■ あいかわらず、夏目漱石・寺田寅彦を味読中です。
■ "美しい音楽"の代表例がベートーヴェンですか。他方、"俗悪な音楽"の代表例がジャズ、という概念ペアを感じます。(カッコは私が付しました。)
夏目漱石『吾輩ハ猫デアル』 (明治39年;完結)
吾輩は主人と違って、元来が早起の方だから、この時すでに空腹になって参った。とうていうちのものさえ
膳 に向わぬさきから、猫の身分をもって朝めしに有りつける訳のものではないが、そこが猫の浅ましさで、もしや煙の立った汁の香 が鮑貝 の中から、うまそうに立ち上っておりはすまいかと思うと、じっとしていられなくなった。...(中略)...御三(おさん;女中) はすでに炊 き立 の飯を、御櫃(おひつ) に移して、今や七輪 にかけた鍋 の中をかきまぜつつある。...(中略)...吾輩はにゃあにゃあと甘えるごとく、訴うるがごとく、あるいはまた怨 ずるがごとく泣いて見た。御三はいっこう顧みる景色 がない。...(中略)...ひもじい時の神頼み、貧のぬすみに恋のふみと云うくらいだから、たいていの事ならやる気になる。にゃごおうにゃごおうと三度目には、注意を喚起するためにことさらに複雑なる泣き方をして見た。自分ではベトヴェンのシンフォニーにも劣らざる美妙の音 と確信しているのだが御三には何等の影響も生じないようだ。
■ ベートーヴェンのどの交響曲のどの箇所のことなんでしょうね、"美妙の
寺田寅彦『線香花火』(昭和2年)
夏の夜に小庭の縁台で子供らのもてあそぶ線香花火にはおとなの自分にも強い誘惑を感じる。これによって自分の子供の時代の夢がよみがえって来る。今はこの世にない親しかった人々の記憶がよび返される。
はじめ先端に点火されてただかすかにくすぶっている間の沈黙が、これを見守る人々の心をまさにきたるべき現象の期待によって緊張させるにちょうど適当な時間だけ継続する。次には火薬の燃焼がはじまって小さな炎が牡丹ぼたんの花弁のように放出され...(中略)...十分な変化をもって火花の音楽が進行する。この音楽のテンポはだんだんに早くなり、密度は増加し、同時に一つ一つの火花は短くなり、火の矢の先端は力弱くたれ曲がる。もはや爆裂するだけの勢力のない火弾が、空気の抵抗のためにその速度を失って、重力のために放物線を描いてたれ落ちるのである。荘重なラルゴで始まったのが、アンダンテ、アレグロを経て、プレスティシモになったと思うと、急激なデクレスセンドで、哀れにさびしいフィナーレに移って行く。...(中略)...あらゆる火花のエネルギーを吐き尽くした火球は、もろく力なくポトリと落ちる、そしてこの火花のソナタの一曲が終わるのである。あとに残されるものは淡くはかない夏の宵闇(よいやみ)である。私はなんとなくチャイコフスキーのパセティクシンフォニーを思い出す。
実際この線香花火の一本の燃え方には、「序破急」があり「起承転結」があり、詩があり音楽がある。
ところが近代になってはやり出した電気花火とかなんとか花火とか称するものはどうであろう。なるほどアルミニウムだかマグネシウムだかの閃光は光度において大きく、ストロンチウムだかリチウムだかの炎の色は美しいかもしれないが、始めからおしまいまでただぼうぼうと無作法に燃えるばかりで、タクトもなければリズムもない。それでまたあの燃え終わりのきたなさ、曲のなさはどうであろう。線香花火がベートーヴェンのソナタであれば、これはじゃかじゃかのジャズ音楽である。これも日本固有文化の精粋がアメリカの香のする近代文化に押しのけられて行く世相の一つであるとも言いたくなるくらいのものである。
■ 寺田には、生涯を通じて"線香花火"に対する強い思い入れがあります。いくつかの随筆を通じて、また、師事した中谷宇吉郎の記録を拝読しても、そう感じます。ここでは、線香花火が、チャイコフスキーの"悲愴"交響曲を思い出すと言いつつ、すぐ、"線香花火がベートーヴェンのソナタであれば"と例えています。線香花火の美しさに音楽を連想しているようすです。
■ が、他方で、ただ刺激だけで成り立つようなそれ以外の流行りの花火を批判して、"じゃかじゃかのジャズ音楽"とは...。
■ 寺田の時代1920年代は、ジャズといえば、20年代黄金時代のアメリカを象徴するような、楽天的で夢いっぱいの人生観を体現するディキシーランドに次いで巨大編成のビッグバンドが流行し、再生装置としては、明治中盤から戦前までの長きに渡り、「蓄音機」が普及していた頃でしょうか。
■ あらゆる人にウケるわけではなく、蓄音機の音質で響く華やかなビッグバンドのスウィングに眉をひそめる人たちも世界にはいたということですね。
■ バップ時代を経たマイルス・デイヴィスやビル・エヴァンスのモード・ジャズという思索に耽るような第2の黄金時代、同時進行的にハイ・フィデリティなステレオLPが普及する60年代までは遠いです。
■ 現在、学校授業での一つ覚えみたいにベートーヴェンの5番(Sym)の1楽章だけ聴いたり、俗物渦巻くオシャレな"演奏会"で、現代の巨大編成のオーケストラによる3番ばっかり演奏されたりするのを聴くのもそれなりに華やかでよいものなのかもしれないですが、類似の定番ながら、自宅でひとりでビル・エヴァンスの"Walz for ...", "Danny ..."に耳を傾けるのも、"じゃかじゃかのクラシック音楽に対して淡くはかないジャズ音楽"の対比となるようで、なかなか善いですよ、と、つぶやいてしまいます。
