2023/07/16

■ まなぶ - 太宰治「浦島さん」


国定教科書『尋常小学国語読本』(1928)

今日の「英単語を書く」は、1501-1600の例文まで書き終えました。

今日の例文1596: With his rural background, he found it hard to adjust to the frenetic pace of the city.

   彼はいなか出身なので、都会の熱狂したようなペースにあわせていくのはムリだと思った。

… この単語集の、いつもチョイとヘンな例文をピックアップしているのですが、これは、ヘンではなくて、なんだか自分のことのような気がします...。(なお和訳はいつも、単語集の和訳ではなくて拙訳です。どうぞ大目に見てください。)

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「古典作品の話の筋なんて、もうわかりきっているのに、どうして何度も読んだり聴いたり観たりするのでしょうか」と7/11に書きました。

太宰治の「お伽草紙」は、「瘤取り」「カチカチ山」など、題名の親しみやすさから、十代始めの頃から目を通していたものの、話が何だか違うし、高校のときまではさっぱり意味不明でした。が、大学・二十代・三十代・四十代・五十代と何度も読み返すにつれて、こころに深く突き刺さってきて、ますます舌を巻きます。

日本人なら誰でもわかりきっているお話を、異別な切り口でほんとうにいきいきと描いていて、何度読んでも「う~ん、すごいな」と思います。

太宰治 「浦島さん」より:

...子どもたちにいじめられていた亀を助けてあげた数日後、亀が、お礼に竜宮まで連れて行くと言って、浦島に声をかけてくる…

「何、竜宮?」と言つて噴き出し、「おふざけでない。お前はお酒でも飲んで酔つてゐるのだらう。とんでもない事を言ひ出す。竜宮といふのは昔から、歌に詠まれ、また神仙譚として伝へられてゐますが、あれはこの世には無いもの、ね、わかりますか? あれは、古来、私たち風流人の美しい夢、あこがれ、と言つてもいいでせう。」上品すぎて、少しきざな口調になつた。
 こんどは亀のはうで噴き出して、
「たまらねえ。風流の講釈は、あとでゆつくり伺ひますから、まあ、私の言ふ事を信じてとにかく私の甲羅に乗つて下さい。あなたはどうも冒険の味を知らないからいけない。」
「おや、お前も失礼な事を言ふね。いかにも私は、冒険といふものはあまり好きでない。たとへば、あれは、曲芸のやうなものだ。派手なやうでも、やはり下品(げぼん)だ。邪道、と言つていいかも知れない。宿命に対する諦観が無い。伝統に就いての教養が無い。めくら蛇におぢず、とでもいふやうな形だ。私ども正統の風流の士のいたく顰蹙するところのものだ。軽蔑してゐる、と言つていいかも知れない。私は先人のおだやかな道を、まつすぐに歩いて行きたい。」
 「ぷ!」と亀はまた噴き出し、「その先人の道こそ、冒険の道ぢやありませんか。いや、冒険なんて下手な言葉を使ふから何か血なまぐさくて不衛生な無頼漢みたいな感じがして来るけれども、信じる力とでも言ひ直したらどうでせう。あの谷の向う側にたしかに美しい花が咲いてゐると信じ得た人だけが、何の躊躇もなく藤蔓にすがつて向う側に渡つて行きます。それを人は曲芸かと思つて、或いは喝采し、或いは何の人気取りめがと顰蹙します。しかし、それは絶対に曲芸師の綱渡りとは違つてゐるのです。藤蔓にすがつて谷を渡つてゐる人は、ただ向う側の花を見たいだけなのです。自分がいま冒険をしてゐるなんて、そんな卑俗な見栄みたいなものは持つてやしないんです。なんの冒険が自慢になるものですか。ばかばかしい。信じてゐるのです。花のある事を信じ切つてゐるのです。そんな姿を、まあ、仮に冒険と呼んでゐるだけです。あなたに冒険心が無いといふのは、あなたには信じる能力が無いといふ事です。...

古典作品の解釈。「自分はこう考えたんです」という独自の解釈が、明日の新しい古典になっていくのではないでしょうか。
近い例を1つ2つ思い連ねてみましょう;
井原西鶴「日本永大蔵」「世間胸算用」→太宰「新釈諸国話」
日本昔話(上代(奈良)以降)→太宰「お伽草子」
常山紀談(江戸)→菊池寛「形」
「今昔物語」「宇治拾遺物語」→近世(江戸)「醒酔笑」(落語の起源) →芥川「羅生門」「蜘蛛の糸」「地獄変」
解釈してくれるこの人たちは、たとえばストーリーに疑いようのない昔話の「浦島太郎」のことを、少年の頃から考え始めて、大人になってもさらに繰り返し何度も何年も考えてきたのかもしれません。彼らは、他の人間なら「古臭い」「かび臭い」ブツの背後に「美しいなまなましさ(芥川)」が「野蛮にかがやいて(芥川)」いたところを発見できるほんの一つまみの人たちでしょう。
こういう人たちは、2回目20回目200回目と、同じテーマを考えるごとに、言語感覚や多面的な見方が磨かれていくのでしょう。で、いざペンを取ったときに、特有の感性と研鑽した語彙の妙味を織り込んで、異質に変容した解釈が、見上げるような高みに光っている...。私たちは、そういう人たちの、ぞっとするような革命的な切り口やじつに練られた語り口や、その背後にある知性に、刮目させられるというわけなのですね。

あ、グールドの「ゴルトベルク」も、桂米朝の「はてなの茶碗」も、...って、やはりすべての古典作品は分野を問わず、同じことが言えると思います。このような、『新奇だが、自分はそう信じている冒険者』である「解釈者」を、「芸術家」と呼んでいるのではないでしょうか。