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2025/10/09

■ まなぶ ■ 吉田秀和 - シューマン『交響的練習曲』の終曲はうるさい?


"まなぶ"というタイトルよりむしろ、"読む"話、しかも「吉田秀和って誰?」というあなたに意味不明な話なんですが。

 吉田秀和『LP300選』は、愛読書です。タイトルも時代遅れなら、推薦盤もLP初期から中期のもの。画像はすっかり変色し切った新潮文庫昭和59年版ですが、これ、大学生の時に"買い直した"2冊目です。いまだによく手に取ります。知り尽くしたフレーズですが、ときおり眺め、感銘をあらたにしたり反発したり...。

 さて、そんな箇所はいちいちたくさんあるのですが、今日は、シューマンの記述の前半。

 "300選"を作曲家ごとに選ぶこの"選集"のうち、1割近い29点はモーツァルト、ついで22点がバッハ。これはごもっとも。

 笑ってはいけないが笑ってしまうのが、"ショパンは(たったの)2点"。

 うち1点は『マズルカ』。これは何百回か読みなおし聴きなおし、歳月を経てからやっと、実感できるようになりました。

 "私の三〇〇選には、以上の二種目で我慢してほしい。偏見と承知しての話である。そうして、私は、とかく「ショパンは、天才的素人作曲家である」というルネ・レイボヴィッツの言葉に共感したくなるのである。"

 ...吉田のスタンスに共感と納得を得ます。

 "この私が、シューマン(Robert Schumann 1810-56)には、少しあまい。これも偏見だろう。"


 と言って、ショパンの時と同様、次々とピアノ曲を俯瞰し、さて、けっきょくどれを選ぼうかという段になって、"『交響的練習曲』は天才的な作品だと思うが、フィナーレがなんとしても長すぎる。あの反復はたまらない。"と、選から捨てます。

 大学生の時以来、コレはムっとした箇所でした。

 「評論家大先生はいいよなぁ、シューマンの大作をも"反復がたまらん、長い、うるさい(?)"といって、ポイだもんなぁ」と、大学時代同好の士だった友人らと軽口をたたき合ったものです。

 血気盛んな若者(?)なら、あの頃にリリースされた若き日のポリーニ(DG)盤を聴くと、拳を握りつつ感動したのですが、それは多少引き潮気味だとしても、今でも思いは同じです。

 自分の好みに合う文章かそうでない意見かを、吉田にぶつけつつ気にしつつ読んでいたあの頃。

 いま、考えてみると、吉田秀和の、白水社の全集も新潮の文庫本も、手に入る限りかき集めて読んできたわけなんですが、読み方はちがうと気づきます。

 ショパンとちがって、シューマンには、歌集も室内楽も管弦楽も多いので、ピアノ独奏曲は、グッとこらえて『クライスレリアーナ』『幻想曲』だけに絞りに絞ったようですが、そこに至るまでに、存分に吉田の、シューマン・ピアノ曲の位置づけを読んで楽しむスタンスを取るようになりました。しぼるのにずいぶん苦しんでいるはずのところ、選に漏れたものをも、記述の中で上手にそれぞれ位置づけ、きれいにしまいこんでいて、数年後数十年後の今になってすぐに、整理整頓されてしまわれてしまった棚から、自分で取り出して聴けばいいだけ、にしておいてくれていたんですねぇ...。

2025/08/17

■ きく ■ シューマン – ダヴィッド同盟舞曲集 Davidsbündlertänze Op.6

YouTubeMusic / Album
"Schumann Davidsbündlertänze Op.6"
検索画面

作品番号が若いですね。聴いてみましょう。

 やはりいつものスタンス(🔗2023/3/22)で、作曲家の置かれた状況だ背景だクララだその父だ演奏家の経歴だ受賞歴だ...は、いっさい知らないってことで。そんな事はWikiやYouTubeやそれをパク 引用しているあまたの事情通なおじさんたちにお任せ。


 私たちは、そんなこと論ずるより、"音楽"に耳を傾けて感じ、気持ちを豊かにしましょう。

 この”舞曲集”は、1曲2分前後の小ぶりな曲が計18曲。全曲通して聴いても、演奏時間はDa Capoなしの演奏なら30分。

 冒頭1番の導入が、マズルカ風の、陰影とためらいがあるリズムながら、軽やかな足取りで、ふと脳裏に浮かんできて、ついまた聴きたくなるんです。

 楽譜を見ると、演奏者がとまどう文学的注釈...(拙訳)。


古い格言: いつの時代もいつも

悦びと苦しみは縺れ合う:

悦びには謙虚に

苦しみには勇んで、備えよ

 大学生時代に大学講義にも行かずにどなたも没頭したに違いないドイツロマン派のジャン=パウル『巨人』『陽気なヴッツ先生』の強い影響を実感します(?)。"同盟"といい、上の楽譜の左手の"Motto"の表記といい、この記事の楽譜の最下段最終音フェルマータ下の[F. und E.]という不明な表記といい、文学の霧に包まれたお話がまとわりついています。知るのも楽しいですが、生涯知らずに音楽を楽しむだけでも、じゅうぶんすぎるほど夢想の境地に遊べる曲集だと思います。

 そのうちの、第13曲を。"Wild(荒々しく)(A部)、und lustig(そしてほがらかに)(B部)+(おだやかなCoda)(C部)"を、何人かの演奏で比べてみましょう。なお、たった3分ほどのこの曲の、"A, B, C部"は、私の勝手な区切り方です...。

A部; 荒々しく非常に強く勢いのあるオクターヴの打鍵。左手の指のレンジが教会パイプオルガンペダル並みに広く、スフォルツァンド記号もクレシェンド記号も頻繁で、ゆえに猛烈な強打が必要です。


 ここでいま取り上げる演奏家に不満は何ひとつないです。

 他方、YouTubeにアップしている多くの若い日本人演奏家らの、左手の打鍵が、弱すぎ丸すぎ腰が引けていて、聴き続けるのが苦痛です。まるで、書家の手を書展で見た後に、ネットのブログで個人の手書きの丸文字を見せられるような見苦しさが...。YouTubeのおかげで広くいろいろな演奏に触れられるようになり、個人ブログにも「これもいいなぁ」と根拠も示さず安易にそのリンクが次々ベタベタ貼りつけられているのに出くわします。なんだか醜悪さすら漂います。玉石混交な広漠とした情報洪水の世の中、自分を磨いて、聴き分け見分けるしかないと痛感します。

 デムス盤(Documents;1970盤)(🔗2024/11/28)。個人的にシューマンピアノ曲のリファレンスとなるような刷り込みは、ここ40年ほど、彼のこのステレオ初期の全集です。LPの時代には飛び飛びに、その後、13枚の全集を、数十回か数百回か、通して聴いてきました。


 ポリーニ盤(DG;2001年)。デムス盤を踏襲した伝統的で模範的な解釈です。彼の晩年のDGの録音に共通ですが、ホール残響やペダル残響が多く華やかな響きです。が、それよりも、彼特有の、信念に満ちた打鍵の強さ、流れの美しさは、感服せずにはいられないです。晩年になってこのシューマン初期の作品を録音したんですね。


 ウーリヒ盤(Hänssler Classic;2014年)。2021年の時点でシューマンのピアノ曲全集Vol.15まで完成させているのですが、その後、全集セットを発売しないのみならず、本人のYouTube及びYouTubeMusicサイトで、全アルバムを無料開放しています。唖然...。どのような意図・戦略なのでしょうか。15枚全てにわたり、実によく考え、練り、悠然とした器の大きな演奏。このOp.6の13曲目は、少し影のある鬱屈した歩みですが、確固とした非常に強いアタックで、驚きを呼び起こします。


B部; そしてほがらかに


 豊かなレガートを幾重にも重なるスラー記号で。

 デムスもポリーニも、強いA部の残響の勢いのある水しぶきをかぶったままどんどん漕ぎ出していくかのような爽快感があります。

 他方、ウーリヒは、力で押すA部を一瞬、フと断ち切り、あらためて泰然とB部のレガートに乗り出します。この間(ま)のつくりの発想に、うならされてしまいます。ウーリヒは、全アルバムを通して、曲想について実に深い新たな熟慮を得ています。

  内田盤(Decca;2014)。上の人たちとは、いやこれまでたくさん聴いたどの演奏家とも、まったく別の道を行く大きな包容力を感じるのが、内田でした。彼女も、活動後期になってからこのシューマン初期の作品を録音したんですね。


 A部からB部を間断なくつないでそのコントラストの豊かさを際立たせる伝統的解釈とは、きっぱり袂を分かつような、その響きとためらいの麗しさには、もう魂をすっかり奪われます。そのレガートは、力みを抜ききって、静まり返った水面の凪を、なめるかのように静かに滑空します。

C部; コーダホルン5度の響きが重なるドイツ伝統の角笛の響き。


 右手から左手へとクレッシェンドしつつテンポをあれよあれよと上げ、大波のようなデュナーミクが寄せ、すっとリタルダントして引いて消えていく見事さが、息をのむような聴き所です。


 ポリーニやウーリヒのあざとさに舌を巻きます。

 が、内田の、陶酔して気を失うような美しさ...。この人は、おそらく、考えては弾き、考えては弾き、...を、数百回数千回繰り返して磨いたものでは...。まるで単なる主観的連想の比喩ですが、楽譜をバラバラにほぐして、音符を1音1音とりだして、磨き、下塗りを重ねて、研ぎだし、磨き、また塗っては、を重ねて、最後に漆黒のつややかな漆を仕上げ塗りし、あらためて組み直したところ、そのつややかな漆黒の縁辺に、美しい下塗りの朱や緑が釉を透かしてほのかに美しく見えるかのようです。

2025/02/01

■ きく ■ オペラは好きですか?


いいえ。

 今日は、とんでもなく不謹慎なことをば。

 1) 筋がくだらなすぎる...

 同じ声楽曲でも、ドイツ・リートが、野辺に咲く小さな花だとします。誰に見られるともなくポツンと咲いてしおれていく。簡単に動物や人に蹴散らされます。が、だからいっそう魅力的だったりします。

 対して、オペラは、温室で見事に咲き乱れる大輪のバラのような美しさ。見る人すべての溜め息を誘います。

 オペラの最高傑作は...、そりゃ人によるでしょう。が、無知な私でも博覧強記のオペラファンのあなたでも、「カルメン」「フィガロ」とまず指を折るのに、血相変えて反発するヒトはいないでしょう。じゃだったらすぐ次は「セビッリャ」「椿姫」「リゴレット」「蝶々...」と次々と堰を切って溢れ出てきますか。

 音楽の美しさ、イタリア語の母音とリエゾンの滑らかさ、いずれも悦楽と心地よさの極致です。全方位総合芸術として人類が極めた音楽芸術の頂点を感じます!

 ...意味さえ知らずにすめば、の話ですが...。

 つまり男と女の情欲のどろどろでは...? いったんその言葉の意味・筋・ストーリーを知ると...そりゃ10代20代のヒトならば血沸き肉躍るドラマでしょう(かつて私はそうでした)が、自室で一人で聴いてワクワクしますか、もはや10代20代でない私やあなたは?

 どろどろは、"18世紀のセビリアを", "華やかなパリの街を", "エキゾチックなナガサキを", "ナポレオン戦争のイタリアを"という目くるめく豪華絢爛な歴史を舞台背景にして盛り上げてもらえるのは確かですが、そういった化粧の皮を剥くと、やはり昼のソープドラマ、ライオン奥様劇場そのものでは。ま、それが、古今東西、永遠にウケているわけなんですが。

 え? 男と女のどろどろでないオペラもあるって? 「魔笛」とか? あの、ゲーテも度肝を抜かれた荒唐無稽支離滅裂な話の筋は、確かに誰もが認めざるを得ないです。思うんですが、あの話さ、19歳頃に知って、ちょっと意地悪に考えた:開幕直後に、美しい王子タミーノが、大蛇を見て気絶する...そこに現れた夜の女王の侍女たちの魔力で蛇を退治する...勝利の曲。ソレで全幕終了しても、おかしさは同じじゃない? いやむしろかえって爆笑できるかも...。(← と、とんでもねぇ野郎だ...)

 男女のどろどろがけしからんのだったら、「高邁な」物語ならいいのかよっ, て? 

 "モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」や「フィガロ」は、「天才の乱用」「好色」"と憤った高邁なベートーヴェンその人のオペラはというと、「フィデリオ」=「レオノーレ」ですか? 男女のメロドラマそのものではないかもれないけど...。厳格な押韻のドイツ語とギリシア彫刻のような端正でドラマティックな楽曲構成...。でも上演回数は...。どろどろ大好きなおめかししたスノッブな客たち、来るかな...。

 80年代の映画"Amadeus"で、モーツァルトが皇帝ヨーゼフ2世やイタリア人音楽教師らの前で語ったアメリカンイングリッシュなセリフを以下に(私のデタラメな意訳ですが);

 オーストリー帝国の国立歌劇場という皇帝も天覧する高貴な場で、トルコのハーレムという不謹慎な舞台("Entführung aus dem Serail" Kv384)を題材にしようとしたモーツァルトに対し、皇帝お抱えのイタリア人音楽家たちがモーツァルトのドイツ語オペラの構想をあざ笑います。モーツァルトは冷静に反論:

"Watching Italian opera, all those male sopranos screeching stupid fat couples rolling their eyes about.  That's not love.  It's rubbish!
(イタリアオペラを見ろよ。男どもが金切り声で目を回して太った男女どもを追い回す...愛どころか滑稽だ)

 フランス革命直前、皇帝が発禁処分した「フィガロの結婚」をオペラの台本としようとしてバレ、皇帝に審問された際、皇帝の側近で、イタリア音楽の優越性を認識しつつ、ドイツ音楽の育成や異端児のモーツァルトにも大きな理解を寄せるヴァン-スヴィーテン男爵に、こう諫められます;
"Why waste your spirit on such rubbish?  Surely you can choose more elevated themes. (なぜそんな下品なことに才能を浪費するのだ? もっと高尚なテーマを選んだらどうだ)"

 カっとなったモーツァルトが、堰を切ったように反論します;
" Elevated!?  What does that mean, elevated?  I'm fed to the teeth with these  eleveted things!  Old dead legends.  Why must we go on forever writing of gods and legends?  (高尚な、ですって? どういうことですか。もううんざりだ、そんなもう死んでる神話だなんて(ヨーロッパ古典のギリシャ・ローマ神話のこと)。なんだってそういつまでも神様だの神話だののことばかり続けなくちゃダメなんだ)"

 皇帝の前で、男爵は模範解答を諭します;
"Because they go on forever.  At least what they represent: the eternal in us.  Opera is here to ennoble us, Mozart. (価値は永遠不滅だからだ。少なくとも存在している限りは、我々にとって永遠だ。オペラは我々の魂を高めるようなものであるべきなのだ。)"

 自制が効かなくなったモーツァルト;
"Huh, 'Bello, bello, bello!'  Come on now , be honest!  You'd rather listen to your hairdressers than Hercules.  Or Horatius, or Orhpeus. People so lofty, they sound as if they shit marble! "
(は!そうですかいそりゃけっこうで。頼むから正直になろうじゃないですか。ヘラクレスなんかどこがおもしろい? ホラティウスだのオルフェウスだのって! エラい高貴なんだな、奴らは大理石のウ〇コでもすんのかよ!)

 ギリシャ神話を題材にしたって、聴衆なんか寝てしまいます(高校古典で紫ブゥだのセーショーなゴンだのつれづれなるままに世間のゴシップ大好き坊主の話で高校生が寝てしまうようなものです)。かといって、私は男女のドロドロにもワクワクしないです。

 2) 音楽は卑屈な奴隷に堕してしまう...

 オペラ演奏会場の社交的でハイソでスノビシュで華やかな雰囲気。今日も、高級レストランに行くようなおめかしをして、いかにもふだんからハイソでござい、と言わんばかりにして、しずしずと次々客がやってきます。本来、抽象的でデモーニッシュな存在であるはずの音楽を奏でるオーケストラは、音楽などどうでもいい社交の場に集まるスノッブな金持ち客たちの靴でも舐めるかのような低くて真っ暗な穴倉にて(オーケストラピットとも言う)卑屈に裏方に追いやられ、バカげた痴話話の歌詞の伴奏という場末のバンドマン連中に成り下がります。

 以上2点、けっこう50年ほど溜めていた貧民のルサンチマン感情でしょうか...、でしょうね。

 でも、オペラファンの、例えば上野公園で音楽系大学生のグループが、「パヴァロッティのドタキャン、オレも食らわされたことがある」「クライバーの"こうもり"には椅子から1m飛び上がっちまった。軍隊式か?」「ガーディナーの"オルフェオ"もその徹底的な統率は似てるんじゃ?」「ジェシー・ノーマンが"トリスタンと..."に好適だとして、"ラ・ボエーム"のミミになるって想像できるかよ?」などとおしゃべりしているなら、話に加わるのはワクワクするような腹の底からの楽しさがありそうです。

 対して、動物園脇から谷を降りてまた坂を上がった旧帝大系大学生のグループが「ベートーヴェン"大フーガ"さ、バリリの50年代のモノラルとさ、アルバンベルクSQのEMIにスタジオ録音したボウイングの類似点って...」「あ~、オレも子どもの頃、サントリーホールでアルバンベルクの、大フーガじゃないけど16番の”Es muß sein"の箇所をナマで聞いてチョっと気づいたカモ」などの議論に参加しなければならないとしたら、参加前にもう身辺整理して自分の生命保険の受取人を確認してから覚悟を決めて出かけなきゃダメです...。

 てなワケで、オペラは肩ひじ張らずに楽しみたい分野です。と言って、別にベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲を正座して聴くわけじゃぁ無いんですがね。

 などと言っても、私なんか、じゃお気楽にオペラ演奏会場へ、なんていう場違いな状況に投げ込まれようものなら、緊張して、右手と右足を同時に出してロボット歩きをするのが関の山です。

 そんなヤツなんか、すごすごと自室に引きこもって、ムリせず背伸びせず、ブラームスのヘンデルバリエーションでも、VRDSメカのCDプレーヤーにアキュのセパレートPアンプ、マジコQ1で、一人寝袋にでもくるまって、蓑虫みたいになって寝そべってのびのび聴いて、悦に入っていれば人生至福のひとときなんですよ。

 センター試験過去問英語の最後の長文問題に、オペラの話題があって、そのことを書こうと思ってキーボードをたたき始めたら、こうなっちゃった。明日にします...。

2025/01/01

■ きく ■ C. P. E. バッハ - 弦楽のための交響曲 Wq 182-2

■ たとえばの話。いなかでの閉塞した息苦しい因習に縛られた長年の生活。が、大都市に出、 今日から、新しい生活をするとしたら。あらゆるしがらみから解き放たれ、深呼吸して自由に羽を伸ばして、生き生きと思ったとおりにのびのびと活動し始めたら。さぞ"都市の空気は自由にする-Stadtluft macht frei."ことでしょう!

  16世紀ルネサンス晩期、教皇の玉座ローマを花の臺(うてな)のように擁するイタリアが、サンピエトロの御聖堂(おみどう)に響き渡る爛熟のポリフォニー音楽の惰眠をむさぼっていた頃。同時進行で、北端の商業自治都市ヴェネツィアにて、革命的に新鮮な"いびつな真珠 barocco"が隆盛し、初期バロックとなるモンテヴェルディらヴェネツィア楽派が、閉塞したポリフォニックな教会音楽の腐乱の息の根を止めた...、ふうに、私には映ります。都市の空気が新風を吹き込んだことでしょう。

  ヨハン・セバスチャン・バッハが20歳のときに、いなかの教会オルガニストの職の4週間の休暇という制約を、傲慢にもまるで無視して、勝手に16週間かけて、400kmの道のりをあるいて、北ドイツハンザ同盟の都市リューベックに、ブクステフーデのオルガンを聞きに行ったのも、閉塞からの深呼吸、都市の空気のなせるわざでしょうか。

  その大バッハ晩年のブランデンブルク協奏曲は、いわゆる「バロック音楽」晩期の完成様式で、もはや"いびつな真珠"どころか、バロック音楽のすべてのエッセンスを凝縮する大粒の円満な調和を象徴しているのではないでしょうか。とはいえ、今でも、鳥肌が立つような斬新な演奏の新譜が登場する楽しい源泉でもあります。

  この、偉大過ぎる父ヨハン・セバスチャンの、第2子カール・フィリップ・エマヌエル(C.P.E.)・バッハは、大バッハ20人の子の誰よりも父の価値観や様式に忠実なようです。

  職も、プロイセンのフリートリヒ大王の宮廷に鍵盤奏者として奉職し、父大バッハとフリートリヒ大王を引き会わせています("音楽の捧げもの(BWV1079)"のきっかけ)。

 トップ画像のアルバム・アートは、下↓の、メンツェル(Menzel)の絵画の、部分です。フルート奏者はフリートリヒ大王、鍵盤はC. P. E. バッハ、右端はフルート教師で大王の音楽の師のクヴァンツ、ヴァイオリン奏者の2人はベンダ兄弟のはず...。ベルリン、ポツダムのサン・スーシ(sans souci)宮殿にて、啓蒙君主を取り巻く錚々たる音楽家メンバーでのコンサートの華やかさに、惹かれずにはいられません。


 目を奪われるような絵画の美しさは、燭台とシャンデリアの光の美しい描写によるものではないでしょうか。ドイツのレアリスムス派を象徴するタッチで、ほぼ同時代のロマン派フリートリヒ(C.D.Friedrich)の息を呑むような幻想世界と並びます。いずれにしても、フランス印象派の勃興がもう目の前に迫っています。

 で、言いたいのが、モンテヴェルディ、若き大バッハと同様に、このC. P. E. バッハも、父の宗教的・音楽的価値観への共感と重圧、偉大な啓蒙君主のパトロンながら専制君主たるフリートリヒ大王の重圧から、まさに逃れ、期せずして父と類似した、かのハンザ同盟の自由都市の、ハンブルクに新天地を求めて、30年奉職したポツダムの宮殿を後にします。新鮮な空気を深呼吸したかったにちがいないです。

 自由な自治都市ハンブルクにて書いたこの交響曲(作品番号;Wq182の6曲)の、アっと驚くような書法。

 私がこのCDを思わず手にしたのは1980年代の大学生時代。80年代に隆盛をきわめていたイギリス古楽器集団のうちのピノックの演奏、アルバムアートの斬新さ、「大バッハの息子」というエピゴーネンの器楽による調和的世界、などといった期待感と先入観の後押しによるものでした。

 弦楽器と通奏低音(チェンバロ)だけで、管楽器も打楽器もない「シンフォニア」と称する3楽章形式の曲が6曲。まぁ軽い曲かな、と。

 がっ!...一聴して、その和声構造の、現代アートのような破壊的な意外さに、えぇっ!?と。もう、崩壊しています...。大バッハの円満な調和も打ち砕かれ、ぶち壊されました。

 2番の1楽章を見ましょう。


 突如ユニゾンで、轟音を立ててガラガラと構造物が崩壊します(枠)、と、八分休符とスタッカートで息の根が止まった!(枠)、かと思いきや、スグ立ち直り...(ここまでたった1小節)、スタッカートの低音リズムに突き動かされて16分四連で歩み始めたヴァイオリン(Vn)が、一音ごとに、異常な転調を繰り返し、完全に制御を失っています...。(枠)

 二段目1stVnが、突如止まり、トリルで痙攣し、また止まり、より強いトリルで痙攣し、を繰り返します(trp, mf, f の強弱記号が...)。(枠)

「バロック音楽」が爛熟し破綻した今。ハイドンはまだエステルハージ家の抑圧下にあって、モーツァルトはまだザルツブルク司教の抑圧下にあって、ヴィーン古典派はまだ芽生えておらず、音楽は、もっと自由な空気を求めて破裂するための突破孔を求めていた時期ではないでしょうか。

 C. P. E. バッハのこのWq.182の6曲は、まさに、破裂しています。

 "多感様式 Empfindsamer Stil" などと呼ばれる彼の音楽。かつての価値観に安らぎなど求めない、内に秘める激しい心の動き。この作品を貫いて、音型には、異常に激しい跳躍、踏み外したような思いがけない転調、突如の休止と窒息、直後に激流の破裂と、聴く者を、急峻な岩場をほとばしる白濁した急流に力いっぱい投げ込むようです。

 史上、すぐ続いて、ハイドン、モーツァルトの"疾風怒濤期 (Sturm und Drang Zeit)"が押し寄せます。

「よ、よし、今日は聴くぞ」と決意して手を伸ばすCDは、いくつかありますが、この、たった数分の楽章構成をもつにすぎないこの1枚も、それにあたります。「うはっ!すごいな」と、つい、このピノック/イングリッシュコンサートの演奏の爽快感から、独り言をうなってしまいます。

 音楽史上、様式の過渡期にあたる上に、"大バッハの子"という陰の存在ゆえに、「独自性」「自分」といったものを声高に主張しない存在のような気がするのですが、自分のなかでは、異様な存在感があり続けています。

 ポッと明かりがついたり、フッと暗闇に戻ったり、しかし、中をよく見ると、奥底に、煌々と灼熱の熾(おき)を秘めている、消せども消えぬ炭火の熾のような存在が、このC. P. E. バッハのWq.182です。

2024/11/28

■ きく ■ シューマン 交響的練習曲 Op.13


イェルク・デムス(Jörg Demus)によるシューマンのピアノ曲全集、CD13枚組のうちの6枚目に収録されています。全集は主に1960年代のステレオ初期の録音ばかり...。

 1980~90年代、東京でしがない大学生やバイト生活の頃に、「全集版」としては出ていなかったのですが、この人のLP1枚1枚を、図書館で借りた感じでしょう(文京区の小石川図書館や真砂図書館でした)。演奏家がどういう人だかわかりませんでした。今もよくわかりません。

 その後、なじみあるその演奏家の、CDになり廉価となった全集を2008年頃に購入。

 ところで、話は飛ぶのですが、「その曲にまつわる逸話」「その曲が描かれた背景」「その時の作曲家を取り巻く状況」「それを演奏する演奏家の逸話・受賞歴」など、実は、個人的に嫌悪感があります。吹聴するあなたの「事情通」な博識を大いに尊敬いたします...とはまったく思えないです。そのゴシップ情報は、自分の、あなたの、現実存在に、何か影響を及ぼしますか? 無前提で音楽だけ聴けないものなの?(🔗2023/3/22)...と強く意識したのが大学生の頃。

 その発想の延長で、その後のCDの時代になって、シューマンの場合、同じ鍵盤曲でも、バッハやハイドンやモーツァルトやベートーヴェンのように、または、シューマンの歌曲集のように、彼のピアノ曲に「親しんでいる」というわけじゃなかったので、これを機に、「シューマンのピアノ曲」の聴き方としては、CDの利便性を活用して、「曲名がずっとわからないままつぎつぎと聞いていこう」と、実験でもするみたいに決めました。

 この発想で当初、ハイドンの交響曲104曲余りを、「CD数十枚組ボックスセット」などで全曲聴けるようになって、「104曲全曲を、番号や表題など全く知らないまま通して聴く」ことにトライしたのですが、十代の頃から知っている曲も多く、また、104曲CD数十枚といえど、1回・3回・10回・100回と繰り返して聴くと、感性の鈍い私でも、作曲技法や楽器編成について、様式や時代の区切りやステージの違いを感じ、結果、ある程度体系的に分類や位置づけができてしまいます。

 他方で、シューマンのピアノは、その手で、この曲がなんていう曲か、極力知らないまま聞き続けてきましたので、「子供の情景」なんだか「クライスレリアーナ」なんだか「ダヴィト同盟」なんだか、今もって十分区別できません。同様に「天国的長さ」のシューベルトのピアノソナタ全集でもそんな調子です。

 ですが、デムスの13枚を通して聴いて、やはり、既知の曲、けっこう詳細を知っていた曲があり、それが「交響的練習曲」で、13枚の中では、どうしても突出した高みに位置付けてしまっています。もうこれはどうしようもないかな。ルービンシュタインやアシュケナージやポゴレリチやで幾度も聴いてしまっていたからでもあります。彼らのことはイマは目をつむって捨象しましょう。

 この、自分の中では、シューマンの全ピアノ曲のうちで突出してしまった存在の曲ですが、どういう経緯で作曲されたか、などわからないです。が、ただ聴き続けているってだけの人間の感想を、しかもやはりそのほんの1つの細部についてのみ、書いてみようかな。

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 このOp.13のテーマ、C#-G#-E-C#の動機がずっしり重く暗く、続くEtüde 1、Etüde 2と、重い軛を背負ってあるいていかなくてはなりません。それゆえ十年以上も、「さぁ聴こう」と手が伸びるような1枚ではなく、好きになれなかった曲でした。

 また、終曲のEtüde 12の、力いっぱい輝かしい変ニ長に転じた大音響も、鬱々と悲観的な20代を暮らした私には、むしろ苦痛だったかも。そう言えば、ベートーヴェンの「運命」を聴くとしても、2楽章と3楽章のみ聞いて、途切れなく突入する4楽章の直前0.1秒で針を上げるマネをしていました...。

 じゃ、好きな曲でもなければ「突出した存在」にもならないじゃないか、という言われるのもごもっとも。ただ、この曲を思い出すとしたら、ポリーニの演奏による、まるでか細いように聞こえるEtüde 3でした。

 すぐ上に書いた通り、Etüde 1は、低音の左手の打鍵で続きざまに心臓を衝かれるようです。続くEtüde 2は、エスプレッシヴォとして強くも暗いそれ。4拍子の、1拍1拍を6分割して、傷つきつつふらつきつつもズシリズシリと地を震わせて歩みます。


 ところが、Etüde 2の最終音のスフォルツァンドのペダルが解放された瞬間、まるで、氷で覆われた巨大な岩のわずかなすき間から、清らかな水がひとすじ、つかまらないとらえられないような軽いアルペッジォのEtüde 3が、さらさらキラキラと流れ出、逃げていくかのように、あらゆる重荷をふりすてて軽やかに進みます。重さにメゲていた自分の気持ちが、やっと気づいて、あわてて追いかけます。


 突然、すべての罪過を赦してもらえ、ふさがれていた口と鼻から覆いがなくなり、呼吸が楽になったことに、やっと気づき、軽く明るく透明な、ごくか弱い、水のような風のような流れを、すがるような思いで追いかけます。

 この右手の軽く小さいスタッカートの分散音階を一瞬思い出すだけで、この曲を聴かずにはいられない気持ちが溢れます。

 ずっと、デムスの、少年のような情熱と包むような誠意あふれる演奏で聴いてきました。古い録音で、木質な、響きの少ない、硬いタッチ。中部ヨーロッパのベーゼンドルファーでしょうか。聴く分には、感情の起伏も穏やかで、じっくりとこころあたたまります。他方、ポリーニの、天上を舞う夢のように軽やかなタッチと透き通るデジタル録音で、響きの広がりと美しさ・滑らかさのおかげで、このEtüde 3の小さな流れに、あっと気づいた思いでした。


 シューマンの曲すべてに想うことですが、同世代同年齢のショパンと対極的なのは、シューマンの「内から突き上げ横溢する湧き水のような自発性」「疑わなくてよい誠実さ」だと感じます。

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 デムスのCD13枚組を、PCにリッピングし、microSDカードにコピーして、古い8インチのタブレット+JBLの肩掛けスピーカー(🔗2023/12/1の画像)で聴きます。13枚組だろうと途切れなく連続演奏してくれて、所用の無い日は、1日で13枚はすぐ聴き終える感じでしょうか(JBLは充電池が切れますが2つ所有していますので交換しつつ...)。

  1曲1曲にまつわる知識も標題名も先入観もまったく無いままサラサラとシューマンの感情が流れ出して、私には理想的な聴き方の1つです。ただ、そのときでも、CD13枚のうちのこのSymphonische Etüdenはいったんスキップして、その後また、無知な私にとっては無名であっても心から溢れ出る無数の音楽を、聴き続けるのですが。

2024/06/18

■ きく - シベリウス - 交響曲第4番 イ短調 作品63


交響曲のシリーズは、どの作曲家も、独自の人格的な世界を形成しています。

 そのうちでもまた私にとって独特な存在がシベリウスです。

 私のとらえ方では、他の作曲家を思い、さて彼の交響曲に目を遣ったときの特異性は、1) 全7曲が1曲の交響曲のような連続性。2) ヒト、人間社会、社交性や社会性やヒトのつながり、などといった概念を、拒否とは言わないが無視しているかのような曲想...。ヒトが歩み入れない巨大な北極圏の自然というか、ヒトの存在を意に介さない巨大な自然のうごめきを感じるというか...、特有の心象的な世界...。この2点です。もちろん、他の人の理解をえられない、自分だけの感情の、裏付けのない語彙足らずな表現です。ごめんなさい。

 コレだという1曲を選ぶのはムリですが、うち、まったく理解してもらえそうもない部分を書いてみようかな...、って、だったら書くだけ無駄なのですが...。ま、ひとりごとです。

 4番が最も晦渋と言われます。が、今となっては私にとっては、親密で心地よい響きの1つです。

 世間様一般の「演奏会」などという華やかな場では全くウケない曲でしょう。わかりやすく稼げるウケ狙いのDG(グラモフォン)のバーンスタイン盤に、4番6番の録音が無いことでもすぐおわかりの通りです...って、す、すみません!! バーンスタインの、"ウルトラロマンティシズム(私の勝手な命名)"の全集も、やはりなくてはならないシリーズです。が、こと4番については、今は記憶の視野から外しておきます。

 いきなり1楽章冒頭が、Vc(チェロ)とコントラバスのみの強奏で(赤枠)、旋律を為すかなさないかのような混沌とした謎の動機。すぐ6小節目からソロのチェロで(黄色枠)、違和感ある陰鬱な主題...。目が点になって軽い恐怖に襲われるかもしれませんが、こころの深みに沈潜していくようで、ひとりしずかに向かい合う気持ちにひきずりこまれます。


 2&3楽章も言いたいことはあれど、今日は4楽章の一部を。

 4楽章の冒頭。突如えぐるような弦のみの深いユニゾンの (fp) の1音で打ち上げられた、1st Vnの上行音階。上に凸な放物線の頂点でデクレッシェンドして落下、2nd Vnが受けて下に凸な放物線の下端の頂点でまた上行、Vaがこれを受けてまた上に凸な穹窿...と、思わず呼吸を深く合わせてしまうように、聴く者は翻弄されて、これまた不思議な楽章にいきなり吸い込まれていきます。

 クラリネット奏者の良し悪しをあっさり判別し、世の多くの奏者を振るい落として捨て去るような音階。CDとして録音を世界にリリースしているようなレベルのオーケストラなら別に不安ではないのですが、4番4楽章を「演奏会」では絶対に聴きたくない恐怖感があります。


 低音楽器群のみの静かなさざ波に、ヴィオラのソロが冥界の旋律を奏でます...。

 同様に、静かで規則的なのに不安なこころのさざ波が続き、管楽器群が震えだし、弦楽器群の揺れがトレモロからグリッサンドへと大きく動き出します...。しばしばあの世の鐘が響くように、グロッケンシュピールが叩かれます。



 そのまま、古典的な調性音楽でなじんでいるような調和的な旋律やドラマ性など無しに、巨大な流れが破裂したり収束したりして、金管が消え、木管が息絶え、弦のみのテヌートで静かに絶えます...。

 おそらく、「演奏会」のプログラムにうっかり載せたりなんかしたら、聴衆は茫然としてそのまま終了となるでしょう。シベリウス存命中から今に至るまで、きっとそう...。ゆえにプログラムに載ることは無いでしょう。でも、作曲者には、自分以外に誰のことなども振り返り顧みる必要など無いような、強い内面のヴィジョンと意志が、あるような気がします。

 70年代コリン・デイヴィスの最初の全集、ボストン交響楽団盤が、少年時代のあの頃には手に汗を握って耳を傾けたLPでした。今CDで聴くと、LP時代より音像がクッキリしていますが、テンポはかなり速く、今となっては、もうちょっとじっくり聴き入りたい気がします。

 90年代に、スウェーデンBIS盤で、ネーメ・ヤルヴィ/エーテボリ交響楽団の4番のCDを購入。LPもCDも、マイクが近く、音の彫りが深く、ダイナミックレンジが広大で、しかもじっくりと聴き入ることのできるテンポです。今でも一番手が伸びる演奏です。

■ より新しい録音のBIS盤の、オスモ・ヴァレンスカ/ラハティ交響楽団盤は、90年代終わりの録音とはいえ、編成が小さく現代的なシャープな演奏で、北欧の氷のような冷たさを彷彿とさせる録音となっていて、これまた独自の存在感があります。

 4番に関しては、上の3者のうちの後2者が私にとって現時点で決定的です。

 でも、7曲の全集となったら、素晴らしい演奏がどっさりあって、しかもまだ聴いたことのない演奏もいくつもあり、既知の花畑と未知の沃野に、「シベリウスの交響曲」は、ずっと心が躍る存在であり続けていますし、毎日を生き生きと生きる希望でもあります。

2024/03/31

■ きく - バッハ「ヨハネ受難曲」(BWV245)


たとえば、あなたとまわりのみんなが大切にしていたものが、こわされていた...。誰のしわざだ? 

 自分がやったのでないのは明らかなのですが、直接手を下さないにしても、間接的な原因が自分だと感じたとき、実行犯が誰かはともかく、あなたは、「私がその原因をつくりました」と告白したいとこころから感じている...とします。みんなの前で、どう言い出しましょうか。

 「ハイッ!ですッ!」と、この際、潔く元気よくいきますか? それとも、静まり返った皆のなかで、静かに「...わたし...です...」と言い出しますか?

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  復活の主日となりました。昨日の聖土曜までの重い四旬節、この期間の反省を今日から活かして、気分もあらたに、つぎの1年をすごしたいです。今年は煌々と明るく美しい満月が直前の聖週間にかかり、ご復活がぴったり3/31の年度末となり、区切り良く気持ちの切り替えがついた思いです。

 おとといの続きなのですが、「ヨハネ受難曲」の、ある1箇所の、演奏者による解釈の違いを...。たった1音のみの小さな箇所ですが、私には大きな違いです...。

 おとといの、福音書記者ヨハネが記述する史実の場面をふりかえります[ヨハネによる福音18章15節-27節] (再掲);


(イエスは、弟子ユダの裏切りで、捕縛され、審問を受けるために勾引される。四散し逃走した弟子たちのうち、不安に駆られたペトロが戻り、イエスの後をひそかに追う。これをユダヤ教大祭司邸宅の下女に見咎められる)

下女(soprano) (BWV245-12)

    汝もかのイエスの弟子のひとりならずや?

ペトロ(bass)

    私は違う。

福音史家(tenor)

    下僕らと下役の者ども炭火をおこし(時寒ければなり)

    その傍らに立ち暖まりおりしところ、

    ペトロもまぎれて入りて暖まりいたり。

    ここに大祭司、イエスにその弟子たちとその教えにつきて

    問い訊したれば、イエス答えたもう

イエス(bass)

    我は公に世に語れり。全てのユダヤ人の相集う会堂と宮とにて

    常に教え、密かには何をも語りしことなし。

    何ゆえ我に問うか。我が語れることは聞きたる人々に問え!

    見よ、彼らは我が言いしことを知るなり。

福音史家(tenor)

    かく言いたもうとき、傍らに立つ下役どもの一人、

    イエスに平手打ちをくらわせて言う

下役(tenor)

    大祭司に向かいて、かかる答えざまのあるべきや?

福音史家(tenor)

    イエス答えたもう

イエス(bass)

    もし我当を得ざる語り方をなせしなら、その悪しきを訴えて証言せよ。

    当を得たりとせば、なにとて我を打つか。


ここまでの歴史的場面を振り返って、イマここに集う会衆であるあなたやわたしたちが、自分を振り返り、省み、屠られた彼を、わたしの代わりとなって打たれたのだと告白します;

コラール (P・ゲールハルト作;受難節コラール;合唱4声部) (BWV245-15)

Vers1;(日本語の唱歌でよく使われる「歌詞の1番」)

    たれぞ汝をばかく打ちたるか

    はた汝にもろもろの責め苦を

    かくもいたく負わせたるか、我が救い主よ?

    まことに汝は罪びとにはあらず、

    我らと我らが子らのとごくならず、

    悪事を知らざるおおけなき身にていますに

Vers2;(唱歌でいう「2番」)

    われなりこのわれ、またわが罪の

    浜の砂子のごとく

    おびただしく積もりいて、

    尊きおん身をばかかる窮地においやり、

    見るだに悲しき責め苦のかずかずを負わせ

    しかして汝をかくは打つたるなり

            和訳;杉山好 (CD: Archiv F66A 20012/3)


上の文語体の和訳だと厳めしいですね。他方で、所有のどのCD/LPの英訳も、聖書文語体ですので、同様な口調です。わかりやすさの点で、YouTubeのBBC Proms 2008の英語字幕が、押韻は無いですが平易な現代口語なので、ひろってみましょう;

V1;

    Who would strike You like that,

    my Saviour, and so ill-treat You?

    You are not a sinner 

    like us and our children.

    You know nothing of wrongdoing.

V2;

    It is I, with my sins 

    as countless as the grains

    of sand by the seashore.

    I have brought down on You 

    this host of sorrows and torments.


 「それはわたし...わたしの罪が、浜の砂粒のように、おびただしく積もったことで、あなたをこのような目に...」と告白するとして、どういい出しましょうか?

 おとといの演奏盤のうち、クイケン盤もヘレヴェヒェ盤も、第2連(Vers 2)の

"Ich, ich und meine Sünden / It is I, with my sins " の「わたし」を、

きっぱりと ff (フォルテッシモ)の大きな斉唱で、堂々と名乗り出ます。

  OVPP(1人1パート)だと、斉唱時に声質は明らかに不ぞろいなので、全員で大きな声で名乗り出る点に、聴く側は腰が引けてしまいます...。

 ガーディナー盤(1986)は...

 驚いたことに、Ich を、pp (ピアニッシモ)で、そっとしずかにうちあけます。

 しかも、2008年のPromsの演奏では、同時に、ソプラノに寄り添う2本のフラウトトラヴェルソ以外のすべての器楽伴奏を休止し、ささやくような小さな合唱のみが、切々と告白します...。

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どちらでしょう、あなたなら...?

2024/03/29

■ きく - バッハ「ヨハネ受難曲」(BVW245)

LP; リヒター盤(1964年アルヒーフ録音盤の1979年抜粋版)、
CD; ヘレヴェヒェ盤(2020)、ガーディナー盤(1986)、クイケン盤(SACD)(2012)

■  聖金曜日となりました。バッハの「ヨハネ受難曲」について、ここ数年感じていることを。

■  バッハの2曲の受難曲は、私の数十年前の高校時代以降厚く垂れこめる存在でした。

■  あの時はもちろんカール・リヒター指揮ミュンヘンバッハ管弦楽団・合唱団でした。有無を言わさぬ大きな権威でした。

■  その演奏は、今から思うと、巨大編成・つややかでキツい音の現代楽器・巨大合唱群・おどろおどろしい威圧的な響き...。ついでに、非常に高額なLP組み物。聞き通す2時間30分に何回も何回も盤を交換して集中力を維持する修行。

■  今となっては、遠い過去の1つの演奏に相対化されています。


■ 「マタイ受難曲」は、リヒターの演奏をアルヒーフがLP1枚に抜粋した盤を手に入れました(LPへのメモでは1980年1月購入です)。序曲のシンコペーションリズムが、十字架の道行き、自ら処刑されるための十字架を背負って歩む足取りを暗示し、ずっしり重いのですが、長調に転調する際の言いようもない明るさや希望を感じます。その後全曲盤を手にして、レシタティーヴォが多くて朗読調、アリアがイタリアオペラに比肩する難曲ぞろい、何より進行する歴史的事件の描写の重圧感...と、集中力を維持するのは容易なことではないです。

■ 完成度は、いわば「ヨハネ受難曲-第5版」とでもいうほど「ヨハネ」に改訂を重ねた結果として生まれた「マタイ」の方が高いでしょう。

■ 個人的には、でも、バッハが「受難曲」として最初に手掛けた「ヨハネ」に、凝縮感とアピールの直截性を覚えます。

■ もちろん「ヨハネ」も初めて聴いたのは、リヒター盤(1964盤)です;暗く重く、序曲では、弦の高音部は不安にさざめく規則正しい16分4連、中音部(ヴィオラとチェロ)は8分4連、通奏低音群(ヴィオローネとオルガン)はずっしり強いフォルテの4分で、1刻みごとに心臓に太い杭を深々と打ち込まれるところ、合唱の出は、いきなり巨大な絶叫で...。


 これは耐え難い、と思ったものでした。が、美しいアリアやコラールや合唱が間断なく次々と続き、芸術的興味の高さは絶え間なく保たれます。

■ 一転して、現在;

■ 演奏の主流は、ピリオド楽器(古楽器) です。加えて近年の録音の流行(?)は、1人1パート。「One Voice Per Part & 合唱団なし」の編成を、OVPPというそうです。

■ 非常に静謐で軽やかです。声の美しさ、古楽器の響きの美しさを、こころから実感します。

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■ 本来、バッハが想定した受難曲の演奏は、大規模な合唱隊(聖歌隊)が背後に存在することです。この人数的構成は、大都市ライプツィヒでの職場環境や当時出版社に発注されたパート譜の出納記録から、各パート1名ではないものと推定されています。

本来この合唱隊(聖歌隊)の役割は、

1). 福音書中の"あの歴史的事件における大衆"の声(扇動され興奮し、イエスを処刑に追い込む熱狂的な民衆)(トゥルバ合唱)、

2). 聖書の物語を、聖週間にあたって、静かに省察するルター派の教会会衆(コラール合唱団)、すなわち"いまここにいるわたしたち"、

の2つです。

■ 彼らの前景にて、歌手らが、福音史家役・イエス役・ピラト役・他の聖書登場人物として、受難直前の物語を、それぞれの福音書記者の描いた通りに演じます。

■ OVPP(1人1パート)は、このようなバッハの想定を否定して、「合唱聖歌隊」ナシで、独奏歌手らが、合唱(民衆とコラール)を兼ねます。

■ これにより、静けさ、音色の純粋さ、が得られ、大げさな演奏会や教会のような権威の場とはちがって、聞く人の心に、親密にストレートに訴えるものがあります。

■ OVPPの演奏も実績を重ねてきました。代表的な名盤と個人的に思うものを挙げると、オランダ人のSigiswald Kuijken(ジギスヴァルト・クイケン)率いるLa Petite Bandeか、ベルギーのPhiilippe Herreweghe(フィリペ・ヘルヴェヒェ)率いるCollegium Vocale Gentではないかな。

■ 1940年代生まれの両者は、私が中学の時の70年代にはすでに彼らは活躍中でした。1970年代からもう40年も彼らの演奏を聞いているかも。古楽器のやわらかい演奏で、しかしその解釈はずっと時代の最先端にいると思います。

■ クイケン盤のヨハネ受難曲(2012年盤SACD)とヘルヴェヒェ盤のもの(2020年盤)のうち、今日は、ちょっと尖った演奏の前者を、リヒター亡き後のアルヒーフを支えるガーディナー盤とで、そのほんの1か所だけを比べてみましょう。

■ イマ比べたいヨハネ受難曲のコンテキストを、一部ちょっとさらってみましょう。福音書の和訳は、杉山好の文語訳を、私が一部現代語にして少し読みやすく(?)してあります;


[第一部;裏切りと捕縛;否認 -- ヨハネによる福音18章15節-27節]

(イエスは、弟子ユダの裏切りで、捕縛され、審問を受けるために勾引される。四散し逃走した弟子たちのうち、不安に駆られたペトロが戻り、イエスの後をひそかに追う。これをユダヤ教大祭司邸宅の下女に見咎められる)


下女(soprano) (BWV245-12)

汝もかのイエスの弟子のひとりならずや?


ペトロ(bass)

私は違う。


福音史家(tenor)

下僕らと下役の者ども炭火をおこし(時寒ければなり)

その傍らに立ち暖まりおりしところ、

ペトロもまぎれて入りて暖まりいたり。

ここに大祭司、イエスにその弟子たちとその教えにつきて

問い訊したれば、イエス答えたもう


イエス(bass)

我は公に世に語れり。全てのユダヤ人の相集う会堂と宮とにて

常に教え、密かには何をも語りしことなし。

何ゆえ我に問うか。我が語れることは聞きたる人々に問え!

見よ、彼らは我が言いしことを知るなり。


福音史家(tenor)

かく言いたもうとき、傍らに立つ下役どもの一人、

イエスに平手打ちをくらわせて言う


下役(tenor)

大祭司に向かいて、かかる答えざまのあるべきや?


福音史家(tenor)

イエス答えたもう


イエス(bass)

もし我当を得ざる語り方をなせしなら、その悪しきを訴えて証言せよ。

当を得たりとせば、なにとて我を打つか。


コラール (P・ゲールハルト作;受難節コラール;合唱4声部) (BWV245-15_Vers1;)

たれぞ汝をばかく打ちたるか

はた汝にもろもろの責め苦を

かくもいたく負わせたるか、我が救い主よ?

まことに汝は罪びとにはあらず、

我らと我らが子らのとごくならず、

悪事を知らざるおおけなき身にていますに


■ 聖書の史的記述の進行中に差しはさまれたルター派のコラール、

これを、リヒター盤もガーディナー盤(現在の代表的名盤)も、きっとバッハ自身も、合唱隊(聖歌隊)に歌わせています。

コラールを歌う合唱団の存在は、天の声でもあり、今リアルタイムで教会に集う私たち会衆の内省の声でもあります。


■ が、KuijkenのOVPPの演奏だと、合唱隊が存在せず、ソリスト8名が、合唱隊を兼ねます。ゆえに、このコラールを唱和するその声は、まさに、

福音史家・イエス・大祭司・下女・下役たちの声だ w(・o・)w!

...イエスと、今まさにイエスを平手打ちした下役と、ピラトと、福音史家と...。

その本人たちが、一緒になってルター派のコラールを歌っているという、

この不自然さ...。

■ 責めたり殴ったりした人が、天の声・会衆の声としてコラールを唱和する...

「あなたをぶったのはだれだ? あなたは罪びとではない」と唱和する違和感...。

■ 現代のSACDの音というか、定位感、空気感が、あまりにも良く伝わるために、気づいてしまった違和感...。


■ この違和感は、この演奏の突出した美しさとともに、OVPPが古楽演奏の世界で有力説となって以来ずっと、私の中では、途方もないものに膨れ上がっています。

■ 今は亡きレコード芸術の論評欄でもHMVのコメントも、これに触れたものはなく、もろ手を挙げて絶賛...

なんだけど、みんな、ヘンだと思わないのかなぁ?


■ ソリストはコラールを歌うべきなのか?


■ そう感じてしまうのも、個人的には、現代のマタイ受難曲とヨハネ受難曲の演奏として、安心して身を任せてきたのは、声の質と均一性が吟味されたガーディナー盤(ジョン・エリオット・ガーディナー&イギリスバロックソロイスツ&モンテヴェルディ合唱団; 1986年盤)だからです。

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■ また別の問題ですが、このコラール15番の、ゲールハルトのコラールに関しては、ガーディーナー盤とOVPP諸盤との、個人的に決定的な解釈の違いがあるのですが、それは次の機会に。

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■ ガーディナーの演奏が、驚いたことに you-tubeで2時間半フルで、広告なしの無料で...BBCのプロムス2008(音楽祭)における全曲演奏をBBCがアップしたもので、安心です。感動的な現代の名演だと思います(Youtube動画をウェブログに貼り付けるのは抵抗があるので、興味のある方はお探しを)。

2024/03/16

■ きく - シューベルト / ウーラント 『春のおもい』D. 686 (Op.20-2) - O. ベーア & G. パーソンズ

Schubert Lieder / Olaf Bär & Geffrey Persons ; EMI Classics 1993

大学や高校の入試問題も、この場で、おもしろおかしく揶揄して楽しんでいますが、初めて見た際には、震えながら答えを探しているわけで、大学の偉い先生方がご自分で何度も読んで「あ、ココを空所補充問題にしてやれ」なんて思って作った設問など、18歳の優秀な若者ですら1回読んだだけじゃ正解できない人も多いことですし、優秀でない若者でない私が誤った答えを出すのは日常茶飯事です。その後、よく練られて印象に残った入試問題なら、2回、5回、10回と読み直してみると、次第にオリジナルの筆者の言いたいことが少しわかり、それだけ出題者の解釈のウマさや乖離や作問の隔たりに次第に可笑しさを感じ取ることができる気がします。

 まったく同じ話で、本も音楽も絵画も、1度読んだり聴いたり見たりしただけでは、2回目の感想は必ず異なる、しかも前回の自分に批判的になったりするので、「印象」は持つのですが「表現」するのをためらいます。10回目に触れたら、前回9回目に触れた自分の気持ちとはやはり違います。後の方が、より多くに気づき、より進歩し、より利口に賢明になっている、とは限りませんが...。書道華道や楽器などの芸や習い事を何年もなさる方は、いや、建築作品やプログラミングなどにしても、その模範・お手本・モデルに対して、そう感じることがあるのではないでしょうか。

 だから、「課題図書の読書感想文」などという宿題はニガテです(いまさら学校時代の言い訳か)。特に、音楽は、作曲家の表現を演奏家が表現するわけですので、私にとっては、10回や20回聴いただけでは...。同じ作品を、何度読んでも何度聴いても何度見ても、う~んなるほど、と新しく思うことはあります。

 次々と本を読み音楽を聴き、初めて読んだ本初めて聴いた演奏についてすぐそれを表現でき、「コレってこうだな」と述べたり「コレいいよ」と薦めたり、などというヒトは、優秀な人であると自他ともに認めるでしょう。が、私には永遠にできないマネのようです。「とりあえず10回読もう、ひとまず100回聴こう」が、本とCD/LPに対するポリシーでした(カセットテープの時代から; 手持ちの数少ないテープの録音を上書きする場合のポリシーだったんです)。ま、トロい自分を受け入れるしかないです。

 昨年来、ここで生意気にも感想を述べてきた音楽作品は、「とりあえずとっくに100回以上程度は聴いた」ものですが、その後聴いても、やはり思いを新たにします。

 そのうちでも、何百回目かに新たに聴いて、さすがにだいぶ気持ちが落ち着いてきたものも多いです;

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 春が近づくたびに、2月くらいからまたぞろ聴き始め、ゆく春を惜しむように6月くらいまで聴いている曲の一つが、コレだったりします。

 ディースカウ & ムーアの演奏がいいに決まっているよなぁと、カセットテープが擦り切れ、カセットデッキヘッドが磁性体粉まみれになった少年時代の摺り込みもあるのですが、すぐ手にとって聴きやすいCDで保有しているのは、これももう30年も毎年欠かさず聴いているベーア (バリトン) & パーソンズ (ピアノ) 盤です。

  70年代初頭の古いディースカウ盤が、クッキリさわやかな発声やひんやりとした空気感をもつ印象があります。ヘッドフォンで改めて聴き比べれば、音が良いのは90年代のベーア盤のCDに決まっているのですが。もちろん、録音技術の問題ではなくて、やはり少年時代の耳と希望、毎年永遠に満たされないけれど、毎年希望を膨らませるこの曲特有の思いが、そういう印象をつくってしまったのでしょう。

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  シューベルトとシューマンのリートについては、私がしゃべればしゃべるほど、あなたから遠のいていくと思いますので、訳してみるだけにします(下のドイツ語は新正書法ではないです。ドイツ語句末の句読法は、EMI CDC 7 54773 2 ライナーノートのままです)。

  和訳も、ことばによるよけいなおしつけですが、いま読んでくれている方が、曲とその和訳に、そしてよりすてきな演奏に、あらたに出会ってくれることを願っています;


やわらかなそよ風が目をさまし、

昼も夜も、さやぐ音をたててふきわたり、

この世のすみずみにまで、息吹をかよわせる。

あぁ、さわやかな香り、あたらしい響き!

さあ、あわれなこの胸も、こころをとざしていないで!

いまこそ、何もかも、移り変わるときだ。


この世は日ごとに美しくなり、

この上どうなっていくのか、はかりしれない。

花はとめどもなく咲きつづけていく。

あのいちばん遠い、いちばん深い谷も、花ざかりだ。

さあ、あわれなこの胸も悩みを忘れよう!

いまこそ、何もかも、移り変わるときだ。


Die linden Lüfte sind erwacht,
Sie säuseln und weben Tag und Nacht,
Sie schaffen an allen Enden.
O frischer Duft, o neuer Klang!
Nun, armes Herze, sei nicht bang!
Nun muß sich Alles, Alles wenden.

Die Welt wird schöner mit jedem Tag,
Man weiß nicht, was noch werden mag,
Das Blühen will nicht enden;
Es blüht das fernste, tiefste Tal:
Nun, armes Herz, vergiß der Qual!
Nun muß sich Alles, Alles wenden. 

...L. Uhland  "Frühlingsglaube"

2024/02/03

■ きく - バッハ「平均律クラヴィア曲集第1巻5番 二長調 前奏曲 」BWV850;グールド


 あの日、一聴した瞬間、腹の底がひっこんで笑いがつい破裂しました...。なぜかは明らかですが、表現できるかな。

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 グールドを私が語るなんてはあまりに恐れ多く百年早いのですが、生きているうちにボソリと呟いてみます。

 日本でピアノを習う人の、数といい年齢層といい歴史といい、層の厚さは先進国随一を争う勢いです。高度経済成長期以降、ピアノが、アップライト型ではあれ、一定階層以上の個人の所有物として一般家庭に普及し、「娘にピアノくらいは習わせたい...」「その日は娘のピアノの発表会があるので...」「休日にはピアノの練習音が聞こえるちょっと大きめのきれいな家...」が、日本人の夢みる幸福で豊かな家庭のステイタスだったきらいがあります。加えて近年は「子どもの習い事」にとどまらず、学習開始年齢を問わない生涯学習としての地位も確立されているようです。

 これほど底辺が広く高くそびえる厚い階統制を頂点に登りつめた人たちとしては、プロのピアニスト、またその供給源である芸大音楽科や音楽大学の人たちが想像できます、が、ヒエラルキーを登りつめたこの人たちのした努力は、学校のお勉強などとはまたちがって、想像を絶するものがあることでしょう。尊敬して余りあります。

 音楽科を受験して合格するだけでも、一般の私たちが漠然と想像するような上記の「幸せな家庭」レベルなど消し飛んでしまうような壮絶な世界だ、と、ま、当初は思ってもみなかったのですが、東京で学生をしていて、そういう方々に出会って、私には異世界なのですが、少しだけは実感できました。出会って見たり聞いたりした経験には感謝。いろんなお話がたくさんあるのですが、また今度会ったときにでも...リクエストしてくれればいくらでも語れるから(なんだそれは)。

 そんな体験のうちのごく浅い部類の話をひとつ。私の下宿の近くに別なアパートがあって、毎日ピアノの練習をする学生さんがいました。大学が違うし、親しくはないのですが、名前とあいさつ程度は...。ピアノ科ではなく声楽なのですが、教職課程も取っていることだし、ピアノは当然必須で、毎日、声の練習の前に、ピアノの練習も異なる数曲で聞こえます。試験のスパンで曲が変わるようです。

 が、その日の練習に入る指慣らしの毎日の第一の課題が、変わらず、表記のバッハの平均律1巻のニ長調のプレリュードでした。指導教官やテキストやカリキュラムによるのかもしれませんし、その人個人が「指慣らしにはコレ」と決めているかもしれないのですが、複数の学生さんが、毎日まずはコレを弾いているのを耳にしました。たしかに、プロにとって「旧約聖書」のこの曲ならば、さぞ指もほぐれることでしょう。もっとも、音楽科入学レベルに遥か遠い私たち素人なら、指など、ほぐれるどころか、もつれるばかりで前に進むハズのないレベル、ですが...。

 バッハの不思議な点は、どんなレベルの誰が演奏しても、ちゃ~んと楽しんで聴けるところです。例えば街のピアノ教室の発表会。小学生主体。週2回お稽古に通うためレッスンの直前に30分練習している小学生たちが、ショパンやリストを弾いたら...、親となって目を細めて聞く立場でない限りは、そんな危険な所へは、絶対近づかないにこしたことはありません...。モーツァルトなら...、う、うん、行くはずが昨日の胃バリウム検査のせいで今日はちょっとずっとおなかの具合が...。ハイドンなら...、イマちょっと咳が出て会場で迷惑になるので早めに退出を...、バイヤーなら...、あ、チ、チョっと上手になったねぇ...と、汗だくで言いわけするところ、バッハ「インヴェンションとシンフォニア」ハ長調BW772なら...、あ、いいね!楽しい!って感じがしませんか ← よくわからん、という方ごめんなさい。

 芸大とか音大などの近隣に「楽器持ち込み可」のアパートが多めの学生街エリアって東京にはあるんですが、そんな場面で歩いていて他からも聞こえることはあれど、発表会の小学生へのあたたかいまなざし(耳)は無く、バッハだろうとリストだろうと、聞こえてきたら、ちょいと辛い耳をそばだててしまいます。

だから、音楽科の学生さんのバッハなので文句なく聞ける、しかもヘ長調の「イタリア協奏曲」などとちがって、素朴な響きの「平均律」なら、よほどうまいよなぁ、...と言いたいところ、やはり、だれにでも調子の波があるようで、毎日聞くともなく聞いていると、フィンガリングが体調や感情を教えてくれたりします。

 でも、毎日決まった時間に真面目に練習が始まり、いかにも苦悩し努力し、そういうちゃんとした人だからこそもちろん、音楽学習者ヒエラルキーの頂点に立つ学校に通っているわけで...。デタラメな私の生活を諫めてくれるような存在でもありました。この人の努力のツメのアカでも...。

---...---...---

 この曲は、私個人は、LPで、H・ヴァルヒャのチェンバロの演奏と、S・リヒテルのピアノの演奏で持っています。ちょっと演奏の速さに留意して聴き直してみます。

BWV850のプレリュードの演奏速度をメトロノーム解析すると;

ヴァルヒャ...78.5bpm…しっかりかみしめるような運指です。リュッカース・チェンバロでの70年代アルヒーフ盤ですが、今となってはやはりアンマー・チェンバロのような、鋼線の現代チェンバロに近い、硬く豪華な響きがします。

学生さんや学習者の練習はこのテンポです。調子により、止まったり戻ったり...。

リヒテル...145.5bpm…珍しく非常に速いテンポでの演奏です。

じっくり深く沈潜して考えるリヒテルという先入観が、この曲にはあてはまらないです。

グールド...163bpm… 猛烈に速いです。プレリュードだけなら66秒で演奏終了です。

ま、今となっては、彼なので、驚くに値しないかもしれませんが。録音は1963年と、上のヴァルヒャの2回目の録音より10年早い時期です。さぞかし世界中が腰を抜かしたことでしょう。

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 さて、冒頭で申し上げた、思わず笑いが破裂してしまったのは;

「演奏会」「聴衆」「拍手」などに嫌悪感をおぼえる音楽家は多いです。古くはヴァグナー、ニーチェに始まり、グールドがその最右翼かもしれません。これらの者たちは、皆おなじ考えをもっているわけではないのですが、強い嫌悪感を表示している点で同じです。

 でも、素人考えでは、「演奏会」と、これをささえる18世紀以来の裕福な一般市民層が今日も存在するからこそ、雑多の中から純粋種が洗練され、底辺が厚いからこそ頂点はより高くなるわけで、これらヒエラルキーの最底辺にあっても、そこで努力するその価値は大きいと思います。

 ピアノのある家庭を夢見る高度経済成長期の労働者階級のおとうさんから、ピアノを習う小学生だって、発表会で目を細めるじいちゃんばあちゃんだって。また、その小学生が、中学・高校と進んで、バイヤーだったのが、ブラームスのト短調のラプソディ(Op.79)を課題曲に与えられたりなんかしたら、音楽科だって視野に入ってきます。これらの人たちの注いだ努力と費用...。どの一人の地道な努力の積み重ねも、グールドのような雲上の存在を支えていると思います。

 ところがっ、グールドのこのニ長調ときたら...。

 まるで、のび太くんとスネ夫くんが砂浜で何時間もかけて一生懸命つくった砂のお城を、ジャイアンが1分で大笑いして破壊するかのように、すべての音楽学習者のあらゆる地道な努力を一瞬にして蹴散らして、バッハの理想の目的地に着いたかのように聞こえてしまいました。

 ジャイアンとグールドをいっしょにするって暴論を越して愚かですが、粗暴なジャイアンとちがうのは、グールドの、どの1音の細部にも、神が宿っている点です。

 スタカートのようなインパクトのある左手と、想像を絶する軽やか滑らかな16分4連。


 または、まるで、大学の先生たちが1年間4単位かけて必死に懸命に真面目に不器用に説明したコトを、たとえば F.ニーチェが「つまりさ、」と一言のアフォリズム(箴言)でケリをつけた、画家が「ほら」と壁に落書きして、1秒ですべてケリがついた、ような...。

グールドのこのニ長調。聴く私は、あは、と笑ったきり、口をあけたまま聴き入ってしまいます。グールドが孕むのは速さだけの問題ではなく、タッチに基づくソノリティの不思議さ等、大きな課題はなお山積、ですが、今は、その雲の上を滑走してあっという間にいなくなった彼に「どうだい、ボクの落書きは」と、66秒で教えてもらった気がしました。

2023/12/07

■ きく - バッハ「オルゲルビュヒライン」BVW599-644; アラン


大学時代にいなかから東京に出て来て、本でしか知らなかったものの実物に接触する機会は多かったです。東京国立博物館の収蔵品などがその例です。うち、パイプオルガンというものを初めて聴く機会に触れたのも、その一つです。

■ おとといの冒頭画像は、東京カテドラルですが、この大聖堂は、典礼用途で実働する日本最大のパイプオルガンを備えています。小教区教会としてのカトリック関口教会で、ふだんの主日ミサで毎週稼働しているわけではないようですが、教会暦上の大きな祝日には当然、聖歌の伴奏に用いられます。

■ 初めてその音を聞いたときは、想像を絶するレベルで、「楽器」というよりは、「建物の構造物」が圧倒的な力を及ぼしているのを感じました。コンクリートという一種の石造建築物の中で、内側に向かって湾曲するネガティブラインを持つ内壁を這う猛烈な音の波や圧力が、集う会衆や私の皮膚や筋肉を押し脳を揺さぶるのではないかとすら感じます。それが、外側に膨らむ穹窿をなすヴォールト天井(8/6ご参照)を持つヨーロッパの教会と同様なのか、また、それが会衆に心地よいか、というのはまた別な問題ですが...。

■ ロックコンサートやサウンド効果付きのシネマシアターなど、類似の熱い高揚感があるのではないかと思いました(どちらも行ったことがありませんが)。

■ 飛躍しますが、1517年にくすぶりが破裂した宗教改革で、ルター本人の強い意志は、そのエグいドギついドイツ語訳の聖書と、積極的なドイツ語の讃美歌の、両方を用いる典礼(礼拝)で、説得力を強めたのではないでしょうか。うち、歌は、カトリック修道院のような、器楽伴奏なしの単旋律のしかも会衆にとって意味不明なラテン語なんかのモノフォニーではなく、オルガン伴奏が当然の前提とされる(当時は場合によっては管弦楽団までつく)多彩なホモフォニーに支えられた、歌いやすいドイツ語の主旋律をもつ讃美歌が、次々と作られていきました。

 自分たちの生活や場合によっては命をも抑圧するカトリックという巨大な敵対圧力を押し戻す強い意志は、会衆が、自ら読み歌う形で、積極的に参加する際に、教会という石造りの砦とオルガンという心理的に圧倒的な構造物によってバックアップされたのではないでしょうか。オルガンは、人間の意気を昂め、意志を束ね、決意を促し、人間の歴史を変える構造物です。

 さて、話はガックリ変わって、大学時代の80年代半ば、内臓疾患で何か月間か何年間か病院の天井を見て暮らしていた折りに、それまで何度も耳にして知っていたはずのマリ=クレール・アランの演奏を、耳にしました、と言ってももちろんいつものFM放送で...私が生の演奏に接する境遇なワケがないじゃないですか。

 このときの私の置かれた状況から、いつも鈍い私の感覚も、チョっと人並みに鋭くなっていたのか、ブクステフーデのあの二短調のパッサカリア(BuxWV161)で重々しい曲のハズのところ、たしかに軽くはない、がっしり芯が通った音色でしたが、だのに、ずいぶん明るくすがすがしい透明感でいっぱいで...。知っているヴァルヒャとは全く異質の音色に聞こえて、改めてLPで(当時CDは高価だった)じっくり聴いてみたい気分がむずむずしてきました。

 クラシックのLPレコードにつき、圧倒的に怒涛のラインナップを揃えているのは、世界広しといえど、ロンドンでもニューヨークでもパリでもなく、明らかに秋葉原の石丸電気です。一時退院した機会に、物色に出かけていきました。

 アランのLPは、すぐたくさん見つかりました。あの明るい音色をいっそうじっくり味わいたかったので、恰好の1枚、バッハのシューブラーコラール集(Schübler Choral BWV 645-650)を選びました(上の画像のLP)。

 自室の貧弱なステレオで聴いて、びっくり。いきなり感じたのがペダルの風圧です!?...えぇ!?...大音響で鳴らしたわけでは全くないのに、がっしりと芯が通った底抜けに明るい音色、いやそれを越えて、ペダルの低音で、音の波の風圧が物理的に内臓を揺らします(病気ゆえの幻覚です...)。フランスのエラート(Σrato)盤の特有の音の良さは定評がありますが、自分のショボいステレオの、ダイナミックレンジを上から下まで使い切っているようなずっしりと深い音です。あの関口教会の体験と同じではないか、ただこちらのシューブラーコラールの曲は、あの威圧感がなく心地よいです。

 オルガンは、オーヴェルニュ地方ドロームDrômeにあるサン=ドナ教会 (Collegiale de Saint-donat)の、1970年代のシュヴェンケーデル Schwenkedel 製で、1982年頃の録音。アルザス地方にあるこのオルガン工房の名前こそゲルマン語系ですが、音の体験なのに、音色は、南フランスの、明るい、強い、迷いがない、などのイメージが広がり、何か視覚的なものを感じます。南の地中海から吹く穏やかで湿度の多い海風。北から吹く乾いたミストラル。青空の下でからみあうようです(病気ゆえの幻覚です...。内臓疾患が精神まで蝕んできたかもしれません...)。

 その録音を遡る2年ほど前にアランがすでに完成させていたバッハのオルガン全集を、聴かずにはいられなくなりました...。LPでヴァルヒャの全集は持っていたので、その扱いのたいへんさから、もはや今度は、ダイナミックレンジの広い、しかも扱いやすいCDで欲しくなったのですが、CD17枚組はとても購入できず、何年も欲求を封印しました。全巻一括で購入したのはその後何年もたってからです。

 日本語盤の全集には、200ページにわたる分厚いブックレットが附属しています。アランが1曲1曲を全て丹念に解説しています。和訳が、ぎっしり濃密でやや衒学的、その文体が、淡々とした学術的で客観的な記述からは遠い文学的修辞に満ちていますが、元のアランの仏文がそうなのでしょう。それでもこの内容的な自信と信念・学究的誠実さがみなぎる人格には、圧倒されます。

 ヴァルヒャのオルゲルビュヒラインが、ほの暗く、模索して辿り着き、内面からにじみ出る喜びをじわりと感じるところ...でもそれを、今、この晴れ渡る南フランスの対岸から眺めると、場合によっては ceux qui cherchent en gémissant 呻(うめ)きつつ求める者ら? …。とすれば、アランのそれは、フランス的な clare et distincte 明晰判明, sens intime 屈託のない親しさ?... 

 No.4 “Lob sei dem allmächtigen Gott (BWV602)”...昨日のArchiv盤の和訳と違い、こちらΣrato盤の和訳は「全能の神を讃えよ」。ここでの彼女のペダルの音は、何の抵抗も障りもなくスっとからだに入ってきて気がつけば次の瞬間に心臓も腹も抜け落ちるている、といったような柔らかくもずっしり深い音。それが見通しの良い左手の装飾的な中音域と違和感なく戯れるようにからみます。右手旋律を歌う高音のストップは、ビブラートを知らない子どもがあっけらかんと発声するようなカラリと明るい色合いです。

 彼女のオルゲルビュヒラインは、しかし、曲ごとに、表情が多岐多彩で、巨大なダイナミックレンジにわたります。この、20世紀に新規に建造された現代の巨大オルガンを、手足のように動かし、あるときは浅く小刻みにあるときは深々と呼吸しているかのように、ほんとうに自在に振り回しています。もはや『オルガン小品集』の枠を超えて、あらゆるオルガン技巧の見本サンプルカタログででもあるかのようです。したがって、バッハ全集の他の曲、プレリュード、フーガ、トッカータなどのスケールの大きさに、この人の偉大さが、これでもかと痛いほど感じます。それら全てを包む背景にあるのは、全く揺るがない強い信念と楽観性、そのさらに根底に、...彼女の宗教は私にはもちろんわからないのですが、何か、こんこんとあふれるような信仰の喜び、というものがあるのではないのかな、という気が、ちょっとします。

2023/12/06

■ きく - バッハ「オルゲルビュヒライン」BVW599-644; ヴァルヒャ


オルガン曲といえば、私ならば、この人のこれです。

 もうちょいウルさく書けば;

バッハ『オルゲルビュヒライン - 45のオルガンコラール集』のうちから 

 Nr 4. Lob sei dem allmächtigen Gott (BWV602) 

レーベルは、アルヒーフ Archiv Produktion (West Germany)

1969年9月のステレオ録音

オルガニストは、ヘルムート・ヴァルヒャ Helmut Walcha 

 今は、静かなこころ楽しさがある待降節の時期なので、45曲のうちの、第4曲目を。たった40秒たらずの曲です。

 1970年代後半に購入した画像のLP、アルヒーフの国内盤の訳では、この第4曲目は、「万能なる神に賛美あれ」と文語調でいかめしい表現ですが、曲はふわりと柔らかいです。

 どの曲も、ルター派の讃美歌の旋律です。ただしそのさらに元はラテン語の(つまりカトリックの) “Conditor alme siderum”(輝く星の創造主)に由来します。でも、言葉で補おうとすればするほど、難しげになりそうで、ごめんなさい。が、そんな前提知識は不要です。

 聴けば、柔らかく喜びにはずむ低音ペダルのリズム(下の画像の最上声部の四分音符 - 緑枠)と、軽やかな左手の対位法的装飾音(楽譜画像の十六分連符 - 黄枠)を伴って、高音域の右手旋律(画像の最上声部の四分音符 - 橙枠)が、四分音符のみの、単純で素朴でおおらかな下降旋律で弧を描きながら、少しずつ降りてきます。最後の和音は、上行する左手の装飾と交叉して、御座への昇天を予告します。

※ Bach 自筆譜 "Lob sei dem allmächtigen Gott (BWV602)"

 このペダル-緑枠と左手-が、最初の小節で、直感的にほっと息を吐きたくなるような、何もかも、後悔も悲しみも罪の意識も、ふわりと包み受け入れてくれるようなやすらぎがあります。

 待降節は、"神の子が人となって地上に降りる"神学的モチーフが必ず背景にあります。ゆえに、待降節用のコラールには、基本的には下降音型をもつ旋律的動機が用いられる点で共通しています(たとえば、ご存じのクリスマス讃美歌『きよし、この夜』ですが、この2文節のいずれも、旋律語尾は下降していませんか?)

 あ、そもそも「オルゲルビュヒラインOrgelbüchlein」とは、「オルガン小品集」「オルガンの小さな本」という意味です。バッハのこの曲集の定訳が表題のカタカナのみの音訳となっているので、無理に訳し直すならそういう感じでしょうか。

 この45曲は、教会暦にしたがって、1年を「降誕(12月)、新年、受難、復活、聖霊降臨、祈り、死(11月)」に分割し、それぞれに数曲ずつ、ルター派のコラールをもとにさまざまなオルガンの技法を記したものです。

 うち、待降節用に第1~14曲目、復活までで第32曲目までと、やはり降誕と復活には大きく割り当てられています。

 全盲のオルガン奏者ヴァルヒャは、バッハのオルガン曲全集を、モノラル時代とステレオ時代の2度録音しています。私は70年代前半の中学1年生かそこいらの頃に、バッハって、ヴァルヒャって、誰だかよくわからないまま、この曲集のFM放送をカセットテープに録音しました。曲集の途中から録音、途中で尻切れです。きびしいようなやさしいような、ひとりでよく考えてみよう、と語りかけるようなこの曲集...。何百回か聴いて、カセットテープはもつれて捨てる状態に。高校生になった16歳、70年代後半頃に、意を決してあのカセットテープに録音した音源である、冒頭の画像の2枚組LPレコードを、当時の価格5,000円で買いました。画像のLP音盤はもう傷だらけです。日本語盤ですので、磯山雅の解説和訳があり、買ってすぐ読みました。そのとき、演奏者年譜に、ヴァルヒャという人は「16才...全盲となる」と書かれてありました。

 心臓がつぶれる思いでした。幸せにもLPを買った私と同じ歳で...。どんな思いだったのでしょうか。それが自分だったら...。

 目を瞑って聴いてみたらどうだい? と、声をかけられている気がしました。

 目を瞑って音楽をきくようになったのは、その瞬間以来、今日まで、半世紀近く続いています。

 この第4曲の音、いや、この曲集全体の色調が、やわらかいのは、当時のクリアならざる録音技術のせいもあるでしょう。ラジカセでは、よく言えば神秘的な、ハッキリ言えばモヤっと曇った響きでした。

 LPをヘッドフォンで聴いて、やはり、やわらかく包み込む響きがしました。今でもです。また、この第4曲の1969年録音時の一次音源には、曲の最初しばらく録音技術上のバグ的な雑音「ザリ」音ノイズがあります。

 同時に、このやわらかい響きは、使用したオルガンの音の特徴も大きいと思います。

 オルガンは、歴史的に独仏の領有争いが絶えなかった「アルザス=ロレーヌ地方のストラスブール 」=「エルザス=ロートリンゲン地方のシュトラスブルク」にある、サン=ピエール=ル=ジュヌ教会(Saint-Pierre-le-Jeune, Strasbourg)のジルバーマンオルガンです(画像CD右のジャケット)。

 聖人信仰の教会名からしてカトリック教会ですが、このエリアの複雑な歴史的経緯から、バッハの時代にはもう現在のルター派教会となっているようです。

 オルガン制作者のジルバーマンは、バッハと同時代人です。このアルザスエリアは、当時はオルガンの名工らで名高く、彼はその代表格でしょう。建造後数年して当地に来たモーツァルトがこれを演奏した当初は、構造的に、マニュアル(手鍵盤)1段、ペダル(足鍵盤)数本程度だったに違いないのですが、200年の間に修復を重ねたようで、20世紀になって、その初頭に、あの「密林の聖者」シュヴァイツァー、彼もストラスブールの人ですが、その彼が、エルフェル社と共同で手直しをしたのを始め、1979年頃までに、マニュアルはレシ込みで3段鍵盤かつワイドレンジで大掛かりなペダルに拡張され、そうとう大型のオルガンになっているようです。

 ジルバーマン建造当時のストップ(同種発音を有する一群のパイプ配列群)も敢えて残して使っているようです。

■ LPの解説にはオルガンの説明もあり、改修歴とディスポジション(ストップ仕様)が、それぞれの風圧データに至るまで詳細に表示されています。

 発音の特色(音色)は、おそらくの推理...ですが;LPと、その後80年代にこれをCD廉価盤にて再販した同一録音を購入したのですが、その2種の音源を、目を瞑ってジッときいての推理でしかないのですが、そうとう大型のオルガンでありながら、おそらく、たいへんに柔らかい発音の特色、場合によっては、同じ大規模なサイズで20世紀に新建造されたオルガンと比べてかなり反応が鈍い特色、などを備えているのではないでしょうか。これをヴァルヒャは、小さな独楽(コマ)でも転がすように、自由自在に操っているような印象をもちます。

 その、ストラスブールのジルバーマンオルガン固有の発音の特色と、他の人ならぬヴァルヒャという歴史的存在が、他の曲ならぬオルゲルビュヒラインを選んで弾いている、という組合せが、私にはかけがえのない、生涯の出会いです。

2023/12/05

■ きく - オルガンって?

※カトリック関口教会(東京カテドラル聖マリア大聖堂); 関口教会ウェブサイトより

12月。クリスマスの月? それってキリスト教の話では。いや、でもニッポンの行事ですよね。もうニッポン固有ニッポン古来の伝統行事との固定観念もあろうかという勢いです。クリスマス=忘年会=飲み会という概念の正しさに疑問の余地もないニッポンのオッサンが、酔って帰宅途中、偶然通りかかったキリスト教会前を見て「へぇ、キリスト教でも、クリスマスをヤルのかぁ」と感心した話もあるくらいで。

 私は学校に通っていた時代に、親戚である浄土真宗のお寺に下宿していましたが、そのお寺には、他にも下宿生が、時期にもよりますが、中学生・高校生・大学生などが混在していたりして、この下宿生のために、冬休みの入りに、「クリスマスパーティー」もあったくらいです。え? 仏教寺院でクリスマスパーティをしていいのか!?...って?...(;^^A…イデオロギー上の論理的矛盾に気づいたとしても、ま、おカタいこと言わずに...。親元を離れて勉強する下宿生への、ささやかながらこころのこもった気づかいですよ。みんなのご飯を365日のあいだ毎日3食、当然お弁当もつくって、さまざま世話をしてくれた伯母さん(住職の妻)は、よほどたいへんだっただろうなと思います。

 で、今年は、教会の暦で、クリスマス前の待降節第1主日が遅くて、おととい12/3(日)だったそうです。それは何? だから何? で別にいいんですが、個人的な暦感覚では「真冬の入り」で、昼なお鉛いろにどんよりと暗い日がこれから3か月続くというこの地方で生きていると、待降節→四旬節と、気持ち的にもずっしりと重いです。よくわからない感覚でごめんなさい。

 そんな天候気候できく音楽は、i). 明るく軽く華やかな曲を聴く、ii) どんよりと暗い曲を聴く、の、実はどちらもそれなりに良いものです。i).の選択肢に飛びつきたくなりますが、私がここ半世紀ほどii).を選んでしまうのは、人格的問題か、いやそもそもそんな人格をこの気候風土が創ったのでしょうか...。いずれにしても、中世ルネサンス期の器楽なしの声楽かオルガン曲に限られてしまう現象があります...。

※ 左;ヤマハ創始期のリードオルガン組立工程 (YAMAHAウェブサイト) 
/ 右;日本最大のパイプオルガン (サントリーウェブサイト)

「オルガン」と言ったとき、ニッポンの庶民の私たち(あなたも引きずり込んですみません)にとっては、昭和の昔まではどこの小学校にもあった「足踏み式オルガン」を思い浮かべませんか? これを今「リードオルガン」と呼ぶことにします。他方で、CDで聴くオルガンは、日本では「パイプオルガン」と呼びならわしています。

 昭和の(特に津軽地方の)小学校の教室に1年中必ずあったのは、黒板・机・椅子のほかに、足踏み式のリードオルガンと石炭ストーブです。私の小学校時代の担任のうちの、男性の教員は、思い出してみれば、リードオルガンの操作が、実にぎこちなく、本人もつらそうで、つまりはっきりヘタクソでした(す、すみません!!...)。小学校教員は、今でもですが、鍵盤も水泳も必須なので、教員採用試験のハードルは高いのではないかと、無能な私は尊敬するとともによけいな勘ぐりをしてしまいます。

 リードオルガンは、明治期に宣教師たちが大量に持ち込み、国産され、文部省の唱歌教育で教育の場に隅々まで普及し、戦後に個人宅でも備える家庭が増えたそうです。ピアノメーカーの山葉(ヤマハ)も河合(カワイ)も、出自はオルガン製造者です。が、その後、作曲者や演奏者が、個人的に、操作しやすく、かつ、より感情的芸術的ニュアンスを伝えやすいピアノに取って代わられたようです。

 パイプオルガンは、教会の構造の一部であって、建造にも維持にも莫大なコストがかかり、巨大で専門的です。現在は、私たち庶民レベルから見ると、典礼と芸術鑑賞用途のみで、日常生活には縁がない遠い存在です。

 ただ、LPやCDのおかげで、私のような末端の庶民でも、自宅で気軽に聴くことが可能です。

 でも、聴くと、ピアノを聴くのとも管弦楽や室内楽を聴くのとも違う気分です。もちろん、ミサや礼拝のような典礼に与っている気分ではない。けど、芸術作品を鑑賞している気分とも違うような気がします。何か、うまく言えないのですが、たとえば、自分用にきっちりPCで制作したリフィルを革手帳に整え、本来あるべき自分について、構想し、具体的に計画し、予定に落とし込み、達成度を確認し、これにより方向を修正し、...などといった、かるい緊張感のもとで、ちょっとちゃんと省察してみようか、という気になるんですよ。いや別に、オルガン曲を「机に向かって」「正座して」聴くハズがなくて、横になって聴いていたとしても、そういう気になります。

 ここまでまとめてみて考えると、なんだかこんな天候気候・風土のなかで一人で目を瞑って聴くという自分のスタイルができてきたのもしょうがないか、せっかくここまで意識したことだし、これからは少し目的意識を持ってオルガン曲を聴こうかなと思います。

2023/11/17

■ きく - マーラー 交響曲第5番 嬰ハ短調 - シノーポリ/フィルハーモニア管弦楽団


1980年代の、私が気づいたのは半ばくらいから、「マーラーブーム」とほぼ同時に「ブルックナーブーム」。どちらも大学生上がり無職の病人の私が聴いたら、何か、調性が破綻しかけていて、ただでさえ生活がつらいのに、いっそう悲観的になる音楽でした。

 うち、マーラーの交響曲は、1番、4番と、できるだけ平和な曲になじみ、次に2番、3番と、まだ調性になじむ曲を。ここまでは、怖いので、いつでも片足を抜きかけているかのように、FM放送をカセットテープに録音したものを繰り返し聴くのみで、お金はかけないことにしました。で、意を決して次の段階に行こうと思い(おおげさなヤツ...)、聴いたことのない5番について、1986年に、シノーポリのCDをいきなり国内盤で買いました(最も高額な買い方なのでこういう表現です)。というのも、レコード芸術で「特選」盤になっていたからです(軽薄なヤツ...)。

 これは、聴いて後悔。意味が分からない曲でした...。つまり、調性の破綻が顕著な気がしてなじめませんでした。でも、買った以上は、「ひとまず100回」聴きます。

 同じ時期、まだまだ一般には高額だったCDプレーヤー、Denon DCD1000という高級オーディオ機器を49,800円で購入して自分の貧弱なステレオコンポ(テクニクスのコンサイスコンポといいました)に接続しました。6畳一間の貧相な下宿のお部屋に、しかも1年の半分は病院で寝てたりするのに...。しかも定食屋の定食は月1回の贅沢、毎日お米は食べられないので、煮た大豆のみ食べていたというのに...。あろうことか、入院時に病院にこのCDプレーヤーを担いでいったことがあります。大切なので抱いて寝ようかという勢いです。直接ヘッドフォンを挿して聴いていました...。

 初めてのマーラー5番の盤を毎日毎日、4か月ほども、けっきょく100回は聴きました。リズムやデュナーミクの揺れが激しく、すばらしく躍動感がある、のに、音色が繊細で多彩で...。

 もっと聴きたくなり、当時すでに「不動の四番打者」だったショルティ/ロンドン交響楽団(Decca盤)を、中古LPで並行して聴きました。Decca盤のショルティは、音色が強くストレート、金管群がアングロアメリカンな猛烈な咆哮、低弦はゴリゴリと擦弦音があります。ストレートなショルティ盤に比べると、シノーポリ盤は、4管編成に加えて金管2管の巨大編成ではあるのですが、繊細で、何かこもったような抑えたようなためらいがあり、翳のある風情です。でも、ドイツのオーケストラでなくてイギリスの、という点が、音色にそこはなとなく明るい雰囲気があります。シノーポリ盤を今も大切に聴く所以です。

 同年(1986年)に、DENONレーベルから、E・インバル/フランクフルト放送交響楽団(F.R.S.O)でマーラー交響曲全集が出(録音エンジニア;川口、P・ヴィルモース)、FM放送をヘッドフォンで病院で寝ながら聴きましたが、異様に音が透明で見通しが良く、マーラーの交響曲に対してもっていたマッシブな息苦しさが、すっきり払われていた気がしました。病床に伏していたから感覚が冴えていたのかもしれません。

 翌1987年に、このインバル/F.R.S.Oが、来日演奏。バブル経済を上りつつある東京の雰囲気と相俟って熱狂的な歓迎だったようですが、東京文化会館と自転車距離に住んでいた自分が演奏会に行ける境遇なワケがないし、ふぅんと思っただけではありました。

 病院の「談話室」のテレビでその演奏会の模様をチラリと見たのですが、もちろん音質の問題もあって、ただのニュースであり、何の感動もありません。一人でCD聴いてた方がいいな、と思いました。でも、「CDなどのメディアは、再生機器や録音機器に色づけられた造られた音」という説、「ナマ演奏にはかなうわけないだろ!」という主張も、当然もっともです。でも比較の対象になるのかなと疑問でした。

 その年、顔しか知らなかった大学の友人から、「都響定演(東京都交響楽団の定期演奏会)のチケットが余っちまったんだけど、買わない? 500円で。君なら買うかもと友達に聞いたので。」と言われ、演奏曲目を聞いたら、マーラー5番。「か、買う。買わせていただきます。」つまり、演奏会に行けるものなら行きたかった自分が、他の全ての自分を押しのけて出てきました。

 都響のホームグラウンドは東京文化会館大ホールです。その晩、着席したのは大ホール3階の最も安い席。周りに着席している人はほとんどおらず、オーケストラがはるか下方に小さく人形芝居みたいに見えます。こんな遠くて聞こえるのかよ、と思ったのですが、はるか遠くの管も弦も、いや、トライアングルもシンバルも、私をすぐ取り巻いて耳元で囁くようにシャープで、高音から低音までのダイナミックレンジは広大です(ナマだから当たり前か)。F.R.S.Oでなくても、大学の、いや中学高校のオーケストラであっても、マーラーは生の管弦楽団(の安い場末の人跡稀なエリアの座席?)に限るじゃないか...。真っ暗な帰り道、ひんやりする上野公園を、チャリで、動物園の虎の声を聞きながら(たぶんそりゃ気のせい)坂を下りて池之端から暗闇坂を上がり...その間ずっと、内臓が抜け落ちるようなコントラバスの音が、興奮したからだじゅうに残っていました。

 「演奏会に行く行為」には、当時の歪んで卑屈になっていた自分にとっては、往復の手間・時間・金銭・猥雑な視覚情報・スノビズム・周りの客の息遣い・咳・くしゃみ・話し声・撮影・筆記・拍手など、嫌悪感がありました。今でもずっとあります。小さな部屋にいても小さな音のクラヴィコード1台やリュート1本、またグレゴリアンから指輪四部作の演奏規模に至るまで、真っ暗にしてヘッドフォンで目を瞑ってCDを聴く方が、音楽の純粋性、一歩進んでDämonenhaftigkeitやDionysischkeit(かってな造語です)が保てるではないか、などと歪んだ刷り込みが定着してしまいました。3/22に言った無前提で音楽を聴くとはこんなことに違いないと思い込んでいるところです。この問題については、自分で納得がいくまで、しかしもしかして死ぬまで、葛藤しそうです。

2023/10/16

■ きく - シベリウス 弦楽四重奏曲二短調 Op56 「内なる声」- グヮルネリ弦楽四重奏団 / テンペラ弦楽四重奏団


あなたが幼いころから慣れ親しんだの地元の郷土料理を、東京のお店で食べてみたことはありますか。あるいは、あなたのお母さんの得意の手料理を、レシピをまねて他人が作ったとして...。

津軽のいなか者の私は、東京で暮らしていたときに一度、『津軽郷土料理の店』に人に連れて行ってもらったことがあります。

マンガ『美味しんぼ』の第100巻が『味めぐり-青森編』でした。県のお役人の案内で次々と県内を巡り、あらかじめ地元名士や婦人会に大掛かりに用意させておいた郷土料理を次々と食べ歩き、都内のホテルで青森郷土料理どうしを対決させる...。私の地元の料理の内容を見ると...。

 感想。「ど、どれも、ち、ちがう...」

 東京の「郷土料理の店」やマンガ『美味しんぼ』で供出されるのは、良く言うと「洗練されて」います。良い材料を用いて、誰の口にも合う、しかもちょっと特別で高級な仕上がり、というベクトルに振って調理を仕上げているのではないでしょうか。東京のような大都会で営業する以上は、そのような付加価値があっても、納得がゆきます。否定すべきものじゃなくて、「東京における各地の郷土料理」という分野も、また一つの新しい解釈だし、洗練された文化になっていると思います。

 しかし、それは、昭和のいなかの庶民が幼少時に毎日口にしたはずの家庭料理とは、かけ離れています。明らかに劣った材料を使って、その家の人の口にしか合わないようなえぐみがあるはずです。

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 北欧(フィンランド)の作曲家シベリウスは、交響曲には中学校の頃聞いた2番以来、大学の頃に聴いたバーンスタイン/ヴィーンフィル(DG)の「スーパーロマンチシズム解釈」に至るまで、ずっと親しんでいたものの、その印象が災いして、弦楽四重奏曲は、何十年もこの1曲しか知らず、しかも「暗くて地味」というイメージを持っていて、積極的には食指が動きませんでした。

 とはいえ、どの弦楽四重奏団も、その演奏は美しいです。うち、グヮルネリSQの1989年録音盤(Philips 246-286-2;画像右)を。

 ジャケットは、年配のアメリカ人紳士の写真です。レパートリーも広くディスコグラフィも多く、40年にもわたって同じメンバーで国際的に活躍した尊敬すべき弦楽四重奏団でした。技術的に確実で、その演奏は、年配紳士の写真にとらわれてはいけないのですが、溌溂として軽やか。アメリカの弦楽四重奏団というイメージから寄せる期待に応えてくれます。

 他方、テンペラ弦楽四重奏団(画像左)は、まったく知らなかったのですが、BISレーベルから2007年頃に『The Sibelius Edition』という組み物が発売されて、これを機に、弦楽四重奏曲も聴いてみたいと思い、購入しました (BIS CD-1903/5)。第1巻-室内楽1は、CD6枚セットですが、うち、シベリウスによって完成された「弦楽四重奏曲」はCD3枚に渡るたった4曲しかなかったので、あ、そうなのか、と理解しました。うち3曲は、このセットで初めて触れました。いずれもこのフィンランドの四重奏団の演奏です。

 CDセットの1枚目の嬰ホ長調の冒頭を、一聴して仰天しました、彼女らの演奏には。天衣無縫。水を得た魚。水しぶきが次々と飛んでくるようです。

 このフレッシュさは、フィンランド人のシベリウスの曲が、フィンランド人の彼女らにとっては、自家薬籠中の十八番、毎日曲芸のように振る中華鍋でつくられた、ここでなくてはできない料理、というたぐいの見事さです。

 今は、「暗くて地味」というイメージを抱いてしまっていた二短調の、緩徐楽章(Adagio di molto)を見てみましょう。

 全体に、緩徐楽章でありながらリズムの揺れが激しく、拍子記号が数小節ごとに変更され、ご覧の連符のリズムの抑揚もめまぐるしいです。こんな楽譜は、一人で演奏して前に進むのも困難なところ、合奏で進むのはよほど高い技能を要するでしょう。

※ 楽譜 1

■ 楽譜1のこの箇所は、四声部それぞれが、たゆたう波のように浮いては沈む全体の雰囲気を代表して一部抜き出してみました。グヮルネリSQは、楽譜には忠実で、マルカート記号やクレシェンド記号も、全体としてバランスよく、安心して身を委ねられるような規則正しさで、すっきり軽やかに進みます。下手をすれば、やすらかさは眠さに交代しそうです。

 テンペラSQは...。ゆったりと、いやねっとりと、彫りが深く、夢見るように、4本の弦がうねります。1stVnの高音はシャッキリ鋭く、Vaの中音域は太くじっくりとした擦弦音の触覚や振動が、まさに手で触るかのようです。

※ 楽譜 2

 楽譜2の後半、この楽章のクライマックスですが、テヌート付きのクレシェンドで上行しながら、p (ピアノ) < (クレシェンド)  f (フォルテ) と、極端な遠近がつけられた箇所。グヮルネリSQは、遠い憧憬を思い出すかのように、手前に増幅せずに、はるか遠くに焦点を合わせるかのような音作りです。

 対して、テンペラSQは、いっさい迷いのない強いボウイングで、点のようなミクロのp (ピアノ) から、ぐぅ~ッと拡大したf (フォルテ)に、一気に視野いっぱいに音像を広げます。

 グヮルネリは、国際的に活躍し、世界中に舌の(耳の?)肥えた客を抱える弦楽四重奏団です。対して、テンペラSQの立ち位置は、地元の作曲家、地元の演奏、地元の聴衆。こってりとしたえぐみさえある演奏で、このシベリウスは、他の演奏家にはとうてい近づけない世界ではないか、と、いつも、充足感に満ちて大きなため息をつきます。