2023/11/17

■ きく - マーラー 交響曲第5番 嬰ハ短調 - シノーポリ/フィルハーモニア管弦楽団


1980年代の、私が気づいたのは半ばくらいから、「マーラーブーム」とほぼ同時に「ブルックナーブーム」。どちらも大学生上がり無職の病人の私が聴いたら、何か、調性が破綻しかけていて、ただでさえ生活がつらいのに、いっそう悲観的になる音楽でした。

 うち、マーラーの交響曲は、1番、4番と、できるだけ平和な曲になじみ、次に2番、3番と、まだ調性になじむ曲を。ここまでは、怖いので、いつでも片足を抜きかけているかのように、FM放送をカセットテープに録音したものを繰り返し聴くのみで、お金はかけないことにしました。で、意を決して次の段階に行こうと思い(おおげさなヤツ...)、聴いたことのない5番について、1986年に、シノーポリのCDをいきなり国内盤で買いました(最も高額な買い方なのでこういう表現です)。というのも、レコード芸術で「特選」盤になっていたからです(軽薄なヤツ...)。

 これは、聴いて後悔。意味が分からない曲でした...。つまり、調性の破綻が顕著な気がしてなじめませんでした。でも、買った以上は、「ひとまず100回」聴きます。

 同じ時期、まだまだ一般には高額だったCDプレーヤー、Denon DCD1000という高級オーディオ機器を49,800円で購入して自分の貧弱なステレオコンポ(テクニクスのコンサイスコンポといいました)に接続しました。6畳一間の貧相な下宿のお部屋に、しかも1年の半分は病院で寝てたりするのに...。しかも定食屋の定食は月1回の贅沢、毎日お米は食べられないので、煮た大豆のみ食べていたというのに...。あろうことか、入院時に病院にこのCDプレーヤーを担いでいったことがあります。大切なので抱いて寝ようかという勢いです。直接ヘッドフォンを挿して聴いていました...。

 初めてのマーラー5番の盤を毎日毎日、4か月ほども、けっきょく100回は聴きました。リズムやデュナーミクの揺れが激しく、すばらしく躍動感がある、のに、音色が繊細で多彩で...。

 もっと聴きたくなり、当時すでに「不動の四番打者」だったショルティ/ロンドン交響楽団(Decca盤)を、中古LPで並行して聴きました。Decca盤のショルティは、音色が強くストレート、金管群がアングロアメリカンな猛烈な咆哮、低弦はゴリゴリと擦弦音があります。ストレートなショルティ盤に比べると、シノーポリ盤は、4管編成に加えて金管2管の巨大編成ではあるのですが、繊細で、何かこもったような抑えたようなためらいがあり、翳のある風情です。でも、ドイツのオーケストラでなくてイギリスの、という点が、音色にそこはなとなく明るい雰囲気があります。シノーポリ盤を今も大切に聴く所以です。

 同年(1986年)に、DENONレーベルから、E・インバル/フランクフルト放送交響楽団(F.R.S.O)でマーラー交響曲全集が出(録音エンジニア;川口、P・ヴィルモース)、FM放送をヘッドフォンで病院で寝ながら聴きましたが、異様に音が透明で見通しが良く、マーラーの交響曲に対してもっていたマッシブな息苦しさが、すっきり払われていた気がしました。病床に伏していたから感覚が冴えていたのかもしれません。

 翌1987年に、このインバル/F.R.S.Oが、来日演奏。バブル経済を上りつつある東京の雰囲気と相俟って熱狂的な歓迎だったようですが、東京文化会館と自転車距離に住んでいた自分が演奏会に行ける境遇なワケがないし、ふぅんと思っただけではありました。

 病院の「談話室」のテレビでその演奏会の模様をチラリと見たのですが、もちろん音質の問題もあって、ただのニュースであり、何の感動もありません。一人でCD聴いてた方がいいな、と思いました。でも、「CDなどのメディアは、再生機器や録音機器に色づけられた造られた音」という説、「ナマ演奏にはかなうわけないだろ!」という主張も、当然もっともです。でも比較の対象になるのかなと疑問でした。

 その年、顔しか知らなかった大学の友人から、「都響定演(東京都交響楽団の定期演奏会)のチケットが余っちまったんだけど、買わない? 500円で。君なら買うかもと友達に聞いたので。」と言われ、演奏曲目を聞いたら、マーラー5番。「か、買う。買わせていただきます。」つまり、演奏会に行けるものなら行きたかった自分が、他の全ての自分を押しのけて出てきました。

 都響のホームグラウンドは東京文化会館大ホールです。その晩、着席したのは大ホール3階の最も安い席。周りに着席している人はほとんどおらず、オーケストラがはるか下方に小さく人形芝居みたいに見えます。こんな遠くて聞こえるのかよ、と思ったのですが、はるか遠くの管も弦も、いや、トライアングルもシンバルも、私をすぐ取り巻いて耳元で囁くようにシャープで、高音から低音までのダイナミックレンジは広大です(ナマだから当たり前か)。F.R.S.Oでなくても、大学の、いや中学高校のオーケストラであっても、マーラーは生の管弦楽団(の安い場末の人跡稀なエリアの座席?)に限るじゃないか...。真っ暗な帰り道、ひんやりする上野公園を、チャリで、動物園の虎の声を聞きながら(たぶんそりゃ気のせい)坂を下りて池之端から暗闇坂を上がり...その間ずっと、内臓が抜け落ちるようなコントラバスの音が、興奮したからだじゅうに残っていました。

 「演奏会に行く行為」には、当時の歪んで卑屈になっていた自分にとっては、往復の手間・時間・金銭・猥雑な視覚情報・スノビズム・周りの客の息遣い・咳・くしゃみ・話し声・撮影・筆記・拍手など、嫌悪感がありました。今でもずっとあります。小さな部屋にいても小さな音のクラヴィコード1台やリュート1本、またグレゴリアンから指輪四部作の演奏規模に至るまで、真っ暗にしてヘッドフォンで目を瞑ってCDを聴く方が、音楽の純粋性、一歩進んでDämonenhaftigkeitやDionysischkeit(かってな造語です)が保てるではないか、などと歪んだ刷り込みが定着してしまいました。3/22に言った無前提で音楽を聴くとはこんなことに違いないと思い込んでいるところです。この問題については、自分で納得がいくまで、しかしもしかして死ぬまで、葛藤しそうです。