■ ■ 弘前市内のJazz喫茶Groovin'81へ。また、常連のMクンに連れていってもらったと言えましょうか。私は半年ぶり2回目の訪問となりました。🔗2025/10/31
2026/04/04
■ あるく ■ Jazz喫茶 Groovin'81
■ ■ 弘前市内のJazz喫茶Groovin'81へ。また、常連のMクンに連れていってもらったと言えましょうか。私は半年ぶり2回目の訪問となりました。🔗2025/10/31
2025/12/11
■ まなぶ ■ 演奏会で"ブラボー"やめて
" 名古屋フィルハーモニー交響楽団@nagoyaphil
様々なご意見があるかと思いますが、終演後の早すぎる「ブラヴォー」は、私どもにとってうれしいものではございません。完璧な静寂の方が、はるかにうれしいです。今日は、指揮者も楽員も事務局員も、失望を感じておりますので、あえて投稿いたします。
午後6:23 · 2025年10月11日"
■ 名古屋フィルハーモニー交響楽団の苦しい一言。
■ もうちょうど2ヶ月たちますか、名フィルの事務局があえてX(旧ツイッター)に投稿して大きな議論になったのは。
■ 演奏会に来る客というのは、そもそもオケ自身の存立基盤の中核をなすであろう熱烈なファンと最大の資金源なはず。その人たちに対して苦言を呈する以上は、よほどの苦悩があったことでしょう。
■ 楽員・事務局員のこらえきれない総意を、抑えに抑えて短くつぶやいたのでしょう。
■ 論争のほとぼりの冷めた今さら、賛成の意をぼやっとひとこと。(論争のさなかだと、恐怖の論争に巻き込まれる危険がありそうでしたので。)
■ 演奏会に個人的には絶対に行きたくない多くの理由(→Syn🔗2023/11/5)の、最大のものです。
■ 300年前に確立した裕福な市民向けの"演奏会"って、今でもそうあり続けています。
■ おそらくその当初から、"音楽を聴く"のが第一の目的の人のためのものではなくて、それを踏み越えたいくつかの何らかの欲望を持って向かう場な気がします。
■ ゆえに、"演奏会"に"完璧な静寂"は今後も絶対にありえないです。この点、名フィルは、演奏会形式という集金機構によって存立する職業音楽家の立ち位置に、絶望的な矛盾を孕む願いを述べている気がします。
■ 更に加えて、20世紀の多様な音楽媒体が、"演奏会"を、"音楽を聴くこと"とはいっそう無縁にしたと感じています。
■ でも、そういう場に生涯縁がない私を含んだ人類の多数派が存在し続けるのと同様に、演奏会がこのような形で存在し続けるのも、経済的な需給関係があるのであれば、別に良いのでは、と思います。
■ さりながら、その場にいなければならない芸術家の皆さんの心中は、お察し申し上げたいと思います。→Syn🔗2024/2/3
2025/11/21
■ まなぶ ■ ベートーヴェンは善い音楽でジャズは悪い音楽の例? - 漱石と寅彦
■ あいかわらず、夏目漱石・寺田寅彦を味読中です。
■ "美しい音楽"の代表例がベートーヴェンですか。他方、"俗悪な音楽"の代表例がジャズ、という概念ペアを感じます。(カッコは私が付しました。)
夏目漱石『吾輩ハ猫デアル』 (明治39年;完結)
吾輩は主人と違って、元来が早起の方だから、この時すでに空腹になって参った。とうていうちのものさえ
膳 に向わぬさきから、猫の身分をもって朝めしに有りつける訳のものではないが、そこが猫の浅ましさで、もしや煙の立った汁の香 が鮑貝 の中から、うまそうに立ち上っておりはすまいかと思うと、じっとしていられなくなった。...(中略)...御三(おさん;女中) はすでに炊 き立 の飯を、御櫃(おひつ) に移して、今や七輪 にかけた鍋 の中をかきまぜつつある。...(中略)...吾輩はにゃあにゃあと甘えるごとく、訴うるがごとく、あるいはまた怨 ずるがごとく泣いて見た。御三はいっこう顧みる景色 がない。...(中略)...ひもじい時の神頼み、貧のぬすみに恋のふみと云うくらいだから、たいていの事ならやる気になる。にゃごおうにゃごおうと三度目には、注意を喚起するためにことさらに複雑なる泣き方をして見た。自分ではベトヴェンのシンフォニーにも劣らざる美妙の音 と確信しているのだが御三には何等の影響も生じないようだ。
■ ベートーヴェンのどの交響曲のどの箇所のことなんでしょうね、"美妙の
寺田寅彦『線香花火』(昭和2年)
夏の夜に小庭の縁台で子供らのもてあそぶ線香花火にはおとなの自分にも強い誘惑を感じる。これによって自分の子供の時代の夢がよみがえって来る。今はこの世にない親しかった人々の記憶がよび返される。
はじめ先端に点火されてただかすかにくすぶっている間の沈黙が、これを見守る人々の心をまさにきたるべき現象の期待によって緊張させるにちょうど適当な時間だけ継続する。次には火薬の燃焼がはじまって小さな炎が牡丹ぼたんの花弁のように放出され...(中略)...十分な変化をもって火花の音楽が進行する。この音楽のテンポはだんだんに早くなり、密度は増加し、同時に一つ一つの火花は短くなり、火の矢の先端は力弱くたれ曲がる。もはや爆裂するだけの勢力のない火弾が、空気の抵抗のためにその速度を失って、重力のために放物線を描いてたれ落ちるのである。荘重なラルゴで始まったのが、アンダンテ、アレグロを経て、プレスティシモになったと思うと、急激なデクレスセンドで、哀れにさびしいフィナーレに移って行く。...(中略)...あらゆる火花のエネルギーを吐き尽くした火球は、もろく力なくポトリと落ちる、そしてこの火花のソナタの一曲が終わるのである。あとに残されるものは淡くはかない夏の宵闇(よいやみ)である。私はなんとなくチャイコフスキーのパセティクシンフォニーを思い出す。
実際この線香花火の一本の燃え方には、「序破急」があり「起承転結」があり、詩があり音楽がある。
ところが近代になってはやり出した電気花火とかなんとか花火とか称するものはどうであろう。なるほどアルミニウムだかマグネシウムだかの閃光は光度において大きく、ストロンチウムだかリチウムだかの炎の色は美しいかもしれないが、始めからおしまいまでただぼうぼうと無作法に燃えるばかりで、タクトもなければリズムもない。それでまたあの燃え終わりのきたなさ、曲のなさはどうであろう。線香花火がベートーヴェンのソナタであれば、これはじゃかじゃかのジャズ音楽である。これも日本固有文化の精粋がアメリカの香のする近代文化に押しのけられて行く世相の一つであるとも言いたくなるくらいのものである。
■ 寺田には、生涯を通じて"線香花火"に対する強い思い入れがあります。いくつかの随筆を通じて、また、師事した中谷宇吉郎の記録を拝読しても、そう感じます。ここでは、線香花火が、チャイコフスキーの"悲愴"交響曲を思い出すと言いつつ、すぐ、"線香花火がベートーヴェンのソナタであれば"と例えています。線香花火の美しさに音楽を連想しているようすです。
■ が、他方で、ただ刺激だけで成り立つようなそれ以外の流行りの花火を批判して、"じゃかじゃかのジャズ音楽"とは...。
■ 寺田の時代1920年代は、ジャズといえば、20年代黄金時代のアメリカを象徴するような、楽天的で夢いっぱいの人生観を体現するディキシーランドに次いで巨大編成のビッグバンドが流行し、再生装置としては、明治中盤から戦前までの長きに渡り、「蓄音機」が普及していた頃でしょうか。
■ あらゆる人にウケるわけではなく、蓄音機の音質で響く華やかなビッグバンドのスウィングに眉をひそめる人たちも世界にはいたということですね。
■ バップ時代を経たマイルス・デイヴィスやビル・エヴァンスのモード・ジャズという思索に耽るような第2の黄金時代、同時進行的にハイ・フィデリティなステレオLPが普及する60年代までは遠いです。
■ 現在、学校授業での一つ覚えみたいにベートーヴェンの5番(Sym)の1楽章だけ聴いたり、俗物渦巻くオシャレな"演奏会"で、現代の巨大編成のオーケストラによる3番ばっかり演奏されたりするのを聴くのもそれなりに華やかでよいものなのかもしれないですが、類似の定番ながら、自宅でひとりでビル・エヴァンスの"Walz for ...", "Danny ..."に耳を傾けるのも、"じゃかじゃかのクラシック音楽に対して淡くはかないジャズ音楽"の対比となるようで、なかなか善いですよ、と、つぶやいてしまいます。
2025/10/31
■ あるく ■ Jazz喫茶 Groovin'81
■ めずらしく久しぶりに...正確には45年ぶりに...Jazz喫茶というところに。"連れて行ってもらった"と表現するのが正確なんですがネ。
■ 中学生の頃は、クラシック音楽が生活のすべてみたいな傾向がありました。でも高校時代にJazzに、うち、ビッグバンドとピアノトリオに惹かれます。ここ数十年は後者のみ、CDのみでした。自分のCDライブラリは100枚もない程度ですので、やはりこの分野でも自分は永遠の初心者です。
■ ドアを開けて轟音の中に入ります。すぐ目に入ったのが、初めて実物を見るJBLのP.Evelest DD6x000シリーズ(どの年代かはわかりません)、これを駆動するパワーアンプがMcIntosh1000系モノーラルセパレートでした。
■ 帰宅して見たお店のウェブサイトには、CDプレーヤとDAコンバータがAccuphaseのDP-100とDC-101。LINNのLP12やYAMAHAのディスクプレーヤーもさり気なく写っています。いずれの機器も四半世紀以上〜30年選手ですが現役バリバリで稼働しているようです...。
■ ピアノトリオバックのアルトサックスを、はじめCD、のちLPで聴く機会となったのですが、LPの音がむしろ艷やか。LPの音質こそJazzのプライマリな得意分野なんですねぇ。
■ 空間サイズや石壁風の内装により低音は飽和していましたが、高音域は、高能率のJBL製コンプレッションドライバの、あの晴れ渡った青空のような清々しさを、直接浴びるほど堪能しました。これは他社製の家庭用機器では逆立ちしても表現できない次元です。
■ Jazz喫茶のこだわりって、独自の世界観があって、たまには浸りたいです。クラシック音楽の'演奏会'という場に我が身を置く気にはまったくならないのですが、こういう空間は本当にくつろいで没入できます。
■ その'たまに'っていうが、'24時間おきに'という常連さんたちが、やはり居られました...いいなぁ。お邪魔してすみませんでした。
■ ここに連れて来てくれたM君、いつもほんとうにありがとう!
■ 多少困ったのは、昨日帰宅してから、興奮してまったく眠れなかったということか...。今日は早く寝ます(^^w
2025/10/09
■ まなぶ ■ 吉田秀和 - シューマン『交響的練習曲』の終曲はうるさい?
■ "まなぶ"というタイトルよりむしろ、"読む"話、しかも「吉田秀和って誰?」というあなたに意味不明な話なんですが。
■ 吉田秀和『LP300選』は、愛読書です。タイトルも時代遅れなら、推薦盤もLP初期から中期のもの。画像はすっかり変色し切った新潮文庫昭和59年版ですが、これ、大学生の時に"買い直した"2冊目です。いまだによく手に取ります。知り尽くしたフレーズですが、ときおり眺め、感銘をあらたにしたり反発したり...。
■ さて、そんな箇所はいちいちたくさんあるのですが、今日は、シューマンの記述の前半。
■ "300選"を作曲家ごとに選ぶこの"選集"のうち、1割近い29点はモーツァルト、ついで22点がバッハ。これはごもっとも。
■ 笑ってはいけないが笑ってしまうのが、"ショパンは(たったの)2点"。
■ うち1点は『マズルカ』。これは何百回か読みなおし聴きなおし、歳月を経てからやっと、実感できるようになりました。
■ "私の三〇〇選には、以上の二種目で我慢してほしい。偏見と承知しての話である。そうして、私は、とかく「ショパンは、天才的素人作曲家である」というルネ・レイボヴィッツの言葉に共感したくなるのである。"
■ ...吉田のスタンスに共感と納得を得ます。
■ "この私が、シューマン(Robert Schumann 1810-56)には、少しあまい。これも偏見だろう。"
■ と言って、ショパンの時と同様、次々とピアノ曲を俯瞰し、さて、けっきょくどれを選ぼうかという段になって、"『交響的練習曲』は天才的な作品だと思うが、フィナーレがなんとしても長すぎる。あの反復はたまらない。"と、選から捨てます。
■ 大学生の時以来、コレはムっとした箇所でした。
■ 「評論家大先生はいいよなぁ、シューマンの大作をも"反復がたまらん、長い、うるさい(?)"といって、ポイだもんなぁ」と、大学時代同好の士だった友人らと軽口をたたき合ったものです。
■ 血気盛んな若者(?)なら、あの頃にリリースされた若き日のポリーニ(DG)盤を聴くと、拳を握りつつ感動したのですが、それは多少引き潮気味だとしても、今でも思いは同じです。
■ 自分の好みに合う文章かそうでない意見かを、吉田にぶつけつつ気にしつつ読んでいたあの頃。
■ いま、考えてみると、吉田秀和の、白水社の全集も新潮の文庫本も、手に入る限りかき集めて読んできたわけなんですが、読み方はちがうと気づきます。
■ ショパンとちがって、シューマンには、歌集も室内楽も管弦楽も多いので、ピアノ独奏曲は、グッとこらえて『クライスレリアーナ』『幻想曲』だけに絞りに絞ったようですが、そこに至るまでに、存分に吉田の、シューマン・ピアノ曲の位置づけを読んで楽しむスタンスを取るようになりました。しぼるのにずいぶん苦しんでいるはずのところ、選に漏れたものをも、記述の中で上手にそれぞれ位置づけ、きれいにしまいこんでいて、数年後数十年後の今になってすぐに、整理整頓されてしまわれてしまった棚から、自分で取り出して聴けばいいだけ、にしておいてくれていたんですねぇ...。
2025/08/17
■ きく ■ シューマン – ダヴィッド同盟舞曲集 Davidsbündlertänze Op.6
■ 作品番号が若いですね。聴いてみましょう。
■ やはりいつものスタンス(🔗2023/3/22)で、作曲家の置かれた状況だ背景だクララだその父だ演奏家の経歴だ受賞歴だ...は、いっさい知らないってことで。そんな事はWikiやYouTubeやそれをパク 引用しているあまたの事情通なおじさんたちにお任せ。
■ 私たちは、そんなこと論ずるより、"音楽"に耳を傾けて感じ、気持ちを豊かにしましょう。
■ この”舞曲集”は、1曲2分前後の小ぶりな曲が計18曲。全曲通して聴いても、演奏時間はDa Capoなしの演奏なら30分。
■ 冒頭1番の導入が、マズルカ風の、陰影とためらいがあるリズムながら、軽やかな足取りで、ふと脳裏に浮かんできて、ついまた聴きたくなるんです。
■ 楽譜を見ると、演奏者がとまどう文学的注釈...(拙訳)。
悦びと苦しみは縺れ合う:
悦びには謙虚に
苦しみには勇んで、備えよ
■ 大学生時代に大学講義にも行かずにどなたも没頭したに違いないドイツロマン派のジャン=パウル『巨人』『陽気なヴッツ先生』の強い影響を実感します(?)。"同盟"といい、上の楽譜の左手の"Motto"の表記といい、この記事の楽譜の最下段最終音フェルマータ下の[F. und E.]という不明な表記といい、文学の霧に包まれたお話がまとわりついています。知るのも楽しいですが、生涯知らずに音楽を楽しむだけでも、じゅうぶんすぎるほど夢想の境地に遊べる曲集だと思います。
■ そのうちの、第13曲を。"Wild(荒々しく)(A部)、und lustig(そしてほがらかに)(B部)+(おだやかなCoda)(C部)"を、何人かの演奏で比べてみましょう。なお、たった3分ほどのこの曲の、"A, B, C部"は、私の勝手な区切り方です...。
【A部; 荒々しく】非常に強く勢いのあるオクターヴの打鍵。左手の指のレンジが教会パイプオルガンペダル並みに広く、スフォルツァンド記号もクレシェンド記号も頻繁で、ゆえに猛烈な強打が必要です。
■ ここでいま取り上げる演奏家に不満は何ひとつないです。
■ 他方、YouTubeにアップしている多くの若い日本人演奏家らの、左手の打鍵が、弱すぎ丸すぎ腰が引けていて、聴き続けるのが苦痛です。まるで、書家の手を書展で見た後に、ネットのブログで個人の手書きの丸文字を見せられるような見苦しさが...。YouTubeのおかげで広くいろいろな演奏に触れられるようになり、個人ブログにも「これもいいなぁ」と根拠も示さず安易にそのリンクが次々ベタベタ貼りつけられているのに出くわします。なんだか醜悪さすら漂います。玉石混交な広漠とした情報洪水の世の中、自分を磨いて、聴き分け見分けるしかないと痛感します。
■ デムス盤(Documents;1970盤)(🔗2024/11/28)。個人的にシューマンピアノ曲のリファレンスとなるような刷り込みは、ここ40年ほど、彼のこのステレオ初期の全集です。LPの時代には飛び飛びに、その後、13枚の全集を、数十回か数百回か、通して聴いてきました。
■ ポリーニ盤(DG;2001年)。デムス盤を踏襲した伝統的で模範的な解釈です。彼の晩年のDGの録音に共通ですが、ホール残響やペダル残響が多く華やかな響きです。が、それよりも、彼特有の、信念に満ちた打鍵の強さ、流れの美しさは、感服せずにはいられないです。晩年になってこのシューマン初期の作品を録音したんですね。
■ ウーリヒ盤(Hänssler Classic;2014年)。2021年の時点でシューマンのピアノ曲全集Vol.15まで完成させているのですが、その後、全集セットを発売しないのみならず、本人のYouTube及びYouTubeMusicサイトで、全アルバムを無料開放しています。唖然...。どのような意図・戦略なのでしょうか。15枚全てにわたり、実によく考え、練り、悠然とした器の大きな演奏。このOp.6の13曲目は、少し影のある鬱屈した歩みですが、確固とした非常に強いアタックで、驚きを呼び起こします。
【B部; そしてほがらかに】
■ 豊かなレガートを幾重にも重なるスラー記号で。
■ デムスもポリーニも、強いA部の残響の勢いのある水しぶきをかぶったままどんどん漕ぎ出していくかのような爽快感があります。
■ 他方、ウーリヒは、力で押すA部を一瞬、フと断ち切り、あらためて泰然とB部のレガートに乗り出します。この間(ま)のつくりの発想に、うならされてしまいます。ウーリヒは、全アルバムを通して、曲想について実に深い新たな熟慮を得ています。
■ 内田盤(Decca;2014)。上の人たちとは、いやこれまでたくさん聴いたどの演奏家とも、まったく別の道を行く大きな包容力を感じるのが、内田でした。彼女も、活動後期になってからこのシューマン初期の作品を録音したんですね。
■ A部からB部を間断なくつないでそのコントラストの豊かさを際立たせる伝統的解釈とは、きっぱり袂を分かつような、その響きとためらいの麗しさには、もう魂をすっかり奪われます。そのレガートは、力みを抜ききって、静まり返った水面の凪を、なめるかのように静かに滑空します。
【 C部; コーダ】ホルン5度の響きが重なるドイツ伝統の角笛の響き。
■ 右手から左手へとクレッシェンドしつつテンポをあれよあれよと上げ、大波のようなデュナーミクが寄せ、すっとリタルダントして引いて消えていく見事さが、息をのむような聴き所です。
■ ポリーニやウーリヒのあざとさに舌を巻きます。
■ が、内田の、陶酔して気を失うような美しさ...。この人は、おそらく、考えては弾き、考えては弾き、...を、数百回数千回繰り返して磨いたものでは...。まるで単なる主観的連想の比喩ですが、楽譜をバラバラにほぐして、音符を1音1音とりだして、磨き、下塗りを重ねて、研ぎだし、磨き、また塗っては、を重ねて、最後に漆黒のつややかな漆を仕上げ塗りし、あらためて組み直したところ、そのつややかな漆黒の縁辺に、美しい下塗りの朱や緑が釉を透かしてほのかに美しく見えるかのようです。
2025/02/01
■ きく ■ オペラは好きですか?
■ いいえ。
2025/01/01
■ きく ■ C. P. E. バッハ - 弦楽のための交響曲 Wq 182-2
■ たとえばの話。いなかでの閉塞した息苦しい因習に縛られた長年の生活。が、大都市に出、 今日から、新しい生活をするとしたら。あらゆるしがらみから解き放たれ、深呼吸して自由に羽を伸ばして、生き生きと思ったとおりにのびのびと活動し始めたら。さぞ"都市の空気は自由にする-Stadtluft macht frei."ことでしょう!
■ 16世紀ルネサンス晩期、教皇の玉座ローマを花の臺(うてな)のように擁するイタリアが、サンピエトロの御聖堂(おみどう)に響き渡る爛熟のポリフォニー音楽の惰眠をむさぼっていた頃。同時進行で、北端の商業自治都市ヴェネツィアにて、革命的に新鮮な"いびつな真珠 barocco"が隆盛し、初期バロックとなるモンテヴェルディらヴェネツィア楽派が、閉塞したポリフォニックな教会音楽の腐乱の息の根を止めた...、ふうに、私には映ります。都市の空気が新風を吹き込んだことでしょう。
■ ヨハン・セバスチャン・バッハが20歳のときに、いなかの教会オルガニストの職の4週間の休暇という制約を、傲慢にもまるで無視して、勝手に16週間かけて、400kmの道のりをあるいて、北ドイツハンザ同盟の都市リューベックに、ブクステフーデのオルガンを聞きに行ったのも、閉塞からの深呼吸、都市の空気のなせるわざでしょうか。
■ その大バッハ晩年のブランデンブルク協奏曲は、いわゆる「バロック音楽」晩期の完成様式で、もはや"いびつな真珠"どころか、バロック音楽のすべてのエッセンスを凝縮する大粒の円満な調和を象徴しているのではないでしょうか。とはいえ、今でも、鳥肌が立つような斬新な演奏の新譜が登場する楽しい源泉でもあります。
■ この、偉大過ぎる父ヨハン・セバスチャンの、第2子カール・フィリップ・エマヌエル(C.P.E.)・バッハは、大バッハ20人の子の誰よりも父の価値観や様式に忠実なようです。
■ 職も、プロイセンのフリートリヒ大王の宮廷に鍵盤奏者として奉職し、父大バッハとフリートリヒ大王を引き会わせています("音楽の捧げもの(BWV1079)"のきっかけ)。
■ トップ画像のアルバム・アートは、下↓の、メンツェル(Menzel)の絵画の、部分です。フルート奏者はフリートリヒ大王、鍵盤はC. P. E. バッハ、右端はフルート教師で大王の音楽の師のクヴァンツ、ヴァイオリン奏者の2人はベンダ兄弟のはず...。ベルリン、ポツダムのサン・スーシ(sans souci)宮殿にて、啓蒙君主を取り巻く錚々たる音楽家メンバーでのコンサートの華やかさに、惹かれずにはいられません。
■ 目を奪われるような絵画の美しさは、燭台とシャンデリアの光の美しい描写によるものではないでしょうか。ドイツのレアリスムス派を象徴するタッチで、ほぼ同時代のロマン派フリートリヒ(C.D.Friedrich)の息を呑むような幻想世界と並びます。いずれにしても、フランス印象派の勃興がもう目の前に迫っています。
■ で、言いたいのが、モンテヴェルディ、若き大バッハと同様に、このC. P. E. バッハも、父の宗教的・音楽的価値観への共感と重圧、偉大な啓蒙君主のパトロンながら専制君主たるフリートリヒ大王の重圧から、まさに逃れ、期せずして父と類似した、かのハンザ同盟の自由都市の、ハンブルクに新天地を求めて、30年奉職したポツダムの宮殿を後にします。新鮮な空気を深呼吸したかったにちがいないです。
■ 自由な自治都市ハンブルクにて書いたこの交響曲(作品番号;Wq182の6曲)の、アっと驚くような書法。
■ 私がこのCDを思わず手にしたのは1980年代の大学生時代。80年代に隆盛をきわめていたイギリス古楽器集団のうちのピノックの演奏、アルバムアートの斬新さ、「大バッハの息子」というエピゴーネンの器楽による調和的世界、などといった期待感と先入観の後押しによるものでした。
■ 弦楽器と通奏低音(チェンバロ)だけで、管楽器も打楽器もない「シンフォニア」と称する3楽章形式の曲が6曲。まぁ軽い曲かな、と。
■ がっ!...一聴して、その和声構造の、現代アートのような破壊的な意外さに、えぇっ!?と。もう、崩壊しています...。大バッハの円満な調和も打ち砕かれ、ぶち壊されました。
■ 2番の1楽章を見ましょう。
■ 突如ユニゾンで、轟音を立ててガラガラと構造物が崩壊します(赤枠)、と、八分休符とスタッカートで息の根が止まった!(黄枠)、かと思いきや、スグ立ち直り...(ここまでたった1小節)、スタッカートの低音リズムに突き動かされて16分四連で歩み始めたヴァイオリン(Vn)が、一音ごとに、異常な転調を繰り返し、完全に制御を失っています...。(青枠)
■ 二段目1stVnが、突如止まり、トリルで痙攣し、また止まり、より強いトリルで痙攣し、を繰り返します(trにp, mf, f の強弱記号が...)。(紫枠)
■「バロック音楽」が爛熟し破綻した今。ハイドンはまだエステルハージ家の抑圧下にあって、モーツァルトはまだザルツブルク司教の抑圧下にあって、ヴィーン古典派はまだ芽生えておらず、音楽は、もっと自由な空気を求めて破裂するための突破孔を求めていた時期ではないでしょうか。
■ C. P. E. バッハのこのWq.182の6曲は、まさに、破裂しています。
■ "多感様式 Empfindsamer Stil" などと呼ばれる彼の音楽。かつての価値観に安らぎなど求めない、内に秘める激しい心の動き。この作品を貫いて、音型には、異常に激しい跳躍、踏み外したような思いがけない転調、突如の休止と窒息、直後に激流の破裂と、聴く者を、急峻な岩場をほとばしる白濁した急流に力いっぱい投げ込むようです。
■ 史上、すぐ続いて、ハイドン、モーツァルトの"疾風怒濤期 (Sturm und Drang Zeit)"が押し寄せます。
■「よ、よし、今日は聴くぞ」と決意して手を伸ばすCDは、いくつかありますが、この、たった数分の楽章構成をもつにすぎないこの1枚も、それにあたります。「うはっ!すごいな」と、つい、このピノック/イングリッシュコンサートの演奏の爽快感から、独り言をうなってしまいます。
■ 音楽史上、様式の過渡期にあたる上に、"大バッハの子"という陰の存在ゆえに、「独自性」「自分」といったものを声高に主張しない存在のような気がするのですが、自分のなかでは、異様な存在感があり続けています。
■ ポッと明かりがついたり、フッと暗闇に戻ったり、しかし、中をよく見ると、奥底に、煌々と灼熱の熾(おき)を秘めている、消せども消えぬ炭火の熾のような存在が、このC. P. E. バッハのWq.182です。
2024/12/31
■ きく ■ 桂米朝 『厄拂い』
■ 「大晦日の落語」。何が思い浮かびますか。
■ 幾多あれど、大晦日の噺の両横綱は、上方・江戸問わず『掛け取り』。江戸落語では『芝濱』が、圧倒的存在感ですよネ。
■ 個人的には、上方落語にはただでさえ登場が珍しい「雪」が、まさに主役級と言える、大晦日のお寺での噺、桂米朝・永滝五郎の『除夜の雪』が、まったく特別な存在です。実によく考えられたマクラでリラックスした聴衆。その笑みが、あまりの恐ろしさと悲しさに、瞬間冷凍されるように凍りつき、寄席の場は、水を打ったような静けさのうちに、すっ...と短く終わります。"国宝"とうならされる名人芸...。
■ まぁそ~お堅いこと言うなよ、と思われているでしょうから、んじゃぁやっぱ、くつろげるお話を選ぶとして、大晦日の上方の庶民と大店(おおだな)の幸せ感溢れる『厄拂い』。
■ いつもの与太郎(チョイと頭のクギが一本抜けたニート君)に、ご隠居さんが、お小遣い稼ぎのアイディアを与えます。大晦日の「厄払い」です。
■ 昭和初期頃までは盛んだった習慣らしいです。現代日本には無くなった習慣でしょう。江戸時代最大の商業圏の大阪ならではかもしれないです。
■ 大晦日に、「厄、払いまひょか。」と、とりわけ験を担ぐ習わしの大店の店先に現れ、縁起の良い年越し文句を、軽妙な調子をつけて祈祷する、一種の売り子。店側では、番頭以下丁稚までが並んで調子〆め、ご祝儀にお金と節分豆の報酬を払い渡してやります。
■ その文句が:
"あーら、めでたやな、めでたやな。
めでたいことで払おなら、
鶴は千年、亀は万年、
浦島太郎は八千歳。
東方朔(とうぼうさく)は九千歳。
三浦の大助、百六つ。
かかるめでたき折からに、
いかなる悪魔が来ようとも、
この厄払いがひっとらえ、
西の海へサラリ、
厄払いまひょ。"
■ ご隠居さんが、与太郎に教えて暗記させようとするのですが、まぁどうしようもないです。与太郎は、すべてカナ書きしてもらったカンニングペーパー持参の状態で、商売に繰り出します。
■ その後の話のおもしろさは、いずれの噺家も、腕の見せ所でしょうか。
■ 桂米朝の昭和50年の録音では、まるっきり覚えていない与太郎が、あちこちの店で、しゃべることごとに、縁起の悪い単語を連発し、店の者に顰蹙をくらい、聞く私たちを笑わせます。
■ 最後に寄った大店。待ちかねた番頭が、与太郎を急かします:
与太「"う、うら、浦島太郎は"、...ここちょっと読みづらいなぁ、これカスレたぁる。ちょっとおたずねしますが..."浦島太郎は"、...なんでしたかいな」
番頭「何を言うてる。"浦島太郎は八千歳"じゃ!」
与太「あぁーそやそや。それから?」
番頭「東方朔は九千歳っ!」
与太「なるほど、で?」
番頭「三浦の大助百六つ!」
与太「そうそう。」
番頭「いかなる悪魔が来ようとも...」
与太「そやそや、違いない違いない。」
番頭「西の海へサラリ、厄払いましょうっ!」
与太「アハハ、アンタが払うとくれなはった、ほなさいなら。」
番頭「お、おいこらぁ。...人に払わして、行ってしまいよった、あの厄払い。」
旦那が登場「ハッハッハ、いやいやけっこうけっこう。番頭どん。うちの者が厄払うたのも、おもろいやないか。こっちゃぁ腹かかえて笑うとったがな。これでもう、毎年のご祝儀が済みました。さぁさぁ、これで目出とう休むことにひまひょ。」
番頭「旦さん、えらい急に雨が降ってきました。」
旦那「おう、急に雨が降ってきたなぁ。年越しの晩に雨が降るとは。」
番頭「旦さん、これはおめでとうございます。めでたいこってんねん。」
旦那「そうかえ?」
番頭「そうでんがな。急に雨が降ってきましたんや。
"降るは千年、雨は万年"でっせ。」
旦那「なるほど、こらぁ験のえぇことを言うてくれたな。
おや、おい、何をばたばたしとんねん。」
二番番頭「いや、降ってきましたんでな、裏の方の戸を閉めてきましたんで。
"裏閉めたるは八千歳"とは、どうでございます。」
旦那「はぁ、ようでけたな!」
三番番頭「わたしゃ、ほうぼうの戸を刺して(施錠して)きましたんで、
"ぼうぼうさすは九千歳"と。」
旦那「やぁ、これもうまいなぁ。おや権助、そんなところでブルブル震えてどないしたんや。」
権助「いやいや、
"みぶるいの権助、百六つ"でおます。」
旦那「アッハッハ、...」
■ という調子で、大店の店の者一同で、駄洒落た厄払いを次々に調子よくこなし、噺の落ちとしています。
■ 大晦日の夜は、落語をピリリと聞いて、充足感をもって眠りにつきたいです。
2024/11/28
■ きく ■ シューマン 交響的練習曲 Op.13
■ イェルク・デムス(Jörg Demus)によるシューマンのピアノ曲全集、CD13枚組のうちの6枚目に収録されています。全集は主に1960年代のステレオ初期の録音ばかり...。
■ 1980~90年代、東京でしがない大学生やバイト生活の頃に、「全集版」としては出ていなかったのですが、この人のLP1枚1枚を、図書館で借りた感じでしょう(文京区の小石川図書館や真砂図書館でした)。演奏家がどういう人だかわかりませんでした。今もよくわかりません。
■ その後、なじみあるその演奏家の、CDになり廉価となった全集を2008年頃に購入。
■ ところで、話は飛ぶのですが、「その曲にまつわる逸話」「その曲が描かれた背景」「その時の作曲家を取り巻く状況」「それを演奏する演奏家の逸話・受賞歴」など、実は、個人的に嫌悪感があります。吹聴するあなたの「事情通」な博識を大いに尊敬いたします...とはまったく思えないです。そのゴシップ情報は、自分の、あなたの、現実存在に、何か影響を及ぼしますか? 無前提で音楽だけ聴けないものなの?(🔗2023/3/22)...と強く意識したのが大学生の頃。
■ その発想の延長で、その後のCDの時代になって、シューマンの場合、同じ鍵盤曲でも、バッハやハイドンやモーツァルトやベートーヴェンのように、または、シューマンの歌曲集のように、彼のピアノ曲に「親しんでいる」というわけじゃなかったので、これを機に、「シューマンのピアノ曲」の聴き方としては、CDの利便性を活用して、「曲名がずっとわからないままつぎつぎと聞いていこう」と、実験でもするみたいに決めました。
■ この発想で当初、ハイドンの交響曲104曲余りを、「CD数十枚組ボックスセット」などで全曲聴けるようになって、「104曲全曲を、番号や表題など全く知らないまま通して聴く」ことにトライしたのですが、十代の頃から知っている曲も多く、また、104曲CD数十枚といえど、1回・3回・10回・100回と繰り返して聴くと、感性の鈍い私でも、作曲技法や楽器編成について、様式や時代の区切りやステージの違いを感じ、結果、ある程度体系的に分類や位置づけができてしまいます。
■ 他方で、シューマンのピアノは、その手で、この曲がなんていう曲か、極力知らないまま聞き続けてきましたので、「子供の情景」なんだか「クライスレリアーナ」なんだか「ダヴィト同盟」なんだか、今もって十分区別できません。同様に「天国的長さ」のシューベルトのピアノソナタ全集でもそんな調子です。
■ ですが、デムスの13枚を通して聴いて、やはり、既知の曲、けっこう詳細を知っていた曲があり、それが「交響的練習曲」で、13枚の中では、どうしても突出した高みに位置付けてしまっています。もうこれはどうしようもないかな。ルービンシュタインやアシュケナージやポゴレリチやで幾度も聴いてしまっていたからでもあります。彼らのことはイマは目をつむって捨象しましょう。
■ この、自分の中では、シューマンの全ピアノ曲のうちで突出してしまった存在の曲ですが、どういう経緯で作曲されたか、などわからないです。が、ただ聴き続けているってだけの人間の感想を、しかもやはりそのほんの1つの細部についてのみ、書いてみようかな。
---...---...---
■ このOp.13のテーマ、C#-G#-E-C#の動機がずっしり重く暗く、続くEtüde 1、Etüde 2と、重い軛を背負ってあるいていかなくてはなりません。それゆえ十年以上も、「さぁ聴こう」と手が伸びるような1枚ではなく、好きになれなかった曲でした。
■ また、終曲のEtüde 12の、力いっぱい輝かしい変ニ長に転じた大音響も、鬱々と悲観的な20代を暮らした私には、むしろ苦痛だったかも。そう言えば、ベートーヴェンの「運命」を聴くとしても、2楽章と3楽章のみ聞いて、途切れなく突入する4楽章の直前0.1秒で針を上げるマネをしていました...。
■ じゃ、好きな曲でもなければ「突出した存在」にもならないじゃないか、という言われるのもごもっとも。ただ、この曲を思い出すとしたら、ポリーニの演奏による、まるでか細いように聞こえるEtüde 3でした。
■ すぐ上に書いた通り、Etüde 1は、低音の左手の打鍵で続きざまに心臓を衝かれるようです。続くEtüde 2は、エスプレッシヴォとして強くも暗いそれ。4拍子の、1拍1拍を6分割して、傷つきつつふらつきつつもズシリズシリと地を震わせて歩みます。
■ ところが、Etüde 2の最終音のスフォルツァンドのペダルが解放された瞬間、まるで、氷で覆われた巨大な岩のわずかなすき間から、清らかな水がひとすじ、つかまらないとらえられないような軽いアルペッジォのEtüde 3が、さらさらキラキラと流れ出、逃げていくかのように、あらゆる重荷をふりすてて軽やかに進みます。重さにメゲていた自分の気持ちが、やっと気づいて、あわてて追いかけます。
■ 突然、すべての罪過を赦してもらえ、ふさがれていた口と鼻から覆いがなくなり、呼吸が楽になったことに、やっと気づき、軽く明るく透明な、ごくか弱い、水のような風のような流れを、すがるような思いで追いかけます。
■ この右手の軽く小さいスタッカートの分散音階を一瞬思い出すだけで、この曲を聴かずにはいられない気持ちが溢れます。
■ ずっと、デムスの、少年のような情熱と包むような誠意あふれる演奏で聴いてきました。古い録音で、木質な、響きの少ない、硬いタッチ。中部ヨーロッパのベーゼンドルファーでしょうか。聴く分には、感情の起伏も穏やかで、じっくりとこころあたたまります。他方、ポリーニの、天上を舞う夢のように軽やかなタッチと透き通るデジタル録音で、響きの広がりと美しさ・滑らかさのおかげで、このEtüde 3の小さな流れに、あっと気づいた思いでした。
■ シューマンの曲すべてに想うことですが、同世代同年齢のショパンと対極的なのは、シューマンの「内から突き上げ横溢する湧き水のような自発性」「疑わなくてよい誠実さ」だと感じます。
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■ デムスのCD13枚組を、PCにリッピングし、microSDカードにコピーして、古い8インチのタブレット+JBLの肩掛けスピーカー(🔗2023/12/1の画像)で聴きます。13枚組だろうと途切れなく連続演奏してくれて、所用の無い日は、1日で13枚はすぐ聴き終える感じでしょうか(JBLは充電池が切れますが2つ所有していますので交換しつつ...)。
■ 1曲1曲にまつわる知識も標題名も先入観もまったく無いままサラサラとシューマンの感情が流れ出して、私には理想的な聴き方の1つです。ただ、そのときでも、CD13枚のうちのこのSymphonische Etüdenはいったんスキップして、その後また、無知な私にとっては無名であっても心から溢れ出る無数の音楽を、聴き続けるのですが。
2024/06/18
■ きく - シベリウス - 交響曲第4番 イ短調 作品63
■ 交響曲のシリーズは、どの作曲家も、独自の人格的な世界を形成しています。
■ そのうちでもまた私にとって独特な存在がシベリウスです。
■ 私のとらえ方では、他の作曲家を思い、さて彼の交響曲に目を遣ったときの特異性は、1) 全7曲が1曲の交響曲のような連続性。2) ヒト、人間社会、社交性や社会性やヒトのつながり、などといった概念を、拒否とは言わないが無視しているかのような曲想...。ヒトが歩み入れない巨大な北極圏の自然というか、ヒトの存在を意に介さない巨大な自然のうごめきを感じるというか...、特有の心象的な世界...。この2点です。もちろん、他の人の理解をえられない、自分だけの感情の、裏付けのない語彙足らずな表現です。ごめんなさい。
■ コレだという1曲を選ぶのはムリですが、うち、まったく理解してもらえそうもない部分を書いてみようかな...、って、だったら書くだけ無駄なのですが...。ま、ひとりごとです。
■ 4番が最も晦渋と言われます。が、今となっては私にとっては、親密で心地よい響きの1つです。
■ 世間様一般の「演奏会」などという華やかな場では全くウケない曲でしょう。わかりやすく稼げるウケ狙いのDG(グラモフォン)のバーンスタイン盤に、4番6番の録音が無いことでもすぐおわかりの通りです...って、す、すみません!! バーンスタインの、"ウルトラロマンティシズム(私の勝手な命名)"の全集も、やはりなくてはならないシリーズです。が、こと4番については、今は記憶の視野から外しておきます。
■ いきなり1楽章冒頭が、Vc(チェロ)とコントラバスのみの強奏で(赤枠)、旋律を為すかなさないかのような混沌とした謎の動機。すぐ6小節目からソロのチェロで(黄色枠)、違和感ある陰鬱な主題...。目が点になって軽い恐怖に襲われるかもしれませんが、こころの深みに沈潜していくようで、ひとりしずかに向かい合う気持ちにひきずりこまれます。
■ 2&3楽章も言いたいことはあれど、今日は4楽章の一部を。
■ 4楽章の冒頭。突如えぐるような弦のみの深いユニゾンの f (fp) の1音で打ち上げられた、1st Vnの上行音階。上に凸な放物線の頂点でデクレッシェンドして落下、2nd Vnが受けて下に凸な放物線の下端の頂点でまた上行、Vaがこれを受けてまた上に凸な穹窿...と、思わず呼吸を深く合わせてしまうように、聴く者は翻弄されて、これまた不思議な楽章にいきなり吸い込まれていきます。
■ クラリネット奏者の良し悪しをあっさり判別し、世の多くの奏者を振るい落として捨て去るような音階。CDとして録音を世界にリリースしているようなレベルのオーケストラなら別に不安ではないのですが、4番4楽章を「演奏会」では絶対に聴きたくない恐怖感があります。
■ 低音楽器群のみの静かなさざ波に、ヴィオラのソロが冥界の旋律を奏でます...。
■ 同様に、静かで規則的なのに不安なこころのさざ波が続き、管楽器群が震えだし、弦楽器群の揺れがトレモロからグリッサンドへと大きく動き出します...。しばしばあの世の鐘が響くように、グロッケンシュピールが叩かれます。
■ そのまま、古典的な調性音楽でなじんでいるような調和的な旋律やドラマ性など無しに、巨大な流れが破裂したり収束したりして、金管が消え、木管が息絶え、弦のみのテヌートで静かに絶えます...。
■ おそらく、「演奏会」のプログラムにうっかり載せたりなんかしたら、聴衆は茫然としてそのまま終了となるでしょう。シベリウス存命中から今に至るまで、きっとそう...。ゆえにプログラムに載ることは無いでしょう。でも、作曲者には、自分以外に誰のことなども振り返り顧みる必要など無いような、強い内面のヴィジョンと意志が、あるような気がします。
■ 70年代コリン・デイヴィスの最初の全集、ボストン交響楽団盤が、少年時代のあの頃には手に汗を握って耳を傾けたLPでした。今CDで聴くと、LP時代より音像がクッキリしていますが、テンポはかなり速く、今となっては、もうちょっとじっくり聴き入りたい気がします。
■ 90年代に、スウェーデンBIS盤で、ネーメ・ヤルヴィ/エーテボリ交響楽団の4番のCDを購入。LPもCDも、マイクが近く、音の彫りが深く、ダイナミックレンジが広大で、しかもじっくりと聴き入ることのできるテンポです。今でも一番手が伸びる演奏です。
■ より新しい録音のBIS盤の、オスモ・ヴァレンスカ/ラハティ交響楽団盤は、90年代終わりの録音とはいえ、編成が小さく現代的なシャープな演奏で、北欧の氷のような冷たさを彷彿とさせる録音となっていて、これまた独自の存在感があります。
■ 4番に関しては、上の3者のうちの後2者が私にとって現時点で決定的です。
■ でも、7曲の全集となったら、素晴らしい演奏がどっさりあって、しかもまだ聴いたことのない演奏もいくつもあり、既知の花畑と未知の沃野に、「シベリウスの交響曲」は、ずっと心が躍る存在であり続けていますし、毎日を生き生きと生きる希望でもあります。
2024/03/31
■ きく - バッハ「ヨハネ受難曲」(BWV245)
■ たとえば、あなたとまわりのみんなが大切にしていたものが、こわされていた...。誰のしわざだ?
■ 自分がやったのでないのは明らかなのですが、直接手を下さないにしても、間接的な原因が自分だと感じたとき、実行犯が誰かはともかく、あなたは、「私がその原因をつくりました」と告白したいとこころから感じている...とします。みんなの前で、どう言い出しましょうか。
■ 「ハイッ!私ですッ!」と、この際、潔く元気よくいきますか? それとも、静まり返った皆のなかで、静かに「...わたし...です...」と言い出しますか?
---...---...---
■ 復活の主日となりました。昨日の聖土曜までの重い四旬節、この期間の反省を今日から活かして、気分もあらたに、つぎの1年をすごしたいです。今年は煌々と明るく美しい満月が直前の聖週間にかかり、ご復活がぴったり3/31の年度末となり、区切り良く気持ちの切り替えがついた思いです。
■ おとといの続きなのですが、「ヨハネ受難曲」の、ある1箇所の、演奏者による解釈の違いを...。たった1音のみの小さな箇所ですが、私には大きな違いです...。
■ おとといの、福音書記者ヨハネが記述する史実の場面をふりかえります[ヨハネによる福音18章15節-27節] (再掲);
(イエスは、弟子ユダの裏切りで、捕縛され、審問を受けるために勾引される。四散し逃走した弟子たちのうち、不安に駆られたペトロが戻り、イエスの後をひそかに追う。これをユダヤ教大祭司邸宅の下女に見咎められる)
下女(soprano) (BWV245-12)
汝もかのイエスの弟子のひとりならずや?
ペトロ(bass)
私は違う。
福音史家(tenor)
下僕らと下役の者ども炭火をおこし(時寒ければなり)
その傍らに立ち暖まりおりしところ、
ペトロもまぎれて入りて暖まりいたり。
ここに大祭司、イエスにその弟子たちとその教えにつきて
問い訊したれば、イエス答えたもう
イエス(bass)
我は公に世に語れり。全てのユダヤ人の相集う会堂と宮とにて
常に教え、密かには何をも語りしことなし。
何ゆえ我に問うか。我が語れることは聞きたる人々に問え!
見よ、彼らは我が言いしことを知るなり。
福音史家(tenor)
かく言いたもうとき、傍らに立つ下役どもの一人、
イエスに平手打ちをくらわせて言う
下役(tenor)
大祭司に向かいて、かかる答えざまのあるべきや?
福音史家(tenor)
イエス答えたもう
イエス(bass)
もし我当を得ざる語り方をなせしなら、その悪しきを訴えて証言せよ。
当を得たりとせば、なにとて我を打つか。
■ ここまでの歴史的場面を振り返って、イマここに集う会衆であるあなたやわたしたちが、自分を振り返り、省み、屠られた彼を、わたしの代わりとなって打たれたのだと告白します;
コラール (P・ゲールハルト作;受難節コラール;合唱4声部) (BWV245-15)
Vers1;(日本語の唱歌でよく使われる「歌詞の1番」)
たれぞ汝をばかく打ちたるか
はた汝にもろもろの責め苦を
かくもいたく負わせたるか、我が救い主よ?
まことに汝は罪びとにはあらず、
我らと我らが子らのとごくならず、
悪事を知らざるおおけなき身にていますに
Vers2;(唱歌でいう「2番」)
われなり、このわれ、またわが罪の
浜の砂子のごとく
おびただしく積もりいて、
尊きおん身をばかかる窮地においやり、
見るだに悲しき責め苦のかずかずを負わせ
しかして汝をかくは打つたるなり
和訳;杉山好 (CD: Archiv F66A 20012/3)
■ 上の文語体の和訳だと厳めしいですね。他方で、所有のどのCD/LPの英訳も、聖書文語体ですので、同様な口調です。わかりやすさの点で、YouTubeのBBC Proms 2008の英語字幕が、押韻は無いですが平易な現代口語なので、ひろってみましょう;
V1;
Who would strike You like that,
my Saviour, and so ill-treat You?
You are not a sinner
like us and our children.
You know nothing of wrongdoing.
V2;
It is I, with my sins
as countless as the grains
of sand by the seashore.
I have brought down on You
this host of sorrows and torments.
■ 「それはわたし...わたしの罪が、浜の砂粒のように、おびただしく積もったことで、あなたをこのような目に...」と告白するとして、どういい出しましょうか?
■ おとといの演奏盤のうち、クイケン盤もヘレヴェヒェ盤も、第2連(Vers 2)の
"Ich, ich und meine Sünden / It is I, with my sins " の「わたし」を、
きっぱりと ff (フォルテッシモ)の大きな斉唱で、堂々と名乗り出ます。
■ OVPP(1人1パート)だと、斉唱時に声質は明らかに不ぞろいなので、全員で大きな声で名乗り出る点に、聴く側は腰が引けてしまいます...。
■ ガーディナー盤(1986)は...
■ 驚いたことに、Ich を、pp (ピアニッシモ)で、そっとしずかにうちあけます。
■ しかも、2008年のPromsの演奏では、同時に、ソプラノに寄り添う2本のフラウトトラヴェルソ以外のすべての器楽伴奏を休止し、ささやくような小さな合唱のみが、切々と告白します...。
---...---...---
■ どちらでしょう、あなたなら...?
2024/03/29
■ きく - バッハ「ヨハネ受難曲」(BVW245)
■ 聖金曜日となりました。バッハの「ヨハネ受難曲」について、ここ数年感じていることを。
■ バッハの2曲の受難曲は、私の数十年前の高校時代以降厚く垂れこめる存在でした。
■ あの時はもちろんカール・リヒター指揮ミュンヘンバッハ管弦楽団・合唱団でした。有無を言わさぬ大きな権威でした。
■ その演奏は、今から思うと、巨大編成・つややかでキツい音の現代楽器・巨大合唱群・おどろおどろしい威圧的な響き...。ついでに、非常に高額なLP組み物。聞き通す2時間30分に何回も何回も盤を交換して集中力を維持する修行。
■ 今となっては、遠い過去の1つの演奏に相対化されています。
■ 「マタイ受難曲」は、リヒターの演奏をアルヒーフがLP1枚に抜粋した盤を手に入れました(LPへのメモでは1980年1月購入です)。序曲のシンコペーションリズムが、十字架の道行き、自ら処刑されるための十字架を背負って歩む足取りを暗示し、ずっしり重いのですが、長調に転調する際の言いようもない明るさや希望を感じます。その後全曲盤を手にして、レシタティーヴォが多くて朗読調、アリアがイタリアオペラに比肩する難曲ぞろい、何より進行する歴史的事件の描写の重圧感...と、集中力を維持するのは容易なことではないです。
■ 完成度は、いわば「ヨハネ受難曲-第5版」とでもいうほど「ヨハネ」に改訂を重ねた結果として生まれた「マタイ」の方が高いでしょう。
■ 個人的には、でも、バッハが「受難曲」として最初に手掛けた「ヨハネ」に、凝縮感とアピールの直截性を覚えます。
■ もちろん「ヨハネ」も初めて聴いたのは、リヒター盤(1964盤)です;暗く重く、序曲では、弦の高音部は不安にさざめく規則正しい16分4連、中音部(ヴィオラとチェロ)は8分4連、通奏低音群(ヴィオローネとオルガン)はずっしり強いフォルテの4分で、1刻みごとに心臓に太い杭を深々と打ち込まれるところ、合唱の出は、いきなり巨大な絶叫で...。
■ これは耐え難い、と思ったものでした。が、美しいアリアやコラールや合唱が間断なく次々と続き、芸術的興味の高さは絶え間なく保たれます。
■ 一転して、現在;
■ 演奏の主流は、ピリオド楽器(古楽器) です。加えて近年の録音の流行(?)は、1人1パート。「One Voice Per Part & 合唱団なし」の編成を、OVPPというそうです。
■ 非常に静謐で軽やかです。声の美しさ、古楽器の響きの美しさを、こころから実感します。
---...---...---
■ 本来、バッハが想定した受難曲の演奏は、大規模な合唱隊(聖歌隊)が背後に存在することです。この人数的構成は、大都市ライプツィヒでの職場環境や当時出版社に発注されたパート譜の出納記録から、各パート1名ではないものと推定されています。
本来この合唱隊(聖歌隊)の役割は、
1). 福音書中の"あの歴史的事件における大衆"の声(扇動され興奮し、イエスを処刑に追い込む熱狂的な民衆)(トゥルバ合唱)、
2). 聖書の物語を、聖週間にあたって、静かに省察するルター派の教会会衆(コラール合唱団)、すなわち"いまここにいるわたしたち"、
の2つです。
■ 彼らの前景にて、歌手らが、福音史家役・イエス役・ピラト役・他の聖書登場人物として、受難直前の物語を、それぞれの福音書記者の描いた通りに演じます。
■ OVPP(1人1パート)は、このようなバッハの想定を否定して、「合唱聖歌隊」ナシで、独奏歌手らが、合唱(民衆とコラール)を兼ねます。
■ これにより、静けさ、音色の純粋さ、が得られ、大げさな演奏会や教会のような権威の場とはちがって、聞く人の心に、親密にストレートに訴えるものがあります。
■ OVPPの演奏も実績を重ねてきました。代表的な名盤と個人的に思うものを挙げると、オランダ人のSigiswald Kuijken(ジギスヴァルト・クイケン)率いるLa Petite Bandeか、ベルギーのPhiilippe Herreweghe(フィリペ・ヘルヴェヒェ)率いるCollegium Vocale Gentではないかな。
■ 1940年代生まれの両者は、私が中学の時の70年代にはすでに彼らは活躍中でした。1970年代からもう40年も彼らの演奏を聞いているかも。古楽器のやわらかい演奏で、しかしその解釈はずっと時代の最先端にいると思います。
■ クイケン盤のヨハネ受難曲(2012年盤SACD)とヘルヴェヒェ盤のもの(2020年盤)のうち、今日は、ちょっと尖った演奏の前者を、リヒター亡き後のアルヒーフを支えるガーディナー盤とで、そのほんの1か所だけを比べてみましょう。
■ イマ比べたいヨハネ受難曲のコンテキストを、一部ちょっとさらってみましょう。福音書の和訳は、杉山好の文語訳を、私が一部現代語にして少し読みやすく(?)してあります;
[第一部;裏切りと捕縛;否認 -- ヨハネによる福音18章15節-27節]
(イエスは、弟子ユダの裏切りで、捕縛され、審問を受けるために勾引される。四散し逃走した弟子たちのうち、不安に駆られたペトロが戻り、イエスの後をひそかに追う。これをユダヤ教大祭司邸宅の下女に見咎められる)
下女(soprano) (BWV245-12)
汝もかのイエスの弟子のひとりならずや?
ペトロ(bass)
私は違う。
福音史家(tenor)
下僕らと下役の者ども炭火をおこし(時寒ければなり)
その傍らに立ち暖まりおりしところ、
ペトロもまぎれて入りて暖まりいたり。
ここに大祭司、イエスにその弟子たちとその教えにつきて
問い訊したれば、イエス答えたもう
イエス(bass)
我は公に世に語れり。全てのユダヤ人の相集う会堂と宮とにて
常に教え、密かには何をも語りしことなし。
何ゆえ我に問うか。我が語れることは聞きたる人々に問え!
見よ、彼らは我が言いしことを知るなり。
福音史家(tenor)
かく言いたもうとき、傍らに立つ下役どもの一人、
イエスに平手打ちをくらわせて言う
下役(tenor)
大祭司に向かいて、かかる答えざまのあるべきや?
福音史家(tenor)
イエス答えたもう
イエス(bass)
もし我当を得ざる語り方をなせしなら、その悪しきを訴えて証言せよ。
当を得たりとせば、なにとて我を打つか。
コラール (P・ゲールハルト作;受難節コラール;合唱4声部) (BWV245-15_Vers1;)
たれぞ汝をばかく打ちたるか
はた汝にもろもろの責め苦を
かくもいたく負わせたるか、我が救い主よ?
まことに汝は罪びとにはあらず、
我らと我らが子らのとごくならず、
悪事を知らざるおおけなき身にていますに
■ 聖書の史的記述の進行中に差しはさまれたルター派のコラール、
これを、リヒター盤もガーディナー盤(現在の代表的名盤)も、きっとバッハ自身も、合唱隊(聖歌隊)に歌わせています。
コラールを歌う合唱団の存在は、天の声でもあり、今リアルタイムで教会に集う私たち会衆の内省の声でもあります。
■ が、KuijkenのOVPPの演奏だと、合唱隊が存在せず、ソリスト8名が、合唱隊を兼ねます。ゆえに、このコラールを唱和するその声は、まさに、
福音史家・イエス・大祭司・下女・下役たちの声だ w(・o・)w!
...イエスと、今まさにイエスを平手打ちした下役と、ピラトと、福音史家と...。
その本人たちが、一緒になってルター派のコラールを歌っているという、
この不自然さ...。
■ 責めたり殴ったりした人が、天の声・会衆の声としてコラールを唱和する...
「あなたをぶったのはだれだ? あなたは罪びとではない」と唱和する違和感...。
■ 現代のSACDの音というか、定位感、空気感が、あまりにも良く伝わるために、気づいてしまった違和感...。
■ この違和感は、この演奏の突出した美しさとともに、OVPPが古楽演奏の世界で有力説となって以来ずっと、私の中では、途方もないものに膨れ上がっています。
■ 今は亡きレコード芸術の論評欄でもHMVのコメントも、これに触れたものはなく、もろ手を挙げて絶賛...
なんだけど、みんな、ヘンだと思わないのかなぁ?
■ ソリストはコラールを歌うべきなのか?
■ そう感じてしまうのも、個人的には、現代のマタイ受難曲とヨハネ受難曲の演奏として、安心して身を任せてきたのは、声の質と均一性が吟味されたガーディナー盤(ジョン・エリオット・ガーディナー&イギリスバロックソロイスツ&モンテヴェルディ合唱団; 1986年盤)だからです。
---...---...---
■ また別の問題ですが、このコラール15番の、ゲールハルトのコラールに関しては、ガーディーナー盤とOVPP諸盤との、個人的に決定的な解釈の違いがあるのですが、それは次の機会に。
---...---...---
■ ガーディナーの演奏が、驚いたことに you-tubeで2時間半フルで、広告なしの無料で...BBCのプロムス2008(音楽祭)における全曲演奏をBBCがアップしたもので、安心です。感動的な現代の名演だと思います(Youtube動画をウェブログに貼り付けるのは抵抗があるので、興味のある方はお探しを)。
2024/03/16
■ きく - シューベルト / ウーラント 『春のおもい』D. 686 (Op.20-2) - O. ベーア & G. パーソンズ
■ まったく同じ話で、本も音楽も絵画も、1度読んだり聴いたり見たりしただけでは、2回目の感想は必ず異なる、しかも前回の自分に批判的になったりするので、「印象」は持つのですが「表現」するのをためらいます。10回目に触れたら、前回9回目に触れた自分の気持ちとはやはり違います。後の方が、より多くに気づき、より進歩し、より利口に賢明になっている、とは限りませんが...。書道華道や楽器などの芸や習い事を何年もなさる方は、いや、建築作品やプログラミングなどにしても、その模範・お手本・モデルに対して、そう感じることがあるのではないでしょうか。
■ だから、「課題図書の読書感想文」などという宿題はニガテです(いまさら学校時代の言い訳か)。特に、音楽は、作曲家の表現を演奏家が表現するわけですので、私にとっては、10回や20回聴いただけでは...。同じ作品を、何度読んでも何度聴いても何度見ても、う~んなるほど、と新しく思うことはあります。
■ 次々と本を読み音楽を聴き、初めて読んだ本初めて聴いた演奏についてすぐそれを表現でき、「コレってこうだな」と述べたり「コレいいよ」と薦めたり、などというヒトは、優秀な人であると自他ともに認めるでしょう。が、私には永遠にできないマネのようです。「とりあえず10回読もう、ひとまず100回聴こう」が、本とCD/LPに対するポリシーでした(カセットテープの時代から; 手持ちの数少ないテープの録音を上書きする場合のポリシーだったんです)。ま、トロい自分を受け入れるしかないです。
■ 昨年来、ここで生意気にも感想を述べてきた音楽作品は、「とりあえずとっくに100回以上程度は聴いた」ものですが、その後聴いても、やはり思いを新たにします。
■ そのうちでも、何百回目かに新たに聴いて、さすがにだいぶ気持ちが落ち着いてきたものも多いです;
---...---...---
■ 春が近づくたびに、2月くらいからまたぞろ聴き始め、ゆく春を惜しむように6月くらいまで聴いている曲の一つが、コレだったりします。
■ ディースカウ & ムーアの演奏がいいに決まっているよなぁと、カセットテープが擦り切れ、カセットデッキヘッドが磁性体粉まみれになった少年時代の摺り込みもあるのですが、すぐ手にとって聴きやすいCDで保有しているのは、これももう30年も毎年欠かさず聴いているベーア (バリトン) & パーソンズ (ピアノ) 盤です。
■ 70年代初頭の古いディースカウ盤が、クッキリさわやかな発声やひんやりとした空気感をもつ印象があります。ヘッドフォンで改めて聴き比べれば、音が良いのは90年代のベーア盤のCDに決まっているのですが。もちろん、録音技術の問題ではなくて、やはり少年時代の耳と希望、毎年永遠に満たされないけれど、毎年希望を膨らませるこの曲特有の思いが、そういう印象をつくってしまったのでしょう。
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■ シューベルトとシューマンのリートについては、私がしゃべればしゃべるほど、あなたから遠のいていくと思いますので、訳してみるだけにします(下のドイツ語は新正書法ではないです。ドイツ語句末の句読法は、EMI CDC 7 54773 2 ライナーノートのままです)。
■ 和訳も、ことばによるよけいなおしつけですが、いま読んでくれている方が、曲とその和訳に、そしてよりすてきな演奏に、あらたに出会ってくれることを願っています;やわらかなそよ風が目をさまし、
昼も夜も、さやぐ音をたててふきわたり、
この世のすみずみにまで、息吹をかよわせる。
あぁ、さわやかな香り、あたらしい響き!
さあ、あわれなこの胸も、こころをとざしていないで!
いまこそ、何もかも、移り変わるときだ。
この世は日ごとに美しくなり、
この上どうなっていくのか、はかりしれない。
花はとめどもなく咲きつづけていく。
あのいちばん遠い、いちばん深い谷も、花ざかりだ。
さあ、あわれなこの胸も悩みを忘れよう!
いまこそ、何もかも、移り変わるときだ。
Die linden Lüfte sind erwacht,Sie säuseln und weben Tag und Nacht,Sie schaffen an allen Enden.O frischer Duft, o neuer Klang!Nun, armes Herze, sei nicht bang!Nun muß sich Alles, Alles wenden.Die Welt wird schöner mit jedem Tag,Man weiß nicht, was noch werden mag,Das Blühen will nicht enden;Es blüht das fernste, tiefste Tal:Nun, armes Herz, vergiß der Qual!Nun muß sich Alles, Alles wenden....L. Uhland "Frühlingsglaube"
2024/02/03
■ きく - バッハ「平均律クラヴィア曲集第1巻5番 二長調 前奏曲 」BWV850;グールド
■ あの日、一聴した瞬間、腹の底がひっこんで笑いがつい破裂しました...。なぜかは明らかですが、表現できるかな。
■ グールドを私が語るなんてはあまりに恐れ多く百年早いのですが、生きているうちにボソリと呟いてみます。
■ 日本でピアノを習う人の、数といい年齢層といい歴史といい、層の厚さは先進国随一を争う勢いです。高度経済成長期以降、ピアノが、アップライト型ではあれ、一定階層以上の個人の所有物として一般家庭に普及し、「娘にピアノくらいは習わせたい...」「その日は娘のピアノの発表会があるので...」「休日にはピアノの練習音が聞こえるちょっと大きめのきれいな家...」が、日本人の夢みる幸福で豊かな家庭のステイタスだったきらいがあります。加えて近年は「子どもの習い事」にとどまらず、学習開始年齢を問わない生涯学習としての地位も確立されているようです。
■ これほど底辺が広く高くそびえる厚い階統制を頂点に登りつめた人たちとしては、プロのピアニスト、またその供給源である芸大音楽科や音楽大学の人たちが想像できます、が、ヒエラルキーを登りつめたこの人たちのした努力は、学校のお勉強などとはまたちがって、想像を絶するものがあることでしょう。尊敬して余りあります。
■ 音楽科を受験して合格するだけでも、一般の私たちが漠然と想像するような上記の「幸せな家庭」レベルなど消し飛んでしまうような壮絶な世界だ、と、ま、当初は思ってもみなかったのですが、東京で学生をしていて、そういう方々に出会って、私には異世界なのですが、少しだけは実感できました。出会って見たり聞いたりした経験には感謝。いろんなお話がたくさんあるのですが、また今度会ったときにでも...リクエストしてくれればいくらでも語れるから(なんだそれは)。
■ そんな体験のうちのごく浅い部類の話をひとつ。私の下宿の近くに別なアパートがあって、毎日ピアノの練習をする学生さんがいました。大学が違うし、親しくはないのですが、名前とあいさつ程度は...。ピアノ科ではなく声楽なのですが、教職課程も取っていることだし、ピアノは当然必須で、毎日、声の練習の前に、ピアノの練習も異なる数曲で聞こえます。試験のスパンで曲が変わるようです。
■ が、その日の練習に入る指慣らしの毎日の第一の課題が、変わらず、表記のバッハの平均律1巻のニ長調のプレリュードでした。指導教官やテキストやカリキュラムによるのかもしれませんし、その人個人が「指慣らしにはコレ」と決めているかもしれないのですが、複数の学生さんが、毎日まずはコレを弾いているのを耳にしました。たしかに、プロにとって「旧約聖書」のこの曲ならば、さぞ指もほぐれることでしょう。もっとも、音楽科入学レベルに遥か遠い私たち素人なら、指など、ほぐれるどころか、もつれるばかりで前に進むハズのないレベル、ですが...。
■ バッハの不思議な点は、どんなレベルの誰が演奏しても、ちゃ~んと楽しんで聴けるところです。例えば街のピアノ教室の発表会。小学生主体。週2回お稽古に通うためレッスンの直前に30分練習している小学生たちが、ショパンやリストを弾いたら...、親となって目を細めて聞く立場でない限りは、そんな危険な所へは、絶対近づかないにこしたことはありません...。モーツァルトなら...、う、うん、行くはずが昨日の胃バリウム検査のせいで今日はちょっとずっとおなかの具合が...。ハイドンなら...、イマちょっと咳が出て会場で迷惑になるので早めに退出を...、バイヤーなら...、あ、チ、チョっと上手になったねぇ...と、汗だくで言いわけするところ、バッハ「インヴェンションとシンフォニア」ハ長調BW772なら...、あ、いいね!楽しい!って感じがしませんか ← よくわからん、という方ごめんなさい。
■ 芸大とか音大などの近隣に「楽器持ち込み可」のアパートが多めの学生街エリアって東京にはあるんですが、そんな場面で歩いていて他からも聞こえることはあれど、発表会の小学生へのあたたかいまなざし(耳)は無く、バッハだろうとリストだろうと、聞こえてきたら、ちょいと辛い耳をそばだててしまいます。
■だから、音楽科の学生さんのバッハなので文句なく聞ける、しかもヘ長調の「イタリア協奏曲」などとちがって、素朴な響きの「平均律」なら、よほどうまいよなぁ、...と言いたいところ、やはり、だれにでも調子の波があるようで、毎日聞くともなく聞いていると、フィンガリングが体調や感情を教えてくれたりします。
■ でも、毎日決まった時間に真面目に練習が始まり、いかにも苦悩し努力し、そういうちゃんとした人だからこそもちろん、音楽学習者ヒエラルキーの頂点に立つ学校に通っているわけで...。デタラメな私の生活を諫めてくれるような存在でもありました。この人の努力のツメのアカでも...。
■ この曲は、私個人は、LPで、H・ヴァルヒャのチェンバロの演奏と、S・リヒテルのピアノの演奏で持っています。ちょっと演奏の速さに留意して聴き直してみます。
BWV850のプレリュードの演奏速度をメトロノーム解析すると;
・ヴァルヒャ...78.5bpm…しっかりかみしめるような運指です。リュッカース・チェンバロでの70年代アルヒーフ盤ですが、今となってはやはりアンマー・チェンバロのような、鋼線の現代チェンバロに近い、硬く豪華な響きがします。
学生さんや学習者の練習はこのテンポです。調子により、止まったり戻ったり...。
・リヒテル...145.5bpm…珍しく非常に速いテンポでの演奏です。
じっくり深く沈潜して考えるリヒテルという先入観が、この曲にはあてはまらないです。
・グールド...163bpm… 猛烈に速いです。プレリュードだけなら66秒で演奏終了です。
ま、今となっては、彼なので、驚くに値しないかもしれませんが。録音は1963年と、上のヴァルヒャの2回目の録音より10年早い時期です。さぞかし世界中が腰を抜かしたことでしょう。
■ さて、冒頭で申し上げた、思わず笑いが破裂してしまったのは;
■「演奏会」「聴衆」「熱狂」「拍手」などに嫌悪感をおぼえる音楽家は多いです。古くはヴァグナー、ニーチェに始まり、グールドがその最右翼かもしれません。これらの者たちは、皆おなじ考えをもっているわけではないのですが、強い嫌悪感を表示している点で同じです。
■ でも、素人考えでは、「演奏会」と、これをささえる18世紀以来の裕福な一般市民層が今日も存在するからこそ、雑多の中から純粋種が洗練され、底辺が厚いからこそ頂点はより高くなるわけで、これらヒエラルキーの最底辺にあっても、そこで努力するその価値は大きいと思います。
■ ピアノのある家庭を夢見る高度経済成長期の労働者階級のおとうさんから、ピアノを習う小学生だって、発表会で目を細めるじいちゃんばあちゃんだって。また、その小学生が、中学・高校と進んで、バイヤーだったのが、ブラームスのト短調のラプソディ(Op.79)を課題曲に与えられたりなんかしたら、音楽科だって視野に入ってきます。これらの人たちの注いだ努力と費用...。どの一人の地道な努力の積み重ねも、グールドのような雲上の存在を支えていると思います。
■ ところがっ、グールドのこのニ長調ときたら...。
■ まるで、のび太くんとスネ夫くんが砂浜で何時間もかけて一生懸命つくった砂のお城を、ジャイアンが1分で大笑いして破壊するかのように、すべての音楽学習者のあらゆる地道な努力を一瞬にして蹴散らして、バッハの理想の目的地に着いたかのように聞こえてしまいました。
■ ジャイアンとグールドをいっしょにするって暴論を越して愚かですが、粗暴なジャイアンとちがうのは、グールドの、どの1音の細部にも、神が宿っている点です。
■ スタカートのようなインパクトのある左手と、想像を絶する軽やか滑らかな16分4連。
■ または、まるで、大学の先生たちが1年間4単位かけて必死に懸命に真面目に不器用に説明したコトを、たとえば F.ニーチェが「つまりさ、」と一言のアフォリズム(箴言)でケリをつけた、画家が「ほら」と壁に落書きして、1秒ですべてケリがついた、ような...。
■ グールドのこのニ長調。聴く私は、あは、と笑ったきり、口をあけたまま聴き入ってしまいます。グールドが孕むのは速さだけの問題ではなく、タッチに基づくソノリティの不思議さ等、大きな課題はなお山積、ですが、今は、その雲の上を滑走してあっという間にいなくなった彼に「どうだい、ボクの落書きは」と、66秒で教えてもらった気がしました。


















