2025/09/21

■ まなぶ ■ 教科書を読む - 中学1年国語『トロッコ - 芥川龍之介』


ご存じということで...。

 文庫本で何百回か読んだとしても、芥川初期の短編は、何度でも何度でも手に取ります。

 簡潔で論理だち、ていねいな語り口に近づいてみると、ゾッとするような研がれた刃に触れてしまっている自分...。

 平安古典の作品に材を得たものがその典型です(🔗2023/7/16)が、コレは人から聞いた小さな日常の出来事から想を得たごく短い話。青空文庫なら、1,2回スクロールしたら終わるような短い話です。

 最初のうちは刺激も興奮もなく、ゆるゆるとのどかにけだるく話を運んでおきながら、かすかに一瞬よぎる緊張感;

"茶店の前には花の咲いた梅に、西日の光が..."

 ...春の日にほんのりあたたまって乾きかけたような「意識」という土を、いきなり深く掘り返して冷たく湿った黒々とした生々しい土が露わになるような気が、このささいなセリフで、します(私の無意味な連想です);

"...われのうちでも心配するずら"

 ゆるゆると最初から読み進むのは、その最後の2段落の心理的壮絶さをかみしめたいからじゃないかなと、自分では思っています;

"うちの門口へ駈けこんだ時、良平はとうとう大声に、わっと泣き出さずにはいられなかった。その泣き声は彼のまわりへ、一時に父や母を集まらせた。ことに母は何とか云いながら、良平の体を抱かかえるようにした。が、良平は手足をもがきながら、啜り上げ啜り上げ泣き続けた。その声が余り激しかったせいか、近所の女衆も三四人、薄暗い門口へ集って来た。父母は勿論その人たちは、口口に彼の泣く訣を尋ねた。しかし彼は何と云われても泣き立てるより外に仕方がなかった。あの遠い路を駈け通して来た、今までの心細さをふり返ると、いくら大声に泣き続けても、足りない気もちに迫られながら、... ...

 良平は二十六の年、妻子と一しょに東京へ出て来た。今では或雑誌社の二階に、校正の朱筆を握っている。が、彼はどうかすると、全然何の理由もないのに、その時の彼を思い出す事がある。全然何の理由もないのに?――塵労に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。"

 「ラストの段落はいらないのでは?」という疑問、の余地は、私には存在しないです。これがあるから読み始めるのかも。

 眠っていて、えんえんとあるく夢を実によく見てきました。実際にそうだった -- 駅を3つ分4つ分もあるいた、山で道迷いをして夕暮れまであるいた、など -- も何度も何度もありました。

 あの日の良平のように"手足をもがきながら", "余りにも激し", "いくら大声に鳴き続けても足りない"ような思いで泣く(ことのできる)瞬間って、もう人生には、死ぬまで来ない。でも、あの細々としたひとすじは、死ぬまで続いている、ということ...。二十六の年の、校正の仕事をしている塵労に疲れた"良平"。人生のみこみや華やかなゴールなどこの生活のはるか先にあるのかどうかおぼつかない、という意識がふとよぎるとき、よみがえる記憶かもしれません。私にも意識できる気が、ちょっとだけ、します。