■ 変な見出しですみません。実は自分が小学生だった時以来ずっと、"教科書"に対して持ち続けるこころの不満...半世紀以上も腹ふくるる思いです...。
■ その1は、『教科書の挿絵って、どう思いますか。あった方がいい? なくていい?』 (って、"その2"以降もあるのか(;^^!?)
■ 「美しい絵・上手な絵なら、あっても良い」という中間論もありそうですが、美しくて上手という伝統的評判が定着したような著名な画家の挿絵ならいいってわけにもいかないのでは...。
■ 美しくないけど上手かもしれないし、美しいけど児童生徒の目からして"上手"か判別不可能かもしれません。童話『カチカチ山』の挿絵に、"即興"時代のカンディンスキーや"プロトキュビズム"後のピカソが挿絵として添えられていたら...。
■ 翻って、たとえば李白『月下独酌』の白文を、5回目50回目に、別な装丁や好き勝手な挿絵が施されたものを手に取り、それも見ながら自由に読み下すのは、それなりに気軽な楽しさがありそうです。そこにシュルレアリスム期のクレーの挿絵があろうと、青の時代のピカソの挿絵があろうと(著作権の話は置くとして)。
■ でも、13歳中1が、生まれて初めて芥川『羅生門』のすさまじい世界に触れるとしたら...。
■ ひとりで、静かに、文字を読み進み、考え、想像し、さらに読み進もうよ。
■ バカげた挿絵で、若い想像力は一気にごく偏狭な制約を受け、作品そのものなんてめちゃくちゃにされそうです。
■ 初めてその作品を読む13歳にとって、13歳の読解力で読み進む日本語の文よりもはるかに高速にいきなり目に飛び込み脳を刺激するイラストの方が、訴えかけ支配する力が強いのでは?
■ 芥川よりもイラストレーターの方がずっと大きな存在です。
■ 本を読むのは、本質的に孤独で抽象的な要素があります。だからこそ、自分の脳という、真っ白い広い紙の上で、想像力を大きく広げ、自由に描けるのでは。
■ ら、その場、自分と著者の間に、いきなり割って入ってくる無関係な猥雑なイメージ...。
■ 著作者の予定しなかった後づけのイメージがべったりと貼り付けられるのは、"編集者"という知的な点では短絡的な暴君が、"親しみやすいだろう", "わかりやすいだろう", "ウケるだろう", すなわち"売れるだろう"という異次元の要因を混入させるからではないかなと思います。
■ 検定教科書も、どれも同じようなレイアウト...。
■ 現代の書籍というコモディティは売って儲けるためにある手段にすぎないのですから、それで良いのですが、せめて教科書では...、"禁止にせよ"とは思わないのですが、まったくイラストのない検定候補品もあってよさそうなんですが...。さすがにナシにできないか。調達権限のある教育委員会のメンツが採用してくれない、つまり"売れない"ですよね。
■ 岩波や新潮の文庫本を開くのは好きですが、イラストが無い点もその理由の一つかもしれないです。