沈黙が、これを見守る人々の心をまさにきたるべき現象の期待によって緊張させるにちょうど適当な時間だけ継続する。次には火薬の燃焼がはじまって小さな炎が牡丹ぼたんの花弁のように放出され...(中略)...十分な変化をもって火花の音楽が進行する。この音楽のテンポはだんだんに早くなり、密度は増加し、同時に一つ一つの火花は短くなり、火の矢の先端は力弱くたれ曲がる。もはや爆裂するだけの勢力のない火弾が、空気の抵抗のためにその速度を失って、重力のために放物線を描いてたれ落ちるのである。荘重なラルゴで始まったのが、アンダンテ、アレグロを経て、プレスティシモになったと思うと、急激なデクレスセンドで、哀れにさびしいフィナーレに移って行く。...(中略)...あらゆる火花のエネルギーを吐き尽くした火球は、もろく力なくポトリと落ちる、そしてこの火花のソナタの一曲が終わるのである。あとに残されるものは淡くはかない夏の宵闇(よいやみ)である。私はなんとなくチャイコフスキーのパセティクシンフォニーを思い出す。

 実際この線香花火の一本の燃え方には、「序破急」があり「起承転結」があり、詩があり音楽がある。

 ところが近代になってはやり出した電気花火とかなんとか花火とか称するものはどうであろう。なるほどアルミニウムだかマグネシウムだかの閃光は光度において大きく、ストロンチウムだかリチウムだかの炎の色は美しいかもしれないが、始めからおしまいまでただぼうぼうと無作法に燃えるばかりで、タクトもなければリズムもない。それでまたあの燃え終わりのきたなさ、曲のなさはどうであろう。線香花火がベートーヴェンのソナタであれば、これはじゃかじゃかのジャズ音楽である。これも日本固有文化の精粋がアメリカの香のする近代文化に押しのけられて行く世相の一つであるとも言いたくなるくらいのものである。

 寺田には、生涯を通じて"線香花火"に対する強い思い入れがあります。いくつかの随筆を通じて、また、師事した中谷宇吉郎の記録を拝読しても、そう感じます。ここでは、線香花火が、チャイコフスキーの"悲愴"交響曲を思い出すと言いつつ、すぐ、"線香花火がベートーヴェンのソナタであれば"と例えています。線香花火の美しさに音楽を連想しているようすです。

 が、他方で、ただ刺激だけで成り立つようなそれ以外の流行りの花火を批判して、"じゃかじゃかのジャズ音楽"とは...。

 寺田の時代1920年代は、ジャズといえば、20年代黄金時代のアメリカを象徴するような、楽天的で夢いっぱいの人生観を体現するディキシーランドに次いで巨大編成のビッグバンドが流行し、再生装置としては、明治中盤から戦前までの長きに渡り、「蓄音機」が普及していた頃でしょうか。

 あらゆる人にウケるわけではなく、蓄音機の音質で響く華やかなビッグバンドのスウィングに眉をひそめる人たちも世界にはいたということですね。

 バップ時代を経たマイルス・デイヴィスやビル・エヴァンスのモード・ジャズという思索に耽るような第2の黄金時代、同時進行的にハイ・フィデリティなステレオLPが普及する60年代までは遠いです。

 現在、学校授業での一つ覚えみたいにベートーヴェンの5番(Sym)の1楽章だけ聴いたり、俗物渦巻くオシャレな"演奏会"で、現代の巨大編成のオーケストラによる3番ばっかり演奏されたりするのを聴くのもそれなりに華やかでよいものなのかもしれないですが、類似の定番ながら、自宅でひとりでビル・エヴァンスの"Walz for ...", "Danny ..."に耳を傾けるのも、"じゃかじゃかのクラシック音楽に対して淡くはかないジャズ音楽"の対比となるようで、なかなか善いですよ、と、つぶやいてしまいます。

2025/11/19

■ まなぶ ■ 飽和曲線

■ 10℃なら10gの水は
赤い曲線上にあって
湿度は100%
■ 30℃なら10gの水は
赤い曲線の高さまでまだ3分の1だから
湿度は33%

世に"飽和曲線"は多様に存在しますが、学校で初めて出会うのは、中1数学反比例関数の"双曲線"、中1理科の"砂糖が水溶する飽和水溶液曲線"、中2では空気1㎥中に含むことのできる"飽和水蒸気曲線"...。

 出入りの大工の棟梁Tさん(1/3)。義務教育が終わるか終わらないかのうちに大工に弟子入りし、この道一筋60年。

 私がお願いした仕事も済み、支払いにご自宅にうかがったときの、もう何年も前の話。

 ヒバの内装の立派な邸宅です。居間に通されて、茶と茶菓子のご相伴に与ります。

 人間一つのことに人生をかけて取り組めば、立派な邸宅を建て何人もの徒弟を率いる身分になるのだ、とW.ゲーテも200年ほど前におっしゃっているとおりです(ほんとか...?)。誰かさんのように、あちこちに興味の首を突っ込んでけっきょく何一つ身についていない人は、倉庫然とした陋屋に細々と暮らすのもまぁしょうがないかもしれないです...。

 冬の入りの寒々しい日でしたが、邸宅の居間には、立派な薪ストーブと見事な煙突が。燃やす薪など、大工作業で出る端材が一年中どっさり。しかも端材と言えども、ヒバやヒノキやスギのような高級建築材。どっしり落ち着いた和風の居間は、暖かく、良い香りが漂います。

 聞くと、煙突を修理したのを機に(この界隈には、りんご農家などの薪ストーブ愛用者も多いので"煙突専門業者"もごく普通に存在します)、この際ストーブを新調したようで、ため息の出るような暖かく立派な暮らしぶりです。

 Tさんの朝食・昼食・夕食は、現場や作業場にいても、軽トラで自宅に戻ってきて自宅にて。その後この居間で茶を一服。

 ストーブを新調したのを機に、朝昼晩の食後の一服時に、眼に入る手元の温湿度計を見て、なんとなく居間の室温と湿度をメモするようになった、と言って、私に、鉛筆で数字がびっしり書かれた紙を見せてくれました。

 曰く「冬、朝のうちは湿度の数字は高いのに、昼飯のときや晩飯のときになると、湿度の数字って、低くなるものだなぁ。ストーブをつけないとそんなに湿度は低くならないんだけどなぁ。ストーブが何か関係があるんですかい? どういうカラクリなんですかね?」

 まるで「お前ならわかるだろう、説明してくれ」と迫られています...。

 う...。あなたならどう説明します?

 そりゃま、ストーブをたいて空気があたたまると、露点が上がり飽和水蒸気量は大きくなり、たとえこの空間の水蒸気量がまる一日一定だとしても、飽和量増加に対して今ある水蒸気のレベルは相対的に下がるから、湿度の%値は低いです...、などとしゃべっても、ちょっと無理がありそうです。

 とっさに「温度が高くなれば、空気がより多くの水蒸気を含むことができるんです。」

「は? 空気がば〜んと膨らむのかい?」...まるで空気が膨らんで部屋が破裂するのを心配するかのように天井をぐるりと見回し、で、疑いに満ちた眼差しをこちらに向ける...。こ、これはまずい...。

 「た、たとえば、さ、砂糖って、冷たい水にあんまり溶けないですよね。たとえば10gくらいドサっと入れても、コップ1杯の水には、たった1gで、もう十分溶け切って、溶けきれない分が底に見えます。」(🔗2023/12/23)


「へ、砂糖? ま、そうだな。」

「溶ける量が1gでいっぱいいっぱいで、もう100%溶け切ってるってことで。

でも、コップ1杯の熱いお湯になら、もっと、3gも5gもたくさん溶けて見えなくなりますよね。」

「うん、で?」

「お湯に1gくらいなら、まだ余裕、ほんの10%くらいしか溶けてないから、またあと90%くらい溶かす余裕があって。だから"今溶けてる量は10%ですよ"ってことですよね。」

「う〜ん、そうだろうな。」

「温度の高いお湯の方が、たくさんの砂糖を含むことができるってことですね。

この部屋の空気も、

i) 温度が低いと、少し、たとえばほんの10gの水蒸気があるだけで、もうそれ以上含みきれなくなって、いっぱいいっぱい、湿度100%に近くなるんですが、

ii) 温度が高くなると、10gといわず100gくらいなら含むことができるようになるので、"今ある10gじゃまだほんの10%くらいですよ"ってことになりますよね。」

「...??? 数字ばっかりだな。でもお湯の方が砂糖が溶けやすい。それと同じで、暖かい空気のほうが水分がたくさん入りやすいってことなのかい?? 」

...私との間の1mほどの空間に水分がないかいっしょうけんめい探しているようす...。

 「う〜ん、ま、ニンゲン、学問がないとダメなもんだな。孫にもうるさく言っているんだが、ゲームばっかやりゃ〜がって。でもヤツはあれでもいいところもあって..」

...ここからはだいたいお察しの通りの孫自慢の展開...。

 "中2のお孫さんに聞けば、ちょうど期末テストの範囲になってたりしたら、グラフを使って説明してくれて、互いに尊敬し合うすばらしい展開に"とも思いましたが、そう都合の良い話もなく...。

2025/11/18

■ まなぶ ■ 自然描写と科学者の筆

寺田寅彦『鳶と油揚』 岩波少年文庫

 文学的情緒のある文に、科学者の筆致を混入させたら...意図するとしないとにかかわらず、諧謔的な雰囲気が出ます。

 "自分は理系"を標榜する多くの方の文が、期せずしてその方向に走り、一般の人から見て違和感があるのみならず、書く本人がマジメなほど読む側には愚かしく見えて笑いがもうこらえ切れなくなるという困った事態も往々にして経験します。

 私もそれがおかしくて、マネして書いてみたい気になったりもします。

 寅彦に示唆されて夏目漱石『猫』に描写された「首つりの力学(🔗10/27)」など、その祖ではないかなと思います。

 寺田の300あまりある随筆から類例を3例、つまんで見てみましょう (なお、引用文中のカッコは私が付しました。数値は私が漢数字をアラビア数字に書き直しました);

 1) まずは師の漱石に敬意を表して;

    落ちざまに虻を伏せたる椿かな        漱石

 アブが椿の花に止まった瞬間、椿の花が落花し、アブを伏せたまま着地...。

  人が追い払ってもいまいましくまとわりつくアブが、優雅な赤い椿の花に、あっさり伏せられた一瞬に、かろやかな心地よさがあります。

 寺田の評を見てみましょう;
 この二三年前、偶然な機会から椿の花が落ちるときにたとえそれが落ち始める時にはうつ向きに落ち始めても空中で回転して仰向きになろうとするような傾向があるらしいことに気がついて、多少これについて観察しまた実験をした結果、やはり実際にそういう傾向のあることを確かめることができた。
 それで木が高いほどうつ向きに落ちた花よりも仰向きに落ちた花の数の比率が大きいという結果になるのである。しかし低い木だとうつ向きに枝を離れた花は空中で回転する間がないのでそのままにうつ向きに落ちつくのが通例である。
 この空中反転作用は花冠の特有な形態による空気の抵抗のはたらき方、花の重心の位置、花の慣性能率等によって決定されることはもちろんである。
 それでもし虻が花の蕊の上にしがみついてそのままに落下すると、虫のために全体の重心がいくらか移動しその結果はいくらかでも上記の反転作用を減ずるようになるであろうと想像される。すなわち虻を伏せやすくなるのである。
 こんなことは右の句の鑑賞にはたいした関係はないことであろうが、自分はこういう瑣末な物理学的の考察をすることによってこの句の表現する自然現象の現実性が強められ、その印象が濃厚になり、従ってその詩の美しさが高まるような気がするのである。

寺田寅彦『思ひ出草 二 』昭和9年

 この、空中における重心移動の物理学的機序を理解することによって、"その詩の美しさが高まるような気が..."...あなたは、しますか?


 2) いかにも...、な典型的文章だと私が思うのは(;

 昭和7年12月13日の夕方帰宅して、居間の机の前へすわると同時に、ぴしりという音がして何か座右の障子にぶつかったものがある。子供がいたずらに小石でも投げたかと思ったが、そうではなくて、それは庭の藤棚の藤豆がはねてその実の一つが飛んで来たのであった。宅のものの話によると、きょうの午後1時過ぎから4時過ぎごろまでの間に頻繁にはじけ、それが庭の藤も台所の前のも両方申し合わせたように盛んにはじけたということであった。台所のほうのは、1間(1.8m)ぐらいを隔てた障子のガラスに衝突する音がなかなかはげしくて、今にもガラスが割れるかと思ったそうである。自分の帰宅早々経験したものは、その日の爆発の最後のものであったらしい。
 この日に限って、こうまで目立ってたくさんにいっせいにはじけたというのは、数日来の晴天でいいかげん乾燥していたのが、この日さらに特別な好晴で湿度の低下したために、多数の実がほぼ一様な極限の乾燥度に達したためであろうと思われた。
 それにしても、これほど猛烈な勢いで豆を飛ばせるというのは驚くべきことである。書斎の軒の藤棚から居室の障子までは最短距離にしても5間(9m)はある。それで、地上3メートルの高さから水平に発射されたとして10メートルの距離において地上1メートルの点で障子に衝突したとすれば、空気の抵抗を除外しても、少なくも毎秒10メートル以上の初速をもって発射されたとしなければ勘定が合わない。あの一見枯死しているような豆のさやの中に、それほどの大きな原動力が潜んでいようとはちょっと予想しないことであった。...
寺田寅彦『藤の実』 昭和8年

 あなたも私も、高校時代、"神社のコンクリート製 の鳥居の上(h=10mとする)に質量1Nの石片を投げ上げてピタリと乗せるには、投げ上げる際の初速を何m/sにすればいいか"について上に凸な放物線を描いて計算した経験、"火災が起きているアパートの3階 h=10mに取り残された人に、地上から消防隊員が、質量10Nの救助ロープ先端をつないだペットボトルロケットを射出する際の初速とそれに必要なこの爆発カロリーを有する何グラムの火薬が..."など悩んだ経験があるのと似ていますね 。(え? そんなオタクなヤツと一緒にするなって?)

 3) トップ画像の考察は、ユーモラスさを超えて、さすがに優れた考察で、これはう〜んとうなるようなすばらしい科学者の眼です(寺田には、上1), 2)よりもむしろこのような随筆の方が多いのですがネ);

鳶(とんび)に油揚げをさらわれるということが実際にあるかどうか確証を知らないが、しかしこの鳥が高空から地上の鼠(ねずみ)の死骸などを発見してまっしぐらに飛びおりるというのは事実らしい。
 鳶の滑翔する高さは通例どのくらいであるか知らないが、目測した視角と、鳥のおおよその身長から判断して100メートル200メートルの程度ではないかと思われる。そんな高さからでもこの鳥の目は地上の鼠を鼠として判別するのだという在来の説はどうもはなはだ疑わしく思われる。
 かりに鼠の身長を15センチメートルとし、それを150メートルの距離から見る鳶の目の焦点距離を、少し大きく見積もって5ミリメートルとすると、網膜に映じたねずみの映像の長さは5ミクロンとなる。それが死んだ鼠であるか石塊であるかを弁別する事には少なくもその長さの10分1すなわち0.5ミクロン程度の尺度で測られるような形態の異同を判断することが必要であると思われる。しかるに0.5ミクロンはもはや黄色光波の波長と同程度で、網膜の細胞構造の微細度いかんを問わずともはなはだ困難であることが推定される。
 視覚によらないとすると嗅覚が問題になるのであるが、従来の研究では鳥の嗅覚ははなはだ鈍いものとされている。...
寺田寅彦『鳶と油揚』昭和9年

 ここから彼の知識と推理力を駆使して、すばらしく整合する突破口を見出すのですが、ま、どうぞぜひご自身でご覧になってみてください。

2025/11/13

■ まなぶ ■ 洗面所は湯気だらけ

(vapor layer added & retouched by me: the auther of this weblog)

シャワールームと洗面所は、我が陋屋の場合、ドアのない1つの空間です。

 寒い時期、空気中の飽和水蒸気量が低い時期は、シャワーを使うと、あっという間に湯気だらけで視界0な状態に。

 夏も冬も、シャワーで温冷浴(2024/12/17, 2023/8/20)を毎日2,3回しますので、夏は気にならないのですが冬は空間の湯気を早く消したいです。真冬も窓を開けて換気扇をつけ、どんどん氷点下の空間になっていく...割には、換気扇により流入する外気で置換される空間は、いっそう飽和水蒸気量のキャパシティが低い空気なわけで...。

 知り合いの建築士さんに「シャワールームの換気扇が非力で、長時間湯気が引かずに湿っぽくて、その分電気代がかかりそう。もっとハイパワーの換気扇に交換して早く換気できないものかな。」と尋ねました。

 ら、彼は、私の提示した型番を見て少し調べて

「この口径の家庭用の換気扇には、そう"松竹梅"みたいな豊富なグレード展開は無いよ。あのさ、そもそもハイパワーにしたら、けっきょく電気代がかかるんじゃないの?

ex 1) 非力な今の換気扇が、例えば1000秒で湯気がおさまる; 

            10W ☓ 1000秒 (sec) = 10000 Wsec

ex 2) 5倍強力なものにしたとして、5倍早い200秒で湯気がおさまる; 

                        50W ☓ 200秒 (sec) = 10000 Wsec

  ...電力を用いて同じ効果を得るなら、かかる電気代は同じだよ。

「それよりさ、湯気を乾燥させたいなら、今の換気扇で10分で無理なんだったら30分でも60分でも作動させていれば、かならず空気は入れ替わっているんだから、いつかは乾燥するのではないの? "電力"というパラメータを操作しないで、"時間"というパラメータを操作すれば、結果は必ず得られるのでは?」

 あ、...そうか。水蒸気の飽和量が低いだのつべこべ考えずに、機械やお金のパワーで解決しないで、時間というパワーをぎっしり使えばいいのか...

 目からウロコ。専門家の発想を仰ぐ値打ちを痛感しました。

2025/11/11

■ まなぶ ■ 紙が貼られた位牌


■ あまりわくわくするようなステキな話題ではないのですが、"位牌"。

■ 物心ついたときからついこないだまで、"位牌"というものは、仏壇の奥に鎮座した謎のアイテム(?)で、積極的に手にとったり寄り付きたい気持ちにはなりませんでした。実家整理に伴って仏壇の閉眼供養をしたとき(🔗2023/4/2)ですらそうでした。

■ 先日、ただ単に思い立って、実家整理により仏壇なきあとていねいに仕舞い込まれた5柱の位牌を、解体して清掃し、札板を調べ、表計算アプリケーションソフトウェアを使って、"そもそもどなたの位牌か", "年周忌表と法要年", "そこから推理される生年没年"を、何枚もの表計算シートにまとめ、1冊の表計算ブックにしてみました。いろいろなことがわかりました。

■ うち1柱に、終戦直後に19歳で逝去した人がいます。

■ 彼女の位牌は、現在一般的な、箱型をして札板を8枚収める"札位牌"(トップ画像右↑)とは違い、現在では49日法要までに用いられる「仮位牌」のような1枚の板だけでできており、そこに、札板の代わりに紙が貼られています。

■ 年周忌の法要のたびに、上から紙を貼っており、平成の時代に法要が営まれた50回忌までの紙が貼られています。

■ 戦後まもない時期の位牌で、当時の物資不足という社会情勢を反映してか、戒名や年周忌の法要年を記した札板を用いずに、紙を用いたものと推測します。

■ 没後、一周忌、三回忌の紙が、糊で貼り付きあい一体となって破れています。

■ あまりの痛々しさに、心臓がしめつけられる思いです。

■ その後、昭和の豊かな時代を迎えたからと言って、その間にゴージャスな位牌に作り替えなかった...のも、おそらく、故人とその背景を胸に刻み続ける意図だったのでしょうか。

■ 少し理解を深めたい気持ちになりました。調べてみたり、父の傍系親族に話を聞きに出向いたり。

■ その結果、逝去した直系・傍系親族のみならず今同じ時間を生きている他の年上の親族についても、時を超えて、一気に理解と共感が深まりました。

■ 5柱の位牌は、もはや、敬遠したい謎のアイテムではなく、親密な家族そのものと思えるようになりました。

2025/11/01

■ まなぶ ■ 中谷宇吉郎『雪の十勝』の老人O


最近になって改めて読み耽っている、寺田寅彦と中谷宇吉郎の随筆。初めて立て続けに読んだのが40年ほど前。今日の時点で執筆出版から100年前後経っていますが、実に味わい深いです。

 中谷『雪の十勝 - 雪の研究の生活 - 』(1935)は、十勝岳のヒュッテで研究する模様が書かれています。90年前の随筆、ということになりますね。

 主題は、冬季間にそこで、雪の結晶につき研究や写真撮影するようすが綴られている、という点です。が、その研究手法や成果を解説したり感想を述べたりするなどというのは私の能力に余る行為です。いまここで抄読したいのは、この文に登場する、ヒュッテの管理人Oさんというヒトの驚くべき存在感です。


 中谷宇吉郎『雪の十勝』(青空文庫)より抜粋 。なお(  )は私が付しました。また、数値は私が漢数字をアラビア数字に表記し直しています;

"初めは慰み半分に手をつけて見た雪の研究も、段々と深入りして、算えて見ればもう十勝岳へは5回も出かけて行ったことになる。落付く場所は道庁のヒュッテ白銀荘という小屋で、泥流コースの近く、吹上温泉からは5丁(約550m)と距たっていない所である。此処は丁度十勝岳の中腹、森林地帯をそろそろ抜けようとするあたりであって、標高にして1,060米(m)位はある所である。(森林限界は、本州が2,500m前後、北海道は約1,000m前後)

 "雪の研究といっても、今までは主として顕微鏡写真を撮ることが仕事であって、そのためには、顕微鏡は勿論のこと、その写真装置から、現像用具一式、簡単な気象観測装置、それに携帯用の暗室などかなりの荷物を運ぶ必要があった。その外に一行の食料品からお八つの準備まで大体一回の滞在期間約10日分を持って行かねばならぬので、その方の準備もまた相当な騒ぎである。全部で100貫(約350kg)位のこれらの荷物を3,4台の馬橇(ばそり)にのせて5時間の雪道を揺られながら、白銀荘へ着くのはいつも日がとっぷり暮れてしまってからである。この雪の行程が一番の難関で、小屋へ着いてさえしまえば、もうすっかり馴染(なじみ)になっている番人のO老人夫妻がすっかり心得ていて何かと世話を焼いてくれるので、急に田舎の親類の家へでも着いたような気になるのである。

 "この白銀荘は山小屋といっても、実は山林監視人であるO老人の家であって、普通には開放していないので、内部は仲々立派に出来ている。階下が食堂兼居室で、普通の山小屋の体裁に真中に大きい薪ストーヴがあって、二階が寝室になっている。この小屋の附近は不思議と風当りが少いので、下のストーヴの暖みに気を許して、寝室の毛布にくるまっていると、自分たちにはこの小屋の二階が何処よりも安らかな眠りの場所である。..."


 以下は雪の結晶の顕微鏡観察や顕微鏡写真の話が綴られていますが、肝心のココの箇所は省略して、O老人のことについての記載を見ましょう;

"朝目を覚まして青空が見えるような日には、一同大変な元気で早くから起き出してしまう。そして急にパンを切ったり、スキーに蝋を塗ったりして山登りの準備にかかる。何時の間まにか、天気がよくて雪の降らぬ日はふりこ沢のあたりまでスキーに乗って、積雪上の波型を見に出かけるということに決まってしまったのである。そして特に晴れた日にはそのまま十勝の頂上まで行程を伸ばしてしまうのである。それを楽しみにして特に助手を志願して出る学生も出て来て、大抵いつも十勝行きに人手が足らなくて困るということはない。

 "O老人もよく一緒に行くことが多い。かんじきを穿かしたら誰もこの老人に敵うものはないが、スキーはまだ始めて2年にしかならぬというので、丁度良い同行者なのである。この老人は全く一生を雪の山の中で暮して来たという実に不思議な経歴の人である。この人の話などを聞いていると、雪の山で遭難をするというようなことはあり得ないという気がするのである。一昨年の冬にも犬の皮1枚と猟銃と塩1升だけを身につけて、12月から翌年の2月一杯にかけて、この十勝の連峯から日高山脈にかけた雪嶺の中を一人で歩き廻って来たというのである。この老人の話をきくと零下20度の雪の中で2カ月も寝ることが何でもないことのようなのである。もっともその詳しい話を聞き出して見て驚いたのであるが、この老人はわれわれのちょっと及ばぬような練達の科学者なのである。

 "雪の中で寝るのに一番大切なことは焚火をすることであるそうである。それは極めてもっともな話であるが、厳冬の雪の山で焚火をするのは決して容易な業ではない。ところがこの老人は3段のスロープの蔭に自分たちを連れて行って、何の雑作もなく雪の上で大きい焚火をしてわれわれを暖めて見せてくれたのであった。風の当らぬ所を選んでこれだけの焚火があったら、なるほど雪の中で寝ることも事実普通の生理学と少しも矛盾しないのである。鋸ぎりと手斧とマッチが食料品と同様に雪の山では必需品であることを実例で教えてくれたのはこの老人であった。

 "感心したことは、この老人は出来るだけ文明の利器を利用しようとつとめることであった。魔法瓶だの気圧計だのというものには特別の興味を持ち、かつそれを利用したがるのである。とうとうその思いが一部叶って魔法瓶を買うことの出来た時の無邪気な喜びようには誰もが心を惹かれた。気象の見方、保温の方法、器具の取扱い法、食料としての兎の猟り方から山草の料理法など、すべての事柄について、隅の隅まで行き届いた細かい注意が払われていることが、聞き出すごとに分って来た。このように自分一人の体験で作り上げた科学の体系を持っていて初めて山の生活が安全に遂行されるのであろう。"

...引用は以上


 最後の一文"自分一人の体験で作り上げた科学の体系を持っていて初めて山の生活が安全に遂行される"というのは、ずっと記憶に残るような、含蓄が深いことばです。整合していなければただちに命にかかわる状況だと思うと...。筆者の意図とは違うだろうけど、私も折りに触れてこの言葉を思い出しては、「ちゃんと全体を捉えろよ」「全体の中でどこに位置するんだ?」と、諌められたり励まされたりした気がします。

2025/10/29

■ まなぶ ■ 寒月君でない寺田寅彦 - 中谷宇吉郎『長岡と寺田』


漱石『猫』で、愛弟子の寺田寅彦がモデルとなっている'寒月君'。静穏な学者生活をしたい苦沙弥先生のところに、全編に渡ってあまたの波乱を持ち込みます。最初はこんな調子で登場するんでした;


 夏目漱石『吾輩ハ猫デアル』青空文庫

この寒月という男はやはり主人の旧門下生であったそうだが、今では学校を卒業して、何でも主人より立派になっているという話しである。この男がどういう訳か、よく主人の所へ遊びに来る。来ると自分を恋っている女が有りそうな、無さそうな、世の中が面白そうな、つまらなそうな、凄すごいような艶っぽいような文句ばかり並べては帰る。主人のようなしなびかけた人間を求めて、わざわざこんな話をしに来るのからして合点が行かぬが、あの牡蠣的主人がそんな談話を聞いて時々相槌を打つのはなお面白い。

「しばらく御無沙汰をしました。実は去年の暮から大いに活動しているものですから、出よう出ようと思っても、ついこの方角へ足が向かないので」と羽織の紐をひねくりながら謎見たような事をいう。「どっちの方角へ足が向くかね」と主人は真面目な顔をして、黒木綿の紋付羽織の袖口を引張る。この羽織は木綿でゆきが短かい、下からべんべら者が左右へ五分くらいずつはみ出している。「エヘヘヘ少し違った方角で」と寒月君が笑う。見ると今日は前歯が一枚欠けている。「君歯をどうかしたかね」と主人は問題を転じた。「ええ実はある所で椎茸を食いましてね」「何を食ったって?」「その、少し椎茸を食ったんで。椎茸の傘を前歯で噛み切ろうとしたらぼろりと歯が欠けましたよ」「椎茸で前歯がかけるなんざ、何だか爺々臭いね。俳句にはなるかも知れないが、恋にはならんようだな」と平手で吾輩の頭を軽く叩く。「ああその猫が例のですか、なかなか肥ってるじゃありませんか、それなら車屋の黒にだって負けそうもありませんね、立派なものだ」と寒月君は大いに吾輩を賞める。「近頃大分だいぶ大きくなったのさ」と自慢そうに頭をぽかぽかなぐる。賞められたのは得意であるが頭が少々痛い。「一昨夜もちょいと合奏会をやりましてね」と寒月君はまた話しをもとへ戻す。「どこで」「どこでもそりゃ御聞きにならんでもよいでしょう。ヴァイオリンが三挺とピヤノの伴奏でなかなか面白かったです。ヴァイオリンも三挺くらいになると下手でも聞かれるものですね。二人は女で私がその中へまじりましたが、自分でも善く弾けたと思いました」「ふん、そしてその女というのは何者かね」と主人は羨しそうに問いかける。...「なに二人とも去る所の令嬢ですよ、御存じの方じゃありません」...


 寺田寅彦の随筆のいくつかの飄々たる文体や、油彩画や俳句を善くしたことと重ねて、寒月君そのものと信じてしまいます。


 寺田の門弟の中谷宇吉郎(物理学)のエッセイ集に、『長岡と寺田』という一文があります。

 '長岡'とは、原子モデルで著名な物理学者の長岡半太郎です。中学校検定教科書では、理科(物質と化学変化)ではドルトン、メンデレーエフ、アボガドロ、ラボアジエ、田中耕一は登場するものの、長岡の名はなし。他方で、歴史(明治の文化)で名前を暗記させられるようです。

 寺田は長岡に師事しました。

 中谷の文を抄読してみましょう。人名やふりがなの"(  )"は私が振りました;

 中谷宇吉郎『長岡と寺田』青空文庫

"寺田(寅彦)先生は、あのとおり、どんなつまらない人間でも、その長所は十分に認めるという性質であった。いわんや長岡(半太郎)先生のような卓越した大先生の学問には、十分の敬意を払われた。そして長岡先生のあの性格の強さを、武士道の名残りとして大いに尊重しておられた。"


"長岡先生は、原子物理学の方で有名であったが、地球物理学にも興味をもたれ、地震研究所にも席があった。そして地球物理の論文をたくさん書かれた。私(中谷宇吉郎)がまだ理研にいた頃の話であるが、ある日何かの用事で寺田先生の部屋へ行った時、先生が長岡先生の論文原稿を見ておられたことがあった。「どうも長岡先生の論文を拝見するのは少し閉口なんだが」といって、例のように独特の苦笑をされた。少なくもあの頃は、長岡先生も、地球物理関係の論文は、一応原稿を寺田先生に見て貰われたようであった。

「長岡先生も、地球物理の方は、あまり自信がおありにならないようだ。この頃はよく「君、ちょっと見ておいてくれ給え」といって、原稿を頂戴するんだが。どうも先生には、地球物理なんかという御気持があるらしく、大分調子を落されるんでね。少し閉口なんだ。この間も緯度変化と地震という大論文の中で、山から次ぎの山まで、即ち波長の二分の一と書いてあったんでね。おそるおそる「先生これは波長じゃ御座いませんか」と伺ったら、「そうだね」とあっさりλ(ラムダ)と直されたんだ。あれには少々驚いたよ。僕だったら、あんなことを書いたら、とても気になって二晩くらい眠れないんだが。「そうだね」には、実際びっくりしたよ。えらいものだね」といって、ちょっと首をすくめて見せられたこともあった。

 どうも、長岡先生にとっては、地球物理学は、いわばホビィであったように思われる。寺田先生も、その点は十分よく了解しておられたようである。しかしそのホビィが、だんだん嵩じてきて、地震研究所の談話会で喋り放しにされる論文の中には、少しのんきすぎるものが、まじってくるようになった。中には、ほとんど出鱈目(デタラメ)に近いような論文もあったそうである。..."


"それがとうとう爆発したのは、ある日の地震研究所の談話会の席上である。私は直接その席にいたわけではないが、会のあとで坪井、宮部の諸兄が...「たいへんなことになっちゃった」とくわしく様子を知らせてくれた。..."


"長岡先生が、例によって大気焔をあげられ、御機嫌よく講演がすんだあと、議長が型の如く「御質問御討論がありましたらどうぞ」という。皆は、いわばさわらぬ神にたたりなしという顔付で、少々煙に捲かれながら、黙り込んでいる。

「そうしたらね。寺田先生がすっくりと立ち上って、こういう風に机に両手をついて、少しぶるぶる震えながら、

「先生の今日の御講演は、全く出鱈目(デタラメ)であります」

といわれるんだ。いや驚いたね。みんながシーンとしてしまったんだ。先生は真蒼な顔をしておられるしね」

「まさか。話だろう」

「いや、本当なんだよ。長岡先生、全くびっくりされたようだった。

「いや、君、そりあいろいろ仮定ははいっているが」

「いいえ、それは仮定の問題ではありません」

「しかし地球物理学には、どうしても仮定が」

「いいえ、地球物理学というものは、そういうものでは御座いません」

「まあ、そうやかましくいわなくても」

「いいえ、これはそういう問題では御座いません。今日の御話は、徹頭徹尾出鱈目であります」

「まあ、君、そうひどいことを」

「いいえ、今日の御話と限らず、この頃先生が、この談話会で御話をなさいますものは、全部出鱈目であります」

といわれるんだ。どうも驚いたね。皆すっかり固くなっちゃってね。口の出しようがないんだ。田中館(愛橘)先生が、「まあ、まあ、君」というわけで、やっとほっとしたよ。いや凄かったなあ」。

 それから当分の間は、実験室の中は、この話でもち切りであった。当時の長岡先生の権威というものは、今日の人たちには、想像も出来ないくらいであった。「先生、決死の勇をふるったんだね」などと、悪童どもは、気楽なことをいって喜んでいたものである。

 寺田先生が小宮(豊隆)さんに、ああいう先生は「一度鼻を攫んでぐいとねじり上げて置かないと癖になる」といわれたのは、この時の話である。

...引用は以上


 寺田も、巨大な権威の長岡も、十代の頃に学校で知った人物像とはずいぶん違いますね。大学生になって初めてこの中谷の随筆を読んだときには、なんだか自分が中高生時代に信じ切っていた科学という権威の世界がひっくり返った気分になりました。

 寺田の、"世の中が面白そうな、つまらなそうな"寒月君では全くない、強い意志と正しい学究心を貫く姿にこころをうたれます。

2025/10/27

■ まなぶ ■ 寒月君である寺田寅彦

『寺田寅彦随想集-第三巻』小宮豊彦編 
岩波文庫-緑37-3(1963年改版1985年44版)
(手元に所蔵(大学時代に購入))

引用長いです。ごめんなさい。寺田と夏目の"(  )"は私が振りました。いちいち多いですがご容赦を。

 寺田寅彦『夏目漱石先生の追憶』(青空文庫)より

"自分(寺田寅彦)が学校で古いフィロソフィカル・マガジンを見ていたらレヴェレンド・ハウトンという人の「首つりの力学」を論じた珍しい論文が見つかったので先生(夏目漱石)に報告したら、それはおもしろいから見せろというので学校から借りて来て用立てた。それが「」の寒月君の講演になって現われている。"


 夏目漱石『吾輩ハ猫デアル』(青空文庫)より

"「なあに今日のはこっちの趣向じゃない寒月先生自身の要求さ。先生何でも理学協会で演説をするとか云うのでね。その稽古をやるから僕に聴いてくれと云うから、そりゃちょうどいい苦沙弥(くしゃみ)にも聞かしてやろうと云うのでね。そこで君の家うちへ呼ぶ事にしておいたのさ――なあに君はひま人だからちょうどいいやね――差支(さしつか)えなんぞある男じゃない、聞くがいいさ」と迷亭は独りで呑み込んでいる。「物理学の演説なんか僕にゃ分らん」と主人は少々迷亭の専断を憤ったもののごとくに云う。「ところがその問題がマグネ付けられたノッズルについてなどと云う乾燥無味なものじゃないんだ。首縊り(くびくくり)の力学と云う脱俗超凡な演題なのだから傾聴する価値があるさ」「君は首を縊(くく)り損なった男だから傾聴するが好いが僕なんざあ……」「歌舞伎座で悪寒がするくらいの人間だから聞かれないと云う結論は出そうもないぜ」と例のごとく軽口を叩く。妻君はホホと笑って主人を顧(かえりみ)ながら次の間へ退く。主人は無言のまま吾輩の頭を撫なでる。この時のみは非常に丁寧な撫で方であった。

 それから約七分くらいすると注文通り寒月君が来る。今日は晩に演舌(えんぜつ)をするというので例になく立派なフロックを着て、洗濯し立ての白襟カラーを聳(そび)やかして、男振りを二割方上げて、「少し後(おく)れまして」と落ちつき払って、挨拶をする。「さっきから二人で大待ちに待ったところなんだ。早速願おう、なあ君」と主人を見る。主人もやむを得ず「うむ」と生返事(なまへんじ)をする。寒月君はいそがない。「コップへ水を一杯頂戴しましょう」と云う。「いよー本式にやるのか次には拍手の請求とおいでなさるだろう」と迷亭は独りで騒ぎ立てる。寒月君は内隠(うちがく)しから草稿を取り出して徐(おもむろ)に「稽古ですから、御遠慮なく御批評を願います」と前置をして、いよいよ演舌の御浚(おさら)いを始める。

「罪人を絞罪(こうざい)の刑に処すると云う事は重(おも)にアングロサクソン民族間に行われた方法でありまして、それより古代に溯って考えますと首縊(くびくく)りは重に自殺の方法として行われた者であります。猶太人中(ユダヤじんちゅう)に在っては罪人を石を抛げつけて殺す習慣であったそうでございます。旧約全書を研究して見ますといわゆるハンギングなる語は罪人の死体を釣るして野獣または肉食鳥の餌食とする意義と認められます。ヘロドタスの説に従って見ますと猶太人はエジプトを去る以前から夜中(やちゅう)死骸を曝されることを痛く忌み嫌ったように思われます。エジプト人は罪人の首を斬って胴だけを十字架に釘付(くぎづ)けにして夜中曝し物にしたそうで御座います。波斯人(ペルシャじん)は……」「寒月君首縊りと縁がだんだん遠くなるようだが大丈夫かい」と迷亭が口を入れる。「これから本論に這入るところですから、少々御辛防を願います。……さて波斯人はどうかと申しますとこれもやはり処刑には磔(はりつけ)を用いたようでございます。但し生きているうちに張付(はりつけ)に致したものか、死んでから釘を打ったものかその辺へんはちと分りかねます……」「そんな事は分らんでもいいさ」と主人は退屈そうに欠伸(あくび)をする。「まだいろいろ御話し致したい事もございますが、御迷惑であらっしゃいましょうから……」「あらっしゃいましょうより、いらっしゃいましょうの方が聞きいいよ、ねえ苦沙弥君」とまた迷亭が咎め立てをすると主人は「どっちでも同じ事だ」と気のない返事をする。「さていよいよ本題に入りまして弁じます」「弁じますなんか講釈師の云い草だ。演舌家はもっと上品な詞(ことば)を使って貰いたいね」と迷亭先生また交(ま)ぜ返す。「弁じますが下品なら何と云ったらいいでしょう」と寒月君は少々むっとした調子で問いかける。「迷亭のは聴いているのか、交ぜ返しているのか判然しない。寒月君そんな弥次馬に構わず、さっさとやるが好い」と主人はなるべく早く難関を切り抜けようとする。「むっとして弁じましたる柳かな、かね」と迷亭はあいかわらず飄然(ひょうぜん)たる事を云う。寒月は思わず吹き出す。「真に処刑として絞殺を用いましたのは、私の調べました結果によりますると、オディセーの二十二巻目に出ております。即(すなわ)ち彼(か)のテレマカスがペネロピーの十二人の侍女を絞殺するという条(くだり)でございます。希臘語(ギリシャご)で本文を朗読しても宜しゅうございますが、ちと衒(てら)うような気味にもなりますからやめに致します。四百六十五行から、四百七十三行を御覧になると分ります」「希臘語云々(うんぬん)はよした方がいい、さも希臘語が出来ますと云わんばかりだ、ねえ苦沙弥君」「それは僕も賛成だ、そんな物欲しそうな事は言わん方が奥床しくて好い」と主人はいつになく直ちに迷亭に加担する。両人は毫(ごう)も希臘語が読めないのである。「それではこの両三句は今晩抜く事に致しまして次を弁じ――ええ申し上げます。

 この絞殺を今から想像して見ますと、これを執行するに二つの方法があります。第一は、彼(か)のテレマカスがユーミアス及びフリーシャスの援(たすけ)を藉(か)りて縄の一端を柱へ括(くく)りつけます。そしてその縄の所々へ結び目を穴に開けてこの穴へ女の頭を一つずつ入れておいて、片方の端をぐいと引張って釣し上げたものと見るのです」「つまり西洋洗濯屋のシャツのように女がぶら下ったと見れば好いんだろう」「その通りで、それから第二は縄の一端を前のごとく柱へ括り付けて他の一端も始めから天井へ高く釣るのです。そしてその高い縄から何本か別の縄を下げて、それに結び目の輪になったのを付けて女の頸(くび)を入れておいて、いざと云う時に女の足台を取りはずすと云う趣向なのです」「たとえて云うと縄暖簾なわのれんの先へ提灯玉を釣したような景色と思えば間違はあるまい」「提灯玉と云う玉は見た事がないから何とも申されませんが、もしあるとすればその辺へんのところかと思います。――それでこれから力学的に第一の場合は到底成立すべきものでないと云う事を証拠立てて御覧に入れます」「面白いな」と迷亭が云うと「うん面白い」と主人も一致する。

「まず女が同距離に釣られると仮定します。また一番地面に近い二人の女の首と首を繋つないでいる縄はホリゾンタルと仮定します。そこでα1α2……α6を縄が地平線と形づくる角度とし、T1T2……T6を縄の各部が受ける力と見做し、T7=Xは縄のもっとも低い部分の受ける力とします。Wは勿論もちろん女の体重と御承知下さい。どうです御分りになりましたか」

 迷亭と主人は顔を見合せて「大抵分った」と云う。但しこの大抵と云う度合は両人が勝手に作ったのだから他人の場合には応用が出来ないかも知れない。「さて多角形に関する御存じの平均性理論によりますと、下(しも)のごとく十二の方程式が立ちます。T1cosα1=T2cosα2…… (1) T2cosα2=T3cosα3…… (2) ……」

「方程式はそのくらいで沢山だろう」と主人は乱暴な事を云う。「実はこの式が演説の首脳なんですが」と寒月君ははなはだ残り惜し気に見える。「それじゃ首脳だけは逐(お)って伺う事にしようじゃないか」と迷亭も少々恐縮の体(てい)に見受けられる。「この式を略してしまうとせっかくの力学的研究がまるで駄目になるのですが……」「何そんな遠慮はいらんから、ずんずん略すさ……」と主人は平気で云う。「それでは仰せに従って、無理ですが略しましょう」「それがよかろう」と迷亭が妙なところで手をぱちぱちと叩く。..."


 中谷宇吉郎『寒月の「首縊りの力学」その他』(青空文庫)より

"漱石先生が『猫』を書き出された頃、当時大学院におられた寺田先生が、ある時図書室で旧いフィロソフィカルマガジンという英国の物理雑誌を何気なく覗いておられる中に、ホウトン(Rev. Samuel Haughton)という人の「力学的並に生理学的に見たる首縊りに就いて」という表題の論文に出会われたのだそうである。大変驚かれてちょっと読んでみられたところ、正真正銘な首縊りの真面目な研究だったもので、早速その話を漱石先生にされたのであった。漱石先生も大変興味を持たれて、ぜひ読んで見たいから君の名前で借りてきてくれと御依頼になったのだそうである。その論文の内容が間もなく、寒月君の「首縊りの力学」となって現われたのである。

 以上の話は、私が大学を卒業した年位だったと思うが、寺田先生の指導の下で実験をしていた時、大学の狭い実験室の片隅で、実験台を卓として一同で三時の紅茶を呑みながら先生から伺った話である。その時寺田先生は、「僕はもう大分旧い話なので、論文の内容なんかすっかり忘れてしまったが、誰か一つ古いフィルマグを探して見給え、きっとあるから」との御話だった。早速図書室へ行って、埃っぽい古い雑誌を片っ端から探してみたら、果して見付かったのであった。それは一八六六年の第三十二巻第二十三頁にあって、題目は“On hanging, considered from a mechanical and physiological point of view.”というのである。著者ホウトンはF・R・S・(Fellow of Royal Society)と肩書きがあるところからみても、真面目な一流の学者であったらしい。その論文と『猫』とを併せて読んでみると、漱石先生がいかにこのような素材を美事に取扱われたかということが分って大変面白かった。

 寒月君の演説の冒頭「罪人を絞罪の刑に処するということは重おもにアングロサクソン民族間に行われた方法でありまして、……」というのは、論文の緒言の最初の数行のほとんど完全な翻訳である。以下猶太(ユダヤ)人中にあっては罪人に石を抛げ附けて殺す話から、旧約全書中のハンギングの語の意味、エジプト人の話、波斯(ペルシア)人の話など、ほとんど原論文の句を追っての訳である。わずかばかりの動詞や助動詞の使い方の変化によって、物理の論文の緒言が、寒月君の演説となって『猫』の中にしっくり納まってしまうということは、文章の恐ろしさを如実に示しているような気がするのである。

 寒月君が続いて、「波斯人も矢張り処刑に磔を用いたようで御座います。但し生きているうちに張付けに致したものか、死んでから釘を打ったものか、其の辺はちと分りかねます」という条くだりは、原本では「死後か否かは不明である」という簡単な文句で記されている。そこで苦沙弥先生が、「そんなことは分らんでもいいさ」と退屈そうに欠伸あくびをする所は、原論文では、猶太人の磔は常に屍体について行ったもので、生きた人を十字架にかけて釘を打つという残酷なことはしなかったと、猶太人のために無実の悪評を弁護しているのである。以下本論に入って、ペネロピーの十二人の侍女を絞殺するところとなって、寒月君が希臘ギリシア語で本文を朗読しても宜しう御座いますがといって、そんな物欲しそうなことは言わん方が奥床しくて好いと、苦沙弥先生にやられる所には、論文ではちゃんとギリシア語の原文がはいっているのである。そして Od. 465-473と註が附いている。寒月君が「ちと衒てらうような気味にもなりますから已やめに致します。四百六十五行から四百七十三行を御覧になると分ります」というのは、この註なのである。

 それからこの時の絞殺の二つの方法について、一方が力学的に成り立たないという証明が本当にあるのである。「T1cosα1=T2cosα2……(1), T2cosα2=T3cosα3……(2)」と寒月君が始めると、苦沙弥先生が「方程式は其の位で沢山だろう」と乱暴なことを言うのであるが、この式は実際には十二個あって、それをちゃんと解いて、初めの方法が成立しないという所まで、約四頁にわたって証明がしてあるのである。「此の式を略して仕舞しまうと折角の力学的研究が丸で駄目になるのですが……」「何、そんな遠慮はいらんから、ずんずん略すさ」と苦沙弥先生が平気でいう所は、実は十二の連立方程式を解く所であって、いかに漱石先生でもこればかりは致し方がなかったのだろうと、原論文の読後、私は寺田先生を御訪ねした時御話したことがあった。先生は上機嫌で、「そんな所が確かあったようだったね、夏目先生も其処迄御分りになったのだろう」と笑われたことがあった。

 この数学的の取扱いの次に、英国のことに言及して、ブラクストーンやプローアンの説が飛び出したり、有名なフイツゼラルドという悪漢を絞めた話が出たりするのも、やはり原論文にあるのである。「とうとう三辺目に見物人が手伝って往生さしたという話です」と寒月君がいうと、「やれやれ」と迷亭はこんなところへくると急に元気が出るのは、漱石先生の実感であったのかも知れない。実際、この論文も段々少し面倒になってきて、数式ばかり沢山出るようになるので、もう後は全部この調子かと思って読んでいると、急にこんな話が飛び出してくるので、誰でもちょっと妙に愉快になるのである。「演説の続きは、まだ中々長くあって、寒月君は首縊りの生理作用にまで論及するはずでいたが」というのもその通りであって、原論文は以上が前半であって、その後半には縄の弾性系数と体重と飛び下りる高さとから、首に縄を附けて飛び下りた時の首に与えられる衝撃を計算してある。そして縄の長さをどれ位にしたら、その時の衝撃がほとんど瞬間的に罪人を致死させ得るかという点を生理学的に取扱ってあるのである。このような題目が大真面目に取扱われ、そしてその論文が平気で物理の専門雑誌に載っていた時代もあったのである。もっともそれも英国の雑誌なればこそと思われるのである。"

 

 引用ばかりでごめんなさい。大学時代に、おもしろくて、立て続けに読んだ師弟の方々の話のごく一部です。

 現在、寺田と中谷のいくつかの随筆は、『岩波少年文庫』に所蔵されていて、その編集は、中谷の門弟(?)の池内了の手によるものです。

 それにしても、『少年』には難しくないかな...。少年じゃない私が読んでもいいのかな...。でもそこのところは、さすが岩波、すべての岩波少年文庫の最終ページにかならずある『岩波少年文庫創刊五十年 - 新版の発足に際して』で、" 幼い頃からの読書体験の蓄積が長じて豊かな精神世界の形成をうながすとはいえ、読書は意識して習得するべき生活技術の一つでもある。岩波少年文庫は、その第一歩を発見するために、子どもとかつて子どもだったすべての人々にひらかれた書物の宝庫となることをめざしている。"と、子どもが少ししてから読んでも、私のような少年からかけ離れた人間が読んでも、拒否しないようです。ありがたく読んで楽しんでいます。


2025/10/25

■ あるく ■ 図書館で『文豪展』...


近くの市立図書館で『文豪読み比べ - 夏目漱石と太宰治』を特集しているんですが。

  で、展示の推奨図書に、漱石の著作も太宰の著作も全く置いていないんですが。

  展示してある書籍は、『文豪の食彩』『文豪と借金』『文豪聖地巡礼』『文豪たちの断捨離』『作家たちの17歳』『ダヴィンチ - 文豪特集』...って...。


  あの、事情通になりたいわけじゃなくて、作品そのものを読みたいんですが...。

  "作品などいいから、文豪の生活周辺を嗅ぎ回って稼ぐ出版物を読もう"、という趣旨の特集なんですか、ここでもやっぱり(🔗10/8) 。

2025/10/24

■ まなぶ ■ 夏目漱石・寺田寅彦・中谷宇吉郎エッセイの筆記具


 漱石『余と万年筆』は、短いですが万年筆の使用歴をユーモラスに描いていますね。

 万年筆についての著作で興味深いのは、個人的にはなんと言っても松田権六『うるしの話』(🔗2023/10/28)です。万年筆そのものの記述はごく短いのですが、作り手の側からする貴重で真摯な体験は魅力に満ちています。

 使い手の側からの記述は、玉石混交掃いて捨てるほどです。私のこのウェブログも箒の餌食のひとつでしょう。

 漱石の随筆は、ブリュブラックがイヤでセピヤ色の墨を万年筆に飲ませていた、など、豪快な話ですが、そこは、天麩羅蕎麦を四杯食って温泉で泳いだり、運動と称して墓場で墓石を片っ端から倒したりする江戸っ子の豪気なんですか。

 とは言え、万年筆は当時かなりの高級筆記具で、しかも彼のものは破損続きで、結局はペンを使って執筆していた時間のほうが圧倒的に多かったでしょう。

 "ペン"?...今ではボールペンか万年筆を指しますが、当時油性ボールペンやゲルインクボールペンがあったはずもなく、他方で"万年筆"と"ペン"を区別し、万年筆の中には"三百円もするのがある"と言う一方、"一銭のペン"と安物筆記具として対比していますので、この場合は、もちろん"つけペン"です。

 いずれにしてもやはり作家はペンか万年筆、というイメージですネ。

 愛弟子の寺田寅彦(物理学)は、おびただしい数の彼の随筆で、正面きって筆記具を扱ったものはないのですが、それら随筆の随所に"鉛筆"が普段の筆記具だったことが読み取れます。他に、漱石との出会いの最初からの因縁たる"俳句"や両者が好んで描いた"南宗画風戯画"は水墨毛筆で、また、水彩画・油絵など好んで画材に手を付けたようすが、複数の随筆に。(彼の随筆は、まさに、漱石が描いた寒月君で、飄々とした雰囲気に満ちているものが多くて、未だに愛読書です。)

 その弟子の実直な物理学者中谷宇吉郎の随筆では、鉛筆のことを書いたものがあります。

 寺田や中谷の文には、科学者特有の、世間一般に対する狭い精神地平を感じる場面も往々にしてあるのですが、中谷の、ごく短い随筆『鉛筆のしん』にも、かすかにそれを感じます。でも同時に、鉛筆の話を通じて、寺田寅彦や中村清二(物理学)の、ブレのない強い価値観から薫陶を受けたことが推し測られ、感銘を受けます。

 話の前半は、行儀・しつけについて、戦時中にはゆがめられた形で、戦争が終わった直後の今ではゆるくなってしまった、という趣旨の話を運びます。

 後半の三分の一程度を;

  "しつけといえば、すぐ、生活のしつけのことが言われますが、勉強のしつけ、学問のしつけも忘れられてはなりません。

 あなたの鉛筆のけずり方を、見てごらんなさい。むやみにしんを長く出し、その先をきりのようにとがらせてはいませんか。反対に、ちょっぴりしんが顔を出せば、それで平気でがさがさと、大きな字をなぐり書きにしてはいませんか。

「きりのしん」の人は、小さな事をいつも気にかける型、「ちょっぴりしん」の人は、ずぼら型といわれますが、本当はそうではなくて、そんな鉛筆を使っているから、そういう型の子供になっていくのです。

 ペンや万年筆は、使った後、ぬぐっておくものだということを知っていますか。賢人といわれた昔の中国の学者は、顔を洗わない日はあっても、硯を洗わない日はなかったといわれます。万年筆は、ぬるま湯で時々掃除することです。

 ノートの書き方、本の扱い方、学用品の使い方の、上手下手、手入れのよしあしというようなことは、つまらないことのようですが、これがその人の勉強に対する心構えを養う大変大切なことなのです。

 私が大学にはいった頃、中村清二という大変傑い先生がいらっしゃいました。私たちが、この大先生から一番はじめに教わったことは、何と、実験室の掃除の仕方と、ビーカーの洗い方でした。

 その頃は、くだらないことに思っていましたが、考えてみますと、ビーカー一つ満足に洗えなくては、立派な研究も出来るはずがありません。レンズを持つ時の注意、器械の持ち運び方、器械の触ってよいところと触ってならないところ。このような細かいしつけが、どれ程それからの私の研究を助けてくれたかしれないのです。"

 電動鉛筆削りはおろかポケットシャープナーも無い時代ですので、すべての国民が切り出しナイフで鉛筆を削るのが当然の頃です。

 振り返って今の私は、ここ数ヶ月はすっかり電動鉛筆削りで1時間ごとに1ダース(🔗8/26)、あるいはここ数年は、ポケットシャープナーを解体して刃を砥石で砥ぐ(🔗1023/12/30)などというみっともないことをしている気がします。

 自分では"いつもきっちり尖らせて快適に使っている"="いつも硯を洗っている"というつもりなんですが、しつけがなっていないかなぁ。