大川白神橋
津軽ダム上流: 2号水質保全ダム
■ ■ 西目屋村の白神山地ブナ原生林の散策路は、実は昨日初めてあるきました。
■ ■ マタギの里だった西目屋村は、昭和とそれ以前の弘前の町の古い家に育った人・老人がいた家族なら、"行ってはならない集落"という、漠然と暗い印象があると思います。
■ ■ 理由は不明でした。追及してはならないタブーのような印象を持っています。
■ ■ 同様に、やはり弘前の街場の人間には、"収穫前のりんご農家やりんご畑に近づかない"という、町人の倫理というか街場の暗黙の掟もありました。この理由は(ref.→🔗10/24)子どもでもわかるので、納得していましたし、街の人間でも、昭和の頃ではもう親族に農家は多いので、"マタギの村"に対するタブーほど、そう暗く厳しい感じはないです。
■ ■ かの地が世界遺産に指定され、多くの観光客を呼び寄せる政策を取るようになった現在でも、気持ちにちょっとひっかかりがありました。
■ ■ インターネットの時代になってその根拠をクッキリと理解した気がします。抽象論として要約すると2点でしょうか。
1) 村に独自の山岳信仰と、特有のルールと言語があり、町人文化の価値観をもって安易に"遊び・行楽・ドライブ・レジャー"目的で入り込むと、反感の目で見られる。2) 藩政時代以来の秘密主義。猟場の秘密、津軽弘前藩と秋田佐竹藩との山岳国境線をめぐる争い。
■ ■ 集落は、交易路の通過点の集落とはちがって、"地の果て"で、"よそ者"が無用に入ってくる余地はなく、警戒し排除する印象です。
■ ■ 具体的には、藩政時代、西目屋のマタギは弘前藩から「御用マタギ」としての特権任務にあたっていたとのことで:
i) 質量単価が純金と等しかったクマの胆嚢「熊の胆(くまのい)」を藩に上納
ii) 白神山地を越え、佐竹藩からの猟場の侵略(クマと杉材等の山の幸)、兵侵攻や民間人密入国、または藩内からの逃亡者を監視する国境警備
■ ■ 町の人間は安易に出入りしてはならないのですが、逆に、集落側の人間は、町では歓迎されたようです:
■ ■ 藩政期、貨幣経済の浸透に伴い、山で採れた熊の毛皮、山菜、薪、炭を背負って弘前の城下町まで行商に来たことは容易に想像できます。
■ ■ その中心的役割を担ったのは、集落の女性たちだと知ったのは、つい数年前です。
■ ■ 若い娘たちが、炭2俵(30kg)を背負って4里前後(16km)をあるいて、弘前の街中まで行商に来たそうです。藩政時代から1960年代まで!
■ ■ 津軽ダム(トップ画像)で水没したマタギ集落群から弘前中心部の市役所まで22km,,,。昨日驚いたのは、トップ画像のような、高速道路みたいなありえない立派な道でした。炭を担いであるいたはずのこの道は、昭和の末まで、クルマのすれ違いも恐恐とした不安定な砂利道だったはず...。
■ ■ "炭俵2俵"は、尺貫法の度量衡では4貫目☓2で30kg。現代で、たとえば米が消費者に売られる最大単位は"半俵=30kg"ですが、あの紙袋を持ち上げるだけで2人に1人はぎっくり腰になりそうです。
■ ■ この娘たちの姿を写した"目屋人形"は、青森県の"伝統的工芸品"だそうです。
■ ■ リクツでは長年の禁忌が氷解したとしても、実は、昨日はクルマで、弘前郊外の"悪戸"を過ぎると「もう弘前の町ではなく、村落の入口」、"湯口"のアップルロード交差点を過ぎると"弘前はここで終わり"、"国吉"に入ると、「タブーを破って踏み込んでしまった」気がして、けっこう緊張してどきどきし出しました。
■ ■ 昨年6月に、友人に、「西目屋村の炭焼きコーヒー」をごちそうになりました。
■ ■ "西目屋村の", "炭焼き..."ですって...? ちょっとドッキリしました。が、その背景をひとり心の中で思い出しながら、格別の濃い味わいをじっくり噛み締めたことは、記憶に新しいです。


