2023/11/21

■ まなぶ - 鉛筆を使って - 英単語集の例文を書く-21日目

※ 左 Hi-Uni-2B (7/21)  -  右 Hi-Uni-10B (11/21)

11/1から始めた「英単語を書く」の最終日。2001-2100の例文を書き終えました。

 使った鉛筆は、三菱鉛筆 ハイユニ Hi-Uni - 10B の6本。今日11/21で、2100の単語に添えられた2100の例文33,241語のうち、半分を書きました。残り半分の例文は、万年筆です。

 7月に同じ試みを、Hi Uni - 2Bの鉛筆を使って実施しました。あの時は、2100の例文全てを、2Bの鉛筆で書きました。(7/21)

 7月は、21日間で、2100文を、11月は、21日間で、半分の1050文を書き、その減り具合を、上の画像で見比べると...ほとんど同じです!左右とも、白いバーコード表示の箇所が消えかけているくらいの使用度でしょうか。

 ということは、10Bの鉛筆ハイユニは、2Bの鉛筆ハイユニに比べて、減りの速度はほぼピタリと2倍だということですね。

 10Bで開始する前は、もっと減りが激しいと予想していました。鉛筆って、やはり長持ちです。なお、私の筆圧は僅少です。書き進む際のハイユニ10Bの感想・インプレ・レビュー(?)に類したことは、11/8に書いた通りです。

 今日までに気づいたことですが、毎日、のべ10本を削ってきた画像右端にあるステッドラーのポケットシャープナー(鉛筆削り)について、2点。

■ 1) 最初は、全部ポケットシャープナーだけで削るのはたいへんな作業だと思ったのですが、コツがあるようです。しかも、一定量を書いたら削る(たとえば「5文書いたら削る」)と決めていれば、減りは一定ですから、シャープナーで何回転させるか記憶できますので、効率よくシャっと一瞬で尖らせることができるようになりました。ヒトに見せたら軽い驚きを惹起する曲芸かもしれないです。こんなワザを会得するとは...。

■  2) 切れ味の減衰が顕著です。ポケットシャープナーという存在は、9/21に書いた通り、研ぎつつ使い続けなくてはならない製品なのだと、認識を新たにしました。近々また分解して研いでみます。

2023/11/20

■ まなぶ - かぼちゃの計算? - 1


※ 圧力鍋を開けたら湯気でレンズがくもりました

かぼちゃが旬のピークでしょうか。甘くてほくほくと食感がよくて、お菓子も果物も全く食べないので(主義主張ではなく単なる経済的な問題です)、おやつには、もっぱら、かぼちゃ、さつまいも、にんじん(!?)を楽しみにしています。明治大正昭和の子どもみたいです。砂糖・醤油・塩・バター・クリームなどといった調味料はいっさい使わずに、一口サイズに切ったら圧力鍋で加圧(蒸し)調理するのみです。

 いなか住まいではありますが、農家ではないので、すべてスーパーマーケットで購入しています。

 輸入物も含めれば1年中出回っているのですが、昨年後半から今年の秋の国産の出盛り期まで、私の行くスーパーの場合、平年の小売単価100g30円程度→今年前半100g100円程度と、平年比3倍高程度の過去にない暴騰でした。この秋に回復してありがたいです。

 ならば細かいこと言わずにおいしく味わっていればよいのですが、下の画像のように、1個の4ツ切り売りと、画像左のように種やワタをとってブロック型に切ってすぐ使えるようパック詰めしたものを見ると、ついその単価の差の持つ意味を、自分なりに計算したくなります。


 画像右は、手前が「くりりん」100g単価48円(48@)、右奥が「くりゆたか」単価38円(38@)で、糖度や味や食感の違いです。画像左は、種やワタを除去して切ってパック詰めした「ブロック」単価58円(58@)で、おそらく48@と38@の混合ですが真実はわかりません。

 同じかぼちゃなのに、売り手側でひと手間かけて、消費者がすぐ調理に使えるので、単価が10円か20円高くなったということですね。順当な販売戦略です。

 で、どっちを買いますか? 

 考える基準1). 安いので38@を100g買うとする。自宅で包丁を入れて、種とワタを廃棄し、ブロックに切るとする。この場合の廃棄する部分もいっしょにお金を出して買ったことになります。逆にブロックの方は、廃棄する部分がなく、出したお金はすべて食べられる部分です。どちらがお得感がありそうですか。

 廃棄する部分はどのくらいの割合なのでしょうか。かぼちゃ1コまるごとに対して、食べられる部分(可食部)と、食べずに捨てる種やワタの部分(廃棄部)の比を知りたいです。まるごとに対する廃棄部の割合を、いま仮に「廃棄率」と呼びます。

 かぼちゃにも、さまざまな品種があり、また同じ品種であっても、廃棄率は違うでしょう。さらに、「種も別に乾燥して食えるじゃないか」という強者もいれば、「煮物用には少しワタが残った方が良い」という考えもあるでしょう。ただ、私の場合は、可食部の全量を、圧力鍋で加圧したのみで、あとはいっさいの調理や味付けもなくそのまま食べますので、種もワタもなるべくきれいに除去します。このやり方で、自分で納得のいく平均を簡単に措定してみることにします。

下の画像は、糖度の高い「栗マロン」の丸1個と、これをなるべく徹底的にきれいに捌いて可食部のみにしたもの。


■ 質量は、丸1個1357g:可食部1121gですので、廃棄部分はその差の236g。廃棄率は17%です。

 画像には無いのですが、同様にして、外皮が白くて糖度の高い品種「雪化粧」を丸1個で計量しましたら、1702g:1283gですので、廃棄率は25%です。

 廃棄率を一般化するには、膨大な個数のかぼちゃを捌けばよいのですが、いま仮にこの2個の平均値21%、おおよそ「廃棄率は20%」をもって、自分の環境で実用的な値とします。

 かぼちゃ1個をまるっと買って、うち2割は捨てるってことだったんですね。

2023/11/19

■ なおす - 砥石を砥ぐ

 修正砥石(上)で凹面に摩耗した砥石(下)を研磨中

「刃を砥ぐ」のではなくて、「砥石を砥ぐ」ことにします。

 砥石は、使っているうちに、表面が摩耗して凹面形状になっていきます。少しでもそうなっちゃったら、刃がまともに砥げないか、砥ぐ効率が顕著に落ちます。たまにフラットに修正しなくては。

 方法としては、コンクリートやアスファルトになすりつけるのが一番手近な解決法ですが、妙な体勢で力をかけるので、うまく平面にならなかったりうっかり割ったりします。すべての世帯で包丁は使っているでしょう。みんなどうしているのかなぁと、いつも思います。

 春に実家整理をした際に、砥石が7,8個出てきました。ほとんどが、ホコリ・カビ・蜘蛛の巣・土だらけで、もう使えないような、割れたり小判型な、小さい石コロになっちゃったりしていました。

 でも、本来、砥石は貴重で高価なものです。わが家でも代々捨てていなかったのではないかと思われます。もしかしたらこの7,8個は先祖代々の石かもしれず、丸くて小さいものが祖先の誰かが使ってきた天然砥石かもしれません。日本の伝統技能である刃物 ー 刀剣甲冑から包丁、果ては津軽塗や輪島塗にいたるまで、地元に純良な砥石があってこそ花開いた文化なはず...など、ゴミみたいなわが家の砥石から、話がエラい大風呂敷になりました。とはいえ、私の技術では天然砥石も小さい砥石も使いこなせません。といって全部まとめて捨てるには忍びないので、ひとまず、うち3本ほどかろうじて直方体らしき形状を維持したものを、拾い上げておいたのでした。

 研ぐ人により、湾曲のしかたには特徴があります。3本のうち、もっとも古く角が面取りされてまってしまっているような個体は、砥ぐ際に気を遣っていたようで、弧のRが大きく均等に湾曲しています。父が使ったものだと思います。比較的新しい2本(といってもカビ・土だらけですが)は、正面正中に縦長に置いたとしてその右辺奥側が、放物線頂点のような凹面弧の急な落ち込みが、不規則に、しかも両面にあります。母だと思います(下の画像)。本来は私が砥いであげるべきでしょう。へぇオマエならウマイのか? というのは置いといて、...心にちくりとささる棘となりました。


 上の画像は、砥ぐ前の湾曲しているようす。砥石面に曲尺を当て(最も手前と最も奥はピタリと接触しています)、画面左からLEDライトの光を照射しています。もしも平面ならば、画像の中央部から(縦の筋状の)光は漏れないはず。盛大に湾曲しています。

 画像右に見える「修正砥石」を使って、1時間弱かけて、砥石の両面を砥ぎ出しました。下の画像。すこしマシになりました。


■ あと2本、もっとやっかいなのが...ということはあと2時間以上...。き、今日はここまでにします(;--A

2023/11/18

■ なおす - 低所得世帯向け給付金


低所得世帯に「物価高騰重点支援給付金」1万円が市から支給されるとの通知。春の「物価高騰対策...」に続いて今年2回目です。


2023/11/17

■ きく - マーラー 交響曲第5番 嬰ハ短調 - シノーポリ/フィルハーモニア管弦楽団


1980年代の、私が気づいたのは半ばくらいから、「マーラーブーム」とほぼ同時に「ブルックナーブーム」。どちらも大学生上がり無職の病人の私が聴いたら、何か、調性が破綻しかけていて、ただでさえ生活がつらいのに、いっそう悲観的になる音楽でした。

 うち、マーラーの交響曲は、1番、4番と、できるだけ平和な曲になじみ、次に2番、3番と、まだ調性になじむ曲を。ここまでは、怖いので、いつでも片足を抜きかけているかのように、FM放送をカセットテープに録音したものを繰り返し聴くのみで、お金はかけないことにしました。で、意を決して次の段階に行こうと思い(おおげさなヤツ...)、聴いたことのない5番について、1986年に、シノーポリのCDをいきなり国内盤で買いました(最も高額な買い方なのでこういう表現です)。というのも、レコード芸術で「特選」盤になっていたからです(軽薄なヤツ...)。

 これは、聴いて後悔。意味が分からない曲でした...。つまり、調性の破綻が顕著な気がしてなじめませんでした。でも、買った以上は、「ひとまず100回」聴きます。

 同じ時期、まだまだ一般には高額だったCDプレーヤー、Denon DCD1000という高級オーディオ機器を49,800円で購入して自分の貧弱なステレオコンポ(テクニクスのコンサイスコンポといいました)に接続しました。6畳一間の貧相な下宿のお部屋に、しかも1年の半分は病院で寝てたりするのに...。しかも定食屋の定食は月1回の贅沢、毎日お米は食べられないので、煮た大豆のみ食べていたというのに...。あろうことか、入院時に病院にこのCDプレーヤーを担いでいったことがあります。大切なので抱いて寝ようかという勢いです。直接ヘッドフォンを挿して聴いていました...。

 初めてのマーラー5番の盤を毎日毎日、4か月ほども、けっきょく100回は聴きました。リズムやデュナーミクの揺れが激しく、すばらしく躍動感がある、のに、音色が繊細で多彩で...。

 もっと聴きたくなり、当時すでに「不動の四番打者」だったショルティ/ロンドン交響楽団(Decca盤)を、中古LPで並行して聴きました。Decca盤のショルティは、音色が強くストレート、金管群がアングロアメリカンな猛烈な咆哮、低弦はゴリゴリと擦弦音があります。ストレートなショルティ盤に比べると、シノーポリ盤は、4管編成に加えて金管2管の巨大編成ではあるのですが、繊細で、何かこもったような抑えたようなためらいがあり、翳のある風情です。でも、ドイツのオーケストラでなくてイギリスの、という点が、音色にそこはなとなく明るい雰囲気があります。シノーポリ盤を今も大切に聴く所以です。

 同年(1986年)に、DENONレーベルから、E・インバル/フランクフルト放送交響楽団(F.R.S.O)でマーラー交響曲全集が出(録音エンジニア;川口、P・ヴィルモース)、FM放送をヘッドフォンで病院で寝ながら聴きましたが、異様に音が透明で見通しが良く、マーラーの交響曲に対してもっていたマッシブな息苦しさが、すっきり払われていた気がしました。病床に伏していたから感覚が冴えていたのかもしれません。

 翌1987年に、このインバル/F.R.S.Oが、来日演奏。バブル経済を上りつつある東京の雰囲気と相俟って熱狂的な歓迎だったようですが、東京文化会館と自転車距離に住んでいた自分が演奏会に行ける境遇なワケがないし、ふぅんと思っただけではありました。

 病院の「談話室」のテレビでその演奏会の模様をチラリと見たのですが、もちろん音質の問題もあって、ただのニュースであり、何の感動もありません。一人でCD聴いてた方がいいな、と思いました。でも、「CDなどのメディアは、再生機器や録音機器に色づけられた造られた音」という説、「ナマ演奏にはかなうわけないだろ!」という主張も、当然もっともです。でも比較の対象になるのかなと疑問でした。

 その年、顔しか知らなかった大学の友人から、「都響定演(東京都交響楽団の定期演奏会)のチケットが余っちまったんだけど、買わない? 500円で。君なら買うかもと友達に聞いたので。」と言われ、演奏曲目を聞いたら、マーラー5番。「か、買う。買わせていただきます。」つまり、演奏会に行けるものなら行きたかった自分が、他の全ての自分を押しのけて出てきました。

 都響のホームグラウンドは東京文化会館大ホールです。その晩、着席したのは大ホール3階の最も安い席。周りに着席している人はほとんどおらず、オーケストラがはるか下方に小さく人形芝居みたいに見えます。こんな遠くて聞こえるのかよ、と思ったのですが、はるか遠くの管も弦も、いや、トライアングルもシンバルも、私をすぐ取り巻いて耳元で囁くようにシャープで、高音から低音までのダイナミックレンジは広大です(ナマだから当たり前か)。F.R.S.Oでなくても、大学の、いや中学高校のオーケストラであっても、マーラーは生の管弦楽団(の安い場末の人跡稀なエリアの座席?)に限るじゃないか...。真っ暗な帰り道、ひんやりする上野公園を、チャリで、動物園の虎の声を聞きながら(たぶんそりゃ気のせい)坂を下りて池之端から暗闇坂を上がり...その間ずっと、内臓が抜け落ちるようなコントラバスの音が、興奮したからだじゅうに残っていました。

 「演奏会に行く行為」には、当時の歪んで卑屈になっていた自分にとっては、往復の手間・時間・金銭・猥雑な視覚情報・スノビズム・歓声・周りの客の息遣い・咳・くしゃみ・話し声・撮影・筆記・拍手など、嫌悪感がありました。今でもずっとあります。小さな部屋にいても小さな音のクラヴィコード1台やリュート1本、またグレゴリアンから指輪四部作の演奏規模に至るまで、真っ暗にしてヘッドフォンで目を瞑ってCDを聴く方が、音楽の純粋性、一歩進んでDämonenhaftigkeitやDionysischkeit(かってな造語です)が保てるではないか、などと歪んだ刷り込みが定着してしまいました。🔗3/22に言った"無前提で音楽を聴く"とはこんなことに違いないと思い込んでいるところです。この問題については、自分で納得がいくまで、しかしもしかして死ぬまで、葛藤しそうです。