2024/03/29

■ きく - バッハ「ヨハネ受難曲」(BVW245)

LP; リヒター盤(1964年アルヒーフ録音盤の1979年抜粋版)、CD; ヘレヴェヒェ盤(2020)、ガーディナー盤(1986)、クイケン盤(SACD)(2012)

■  聖金曜日となりました。バッハの「ヨハネ受難曲」について、ここ数年感じていることを。

■  バッハの2曲の受難曲は、私の数十年前の高校時代以降厚く垂れこめる存在でした。

■  あの時はもちろんカール・リヒター指揮ミュンヘンバッハ管弦楽団・合唱団でした。有無を言わさぬ大きな権威でした。

■  その演奏は、今から思うと、巨大編成・つややかでキツい音の現代楽器・巨大合唱群・おどろおどろしい威圧的な響き...。ついでに、非常に高額なLP組み物。聞き通す2時間30分に何回も何回も盤を交換して集中力を維持する修行。

■  今となっては、遠い過去の1つの演奏に相対化されています。


■ 「マタイ受難曲」は、リヒターの演奏をアルヒーフがLP1枚に抜粋した盤を手に入れました(LPへのメモでは1980年1月購入です)。序曲のシンコペーションリズムが、十字架の道行き、自ら処刑されるための十字架を背負って歩む足取りを暗示し、ずっしり重いのですが、長調に転調する際の言いようもない明るさや希望を感じます。その後全曲盤を手にして、レシタティーヴォが多くて朗読調、アリアがイタリアオペラに比肩する難曲ぞろい、何より進行する歴史的事件の描写の重圧感...と、集中力を維持するのは容易なことではないです。

■ 完成度は、いわば「ヨハネ受難曲-第5版」とでもいうほど「ヨハネ」に改訂を重ねた結果として生まれた「マタイ」の方が高いでしょう。

■ 個人的には、でも、バッハが「受難曲」として最初に手掛けた「ヨハネ」に、凝縮感とアピールの直截性を覚えます。

■ もちろん「ヨハネ」も初めて聴いたのは、リヒター盤(1964盤)です;暗く重く、序曲では、弦の高音部は不安にさざめく規則正しい16分4連、中音部(ヴィオラとチェロ)は8分4連、通奏低音群(ヴィオローネとオルガン)はずっしり強いフォルテの4分で、1刻みごとに心臓に太い杭を深々と打ち込まれるところ、合唱の出は、いきなり巨大な絶叫で...。


 これは耐え難い、と思ったものでした。が、美しいアリアやコラールや合唱が間断なく次々と続き、芸術的興味の高さは絶え間なく保たれます。

■ 一転して、現在;

■ 演奏の主流は、ピリオド楽器(古楽器) です。加えて近年の録音の流行(?)は、1人1パート。「One Voice Per Part & 合唱団なし」の編成を、OVPPというそうです。

■ 非常に静謐で軽やかです。声の美しさ、古楽器の響きの美しさを、こころから実感します。

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■ 本来、バッハが想定した受難曲の演奏は、大規模な合唱隊(聖歌隊)が背後に存在することです。この人数的構成は、大都市ライプツィヒでの職場環境や当時出版社に発注されたパート譜の出納記録から、各パート1名ではないものと推定されています。

本来この合唱隊(聖歌隊)の役割は、

1). 福音書中の"あの歴史的事件における大衆"の声(扇動され興奮し、イエスを処刑に追い込む熱狂的な民衆)(トゥルバ合唱)、

2). 聖書の物語を、聖週間にあたって、静かに省察するルター派の教会会衆(コラール合唱団)、すなわち"いまここにいるわたしたち"、

の2つです。

■ 彼らの前景にて、歌手らが、福音史家役・イエス役・ピラト役・他の聖書登場人物として、受難直前の物語を、それぞれの福音書記者の描いた通りに演じます。

■ OVPP(1人1パート)は、このようなバッハの想定を否定して、「合唱聖歌隊」ナシで、独奏歌手らが、合唱(民衆とコラール)を兼ねます。

■ これにより、静けさ、音色の純粋さ、が得られ、大げさな演奏会や教会のような権威の場とはちがって、聞く人の心に、親密にストレートに訴えるものがあります。

■ OVPPの演奏も実績を重ねてきました。代表的な名盤と個人的に思うものを挙げると、オランダ人のSigiswald Kuijken(ジギスヴァルト・クイケン)率いるLa Petite Bandeか、ベルギーのPhiilippe Herreweghe(フィリペ・ヘルヴェヒェ)率いるCollegium Vocale Gentではないかな。

■ 1940年代生まれの両者は、私が中学の時の70年代にはすでに彼らは活躍中でした。1970年代からもう40年も彼らの演奏を聞いているかも。古楽器のやわらかい演奏で、しかしその解釈はずっと時代の最先端にいると思います。

■ クイケン盤のヨハネ受難曲(2012年盤SACD)とヘルヴェヒェ盤のもの(2020年盤)のうち、今日は、ちょっと尖った演奏の前者を、リヒター亡き後のアルヒーフを支えるガーディナー盤とで、そのほんの1か所だけを比べてみましょう。

■ イマ比べたいヨハネ受難曲のコンテキストを、一部ちょっとさらってみましょう。福音書の和訳は、杉山好の文語訳を、私が一部現代語にして少し読みやすく(?)してあります;


[第一部;裏切りと捕縛;否認 -- ヨハネによる福音18章15節-27節]

(イエスは、弟子ユダの裏切りで、捕縛され、審問を受けるために勾引される。四散し逃走した弟子たちのうち、不安に駆られたペトロが戻り、イエスの後をひそかに追う。これをユダヤ教大祭司邸宅の下女に見咎められる)


下女(soprano) (BWV245-12)

汝もかのイエスの弟子のひとりならずや?


ペトロ(bass)

私は違う。


福音史家(tenor)

下僕らと下役の者ども炭火をおこし(時寒ければなり)

その傍らに立ち暖まりおりしところ、

ペトロもまぎれて入りて暖まりいたり。

ここに大祭司、イエスにその弟子たちとその教えにつきて

問い訊したれば、イエス答えたもう


イエス(bass)

我は公に世に語れり。全てのユダヤ人の相集う会堂と宮とにて

常に教え、密かには何をも語りしことなし。

何ゆえ我に問うか。我が語れることは聞きたる人々に問え!

見よ、彼らは我が言いしことを知るなり。


福音史家(tenor)

かく言いたもうとき、傍らに立つ下役どもの一人、

イエスに平手打ちをくらわせて言う


下役(tenor)

大祭司に向かいて、かかる答えざまのあるべきや?


福音史家(tenor)

イエス答えたもう


イエス(bass)

もし我当を得ざる語り方をなせしなら、その悪しきを訴えて証言せよ。

当を得たりとせば、なにとて我を打つか。


コラール (P・ゲールハルト作;受難節コラール;合唱4声部) (BWV245-15_Vers1;)

たれぞ汝をばかく打ちたるか

はた汝にもろもろの責め苦を

かくもいたく負わせたるか、我が救い主よ?

まことに汝は罪びとにはあらず、

我らと我らが子らのとごくならず、

悪事を知らざるおおけなき身にていますに


■ 聖書の史的記述の進行中に差しはさまれたルター派のコラール、

これを、リヒター盤もガーディナー盤(現在の代表的名盤)も、きっとバッハ自身も、合唱隊(聖歌隊)に歌わせています。

コラールを歌う合唱団の存在は、天の声でもあり、今リアルタイムで教会に集う私たち会衆の内省の声でもあります。


■ が、KuijkenのOVPPの演奏だと、合唱隊が存在せず、ソリスト8名が、合唱隊を兼ねます。ゆえに、このコラールを唱和するその声は、まさに、

福音史家・イエス・大祭司・下女・下役たちの声だ w(・o・)w!

...イエスと、今まさにイエスを平手打ちした下役と、ピラトと、福音史家と...。

その本人たちが、一緒になってルター派のコラールを歌っているという、

この不自然さ...。

■ 責めたり殴ったりした人が、天の声・会衆の声としてコラールを唱和する...

「あなたをぶったのはだれだ? あなたは罪びとではない」と唱和する違和感...。

■ 現代のSACDの音というか、定位感、空気感が、あまりにも良く伝わるために、気づいてしまった違和感...。


■ この違和感は、この演奏の突出した美しさとともに、OVPPが古楽演奏の世界で有力説となって以来ずっと、私の中では、途方もないものに膨れ上がっています。

■ 今は亡きレコード芸術の論評欄でもHMVのコメントも、これに触れたものはなく、もろ手を挙げて絶賛...

なんだけど、みんな、ヘンだと思わないのかなぁ?


■ ソリストはコラールを歌うべきなのか?


■ そう感じてしまうのも、個人的には、現代のマタイ受難曲とヨハネ受難曲の演奏として、安心して身を任せてきたのは、声の質と均一性が吟味されたガーディナー盤(ジョン・エリオット・ガーディナー&イギリスバロックソロイスツ&モンテヴェルディ合唱団; 1986年盤)だからです。

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■ また別の問題ですが、このコラール15番の、ゲールハルトのコラールに関しては、ガーディーナー盤とOVPP諸盤との、個人的に決定的な解釈の違いがあるのですが、それは次の機会に。

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■ ガーディナーの演奏が、驚いたことに you-tubeで2時間半フルで、広告なしの無料で...BBCのプロムス2008(音楽祭)における全曲演奏をBBCがアップしたもので、安心です。感動的な現代の名演だと思います(Youtube動画をウェブログに貼り付けるのは抵抗があるので、興味のある方はお探しを)。