2023/12/07

■ きく - バッハ「オルゲルビュヒライン」BVW599-644; アラン


大学時代にいなかから東京に出て来て、本でしか知らなかったものの実物に接触する機会は多かったです。東京国立博物館の収蔵品などがその例です。うち、パイプオルガンというものを初めて聴く機会に触れたのも、その一つです。

■ おとといの冒頭画像は、東京カテドラルですが、この大聖堂は、典礼用途で実働する日本最大のパイプオルガンを備えています。小教区教会としてのカトリック関口教会で、ふだんの主日ミサで毎週稼働しているわけではないようですが、教会暦上の大きな祝日には当然、聖歌の伴奏に用いられます。

■ 初めてその音を聞いたときは、想像を絶するレベルで、「楽器」というよりは、「建物の構造物」が圧倒的な力を及ぼしているのを感じました。コンクリートという一種の石造建築物の中で、内側に向かって湾曲するネガティブラインを持つ内壁を這う猛烈な音の波や圧力が、集う会衆や私の皮膚や筋肉を押し脳を揺さぶるのではないかとすら感じます。それが、外側に膨らむ穹窿をなすヴォールト天井(8/6ご参照)を持つヨーロッパの教会と同様なのか、また、それが会衆に心地よいか、というのはまた別な問題ですが...。

■ ロックコンサートやサウンド効果付きのシネマシアターなど、類似の熱い高揚感があるのではないかと思いました(どちらも行ったことがありませんが)。

■ 飛躍しますが、1517年にくすぶりが破裂した宗教改革で、ルター本人の強い意志は、そのエグいドギついドイツ語訳の聖書と、積極的なドイツ語の讃美歌の、両方を用いる典礼(礼拝)で、説得力を強めたのではないでしょうか。うち、歌は、カトリック修道院のような、器楽伴奏なしの単旋律のしかも会衆にとって意味不明なラテン語なんかのモノフォニーではなく、オルガン伴奏が当然の前提とされる(当時は場合によっては管弦楽団までつく)多彩なホモフォニーに支えられた、歌いやすいドイツ語の主旋律をもつ讃美歌が、次々と作られていきました。

 自分たちの生活や場合によっては命をも抑圧するカトリックという巨大な敵対圧力を押し戻す強い意志は、会衆が、自ら読み歌う形で、積極的に参加する際に、教会という石造りの砦とオルガンという心理的に圧倒的な構造物によってバックアップされたのではないでしょうか。オルガンは、人間の意気を昂め、意志を束ね、決意を促し、人間の歴史を変える構造物です。

 さて、話はガックリ変わって、大学時代の80年代半ば、内臓疾患で何か月間か何年間か病院の天井を見て暮らしていた折りに、それまで何度も耳にして知っていたはずのマリ=クレール・アランの演奏を、耳にしました、と言ってももちろんいつものFM放送で...私が生の演奏に接する境遇なワケがないじゃないですか。

 このときの私の置かれた状況から、いつも鈍い私の感覚も、チョっと人並みに鋭くなっていたのか、ブクステフーデのあの二短調のパッサカリア(BuxWV161)で重々しい曲のハズのところ、たしかに軽くはない、がっしり芯が通った音色でしたが、だのに、ずいぶん明るくすがすがしい透明感でいっぱいで...。知っているヴァルヒャとは全く異質の音色に聞こえて、改めてLPで(当時CDは高価だった)じっくり聴いてみたい気分がむずむずしてきました。

 クラシックのLPレコードにつき、圧倒的に怒涛のラインナップを揃えているのは、世界広しといえど、ロンドンでもニューヨークでもパリでもなく、明らかに秋葉原の石丸電気です。一時退院した機会に、物色に出かけていきました。

 アランのLPは、すぐたくさん見つかりました。あの明るい音色をいっそうじっくり味わいたかったので、恰好の1枚、バッハのシューブラーコラール集(Schübler Choral BWV 645-650)を選びました(上の画像のLP)。

 自室の貧弱なステレオで聴いて、びっくり。いきなり感じたのがペダルの風圧です!?...えぇ!?...大音響で鳴らしたわけでは全くないのに、がっしりと芯が通った底抜けに明るい音色、いやそれを越えて、ペダルの低音で、音の波の風圧が物理的に内臓を揺らします(病気ゆえの幻覚です...)。フランスのエラート(Σrato)盤の特有の音の良さは定評がありますが、自分のショボいステレオの、ダイナミックレンジを上から下まで使い切っているようなずっしりと深い音です。あの関口教会の体験と同じではないか、ただこちらのシューブラーコラールの曲は、あの威圧感がなく心地よいです。

 オルガンは、オーヴェルニュ地方ドロームDrômeにあるサン=ドナ教会 (Collegiale de Saint-donat)の、1970年代のシュヴェンケーデル Schwenkedel 製で、1982年頃の録音。アルザス地方にあるこのオルガン工房の名前こそゲルマン語系ですが、音の体験なのに、音色は、南フランスの、明るい、強い、迷いがない、などのイメージが広がり、何か視覚的なものを感じます。南の地中海から吹く穏やかで湿度の多い海風。北から吹く乾いたミストラル。青空の下でからみあうようです(病気ゆえの幻覚です...。内臓疾患が精神まで蝕んできたかもしれません...)。

 その録音を遡る2年ほど前にアランがすでに完成させていたバッハのオルガン全集を、聴かずにはいられなくなりました...。LPでヴァルヒャの全集は持っていたので、その扱いのたいへんさから、もはや今度は、ダイナミックレンジの広い、しかも扱いやすいCDで欲しくなったのですが、CD17枚組はとても購入できず、何年も欲求を封印しました。全巻一括で購入したのはその後何年もたってからです。

 日本語盤の全集には、200ページにわたる分厚いブックレットが附属しています。アランが1曲1曲を全て丹念に解説しています。和訳が、ぎっしり濃密でやや衒学的、その文体が、淡々とした学術的で客観的な記述からは遠い文学的修辞に満ちていますが、元のアランの仏文がそうなのでしょう。それでもこの内容的な自信と信念・学究的誠実さがみなぎる人格には、圧倒されます。

 ヴァルヒャのオルゲルビュヒラインが、ほの暗く、模索して辿り着き、内面からにじみ出る喜びをじわりと感じるところ...でもそれを、今、この晴れ渡る南フランスの対岸から眺めると、場合によっては ceux qui cherchent en gémissant 呻(うめ)きつつ求める者ら? …。とすれば、アランのそれは、フランス的な clare et distincte 明晰判明, sens intime 屈託のない親しさ?... 

 No.4 “Lob sei dem allmächtigen Gott (BWV602)”...昨日のArchiv盤の和訳と違い、こちらΣrato盤の和訳は「全能の神を讃えよ」。ここでの彼女のペダルの音は、何の抵抗も障りもなくスっとからだに入ってきて気がつけば次の瞬間に心臓も腹も抜け落ちるている、といったような柔らかくもずっしり深い音。それが見通しの良い左手の装飾的な中音域と違和感なく戯れるようにからみます。右手旋律を歌う高音のストップは、ビブラートを知らない子どもがあっけらかんと発声するようなカラリと明るい色合いです。

 彼女のオルゲルビュヒラインは、しかし、曲ごとに、表情が多岐多彩で、巨大なダイナミックレンジにわたります。この、20世紀に新規に建造された現代の巨大オルガンを、手足のように動かし、あるときは浅く小刻みにあるときは深々と呼吸しているかのように、ほんとうに自在に振り回しています。もはや『オルガン小品集』の枠を超えて、あらゆるオルガン技巧の見本サンプルカタログででもあるかのようです。したがって、バッハ全集の他の曲、プレリュード、フーガ、トッカータなどのスケールの大きさに、この人の偉大さが、これでもかと痛いほど感じます。それら全てを包む背景にあるのは、全く揺るがない強い信念と楽観性、そのさらに根底に、...彼女の宗教は私にはもちろんわからないのですが、何か、こんこんとあふれるような信仰の喜び、というものがあるのではないのかな、という気が、ちょっとします。