■ たとえばの話。いなかでの閉塞した息苦しい因習に縛られた長年の生活。が、大都市に出、 今日から、新しい生活をするとしたら。あらゆるしがらみから解き放たれ、深呼吸して自由に羽を伸ばして、生き生きと思ったとおりにのびのびと活動し始めたら。さぞ"都市の空気は自由にする-Stadtluft macht frei."ことでしょう!
■ 16世紀ルネサンス晩期、教皇の玉座ローマを花の臺(うてな)のように擁するイタリアが、サンピエトロの御聖堂(おみどう)に響き渡る爛熟のポリフォニー音楽の惰眠をむさぼっていた頃。同時進行で、北端の商業自治都市ヴェネツィアにて、革命的に新鮮な"いびつな真珠 barocco"が隆盛し、初期バロックとなるモンテヴェルディらヴェネツィア楽派が、閉塞したポリフォニックな教会音楽の腐乱の息の根を止めた...、ふうに、私には映ります。都市の空気が新風を吹き込んだことでしょう。
■ ヨハン・セバスチャン・バッハが20歳のときに、いなかの教会オルガニストの職の4週間の休暇という制約を、傲慢にもまるで無視して、勝手に16週間かけて、400kmの道のりをあるいて、北ドイツハンザ同盟の都市リューベックに、ブクステフーデのオルガンを聞きに行ったのも、閉塞からの深呼吸、都市の空気のなせるわざでしょうか。
■ その大バッハ晩年のブランデンブルク協奏曲は、いわゆる「バロック音楽」晩期の完成様式で、もはや"いびつな真珠"どころか、バロック音楽のすべてのエッセンスを凝縮する大粒の円満な調和を象徴しているのではないでしょうか。とはいえ、今でも、鳥肌が立つような斬新な演奏の新譜が登場する楽しい源泉でもあります。
■ この、偉大過ぎる父ヨハン・セバスチャンの、第2子カール・フィリップ・エマヌエル(C.P.E.)・バッハは、大バッハ20人の子の誰よりも父の価値観や様式に忠実なようです。
■ 職も、プロイセンのフリートリヒ大王の宮廷に鍵盤奏者として奉職し、父大バッハとフリートリヒ大王を引き会わせています("音楽の捧げもの(BWV1079)"のきっかけ)。
■ トップ画像のアルバム・アートは、下↓の、メンツェル(Menzel)の絵画の、部分です。フルート奏者はフリートリヒ大王、鍵盤はC. P. E. バッハ、右端はフルート教師で大王の音楽の師のクヴァンツ、ヴァイオリン奏者の2人はベンダ兄弟のはず...。ベルリン、ポツダムのサン・スーシ(sans souci)宮殿にて、啓蒙君主を取り巻く錚々たる音楽家メンバーでのコンサートの華やかさに、惹かれずにはいられません。
■ 目を奪われるような絵画の美しさは、燭台とシャンデリアの光の美しい描写によるものではないでしょうか。ドイツのレアリスムス派を象徴するタッチで、ほぼ同時代のロマン派フリートリヒ(C.D.Friedrich)の息を呑むような幻想世界と並びます。いずれにしても、フランス印象派の勃興がもう目の前に迫っています。
■ で、言いたいのが、モンテヴェルディ、若き大バッハと同様に、このC. P. E. バッハも、父の宗教的・音楽的価値観への共感と重圧、偉大な啓蒙君主のパトロンながら専制君主たるフリートリヒ大王の重圧から、まさに逃れ、期せずして父と類似した、かのハンザ同盟の自由都市の、ハンブルクに新天地を求めて、30年奉職したポツダムの宮殿を後にします。新鮮な空気を深呼吸したかったにちがいないです。
■ 自由な自治都市ハンブルクにて書いたこの交響曲(作品番号;Wq182の6曲)の、アっと驚くような書法。
■ 私がこのCDを思わず手にしたのは1980年代の大学生時代。80年代に隆盛をきわめていたイギリス古楽器集団のうちのピノックの演奏、アルバムアートの斬新さ、「大バッハの息子」というエピゴーネンの器楽による調和的世界、などといった期待感と先入観の後押しによるものでした。
■ 弦楽器と通奏低音(チェンバロ)だけで、管楽器も打楽器もない「シンフォニア」と称する3楽章形式の曲が6曲。まぁ軽い曲かな、と。
■ がっ!...一聴して、その和声構造の、現代アートのような破壊的な意外さに、えぇっ!?と。もう、崩壊しています...。大バッハの円満な調和も打ち砕かれ、ぶち壊されました。
■ 2番の1楽章を見ましょう。
■ 突如ユニゾンで、轟音を立ててガラガラと構造物が崩壊します(赤枠)、と、八分休符とスタッカートで息の根が止まった!(黄枠)、かと思いきや、スグ立ち直り...(ここまでたった1小節)、スタッカートの低音リズムに突き動かされて16分四連で歩み始めたヴァイオリン(Vn)が、一音ごとに、異常な転調を繰り返し、完全に制御を失っています...。(青枠)
■ 二段目1stVnが、突如止まり、トリルで痙攣し、また止まり、より強いトリルで痙攣し、を繰り返します(trにp, mf, f の強弱記号が...)。(紫枠)
■「バロック音楽」が爛熟し破綻した今。ハイドンはまだエステルハージ家の抑圧下にあって、モーツァルトはまだザルツブルク司教の抑圧下にあって、ヴィーン古典派はまだ芽生えておらず、音楽は、もっと自由な空気を求めて破裂するための突破孔を求めていた時期ではないでしょうか。
■ C. P. E. バッハのこのWq.182の6曲は、まさに、破裂しています。
■ "多感様式 Empfindsamer Stil" などと呼ばれる彼の音楽。かつての価値観に安らぎなど求めない、内に秘める激しい心の動き。この作品を貫いて、音型には、異常に激しい跳躍、踏み外したような思いがけない転調、突如の休止と窒息、直後に激流の破裂と、聴く者を、急峻な岩場をほとばしる白濁した急流に力いっぱい投げ込むようです。
■ 史上、すぐ続いて、ハイドン、モーツァルトの"疾風怒濤期 (Sturm und Drang Zeit)"が押し寄せます。
■「よ、よし、今日は聴くぞ」と決意して手を伸ばすCDは、いくつかありますが、この、たった数分の楽章構成をもつにすぎないこの1枚も、それにあたります。「うはっ!すごいな」と、つい、このピノック/イングリッシュコンサートの演奏の爽快感から、独り言をうなってしまいます。
■ 音楽史上、様式の過渡期にあたる上に、"大バッハの子"という陰の存在ゆえに、「独自性」「自分」といったものを声高に主張しない存在のような気がするのですが、自分のなかでは、異様な存在感があり続けています。
■ ポッと明かりがついたり、フッと暗闇に戻ったり、しかし、中をよく見ると、奥底に、煌々と灼熱の熾(おき)を秘めている、消せども消えぬ炭火の熾のような存在が、このC. P. E. バッハのWq.182です。