2025/12/20

■ あるく ■ 河川敷のりんご畑


暖かいおだやかな南風。南風が吹くことは、津軽地方にはほとんどありません、特に冬は毎日強く冷たい西風に決まっているのですが。いま気温14℃。12月下旬とは思えない生暖かさです。あるこうとして外に出て、気温に驚いて、薄着に着替えました。


 ひと気のないりんご畑の道をゆきます。冬枯れのはずの静まり返ったりんご畑が、おだやかな表情に映ります。


 かろやかです。なんだか狐につままれたような。


 雪が一度積もったのがすっかり融けて、一年草などは押しつぶされ、視界が開け、妙にすがすがしいです。いま季節がいつなのか、わからなくなりそうです。


 予報では残り10日ほどの年内は積雪の気配はなさそうです。軽装であるくことができると思うと、気持ちも軽いです。

2025/12/19

■ まなぶ ■ 理解できなかった『忠臣蔵』-4 -理解できそうに...

井沢元彦『逆説の日本史』
14 近世爛熟編

この30年間で飛躍的に進歩した日本史研究。50歳台より上の方が学校で習った'かつての日本', '知っていたハズの日本'とは、まるで異なる背景をもった'日本'に、実は生きてきたのですよ。70代80代90代の人は、あのときの知識が更新されないままであれば、過去に幻想を抱いたまま消えゆく世代かもしれませんが、この情報化時代を活用してまだまだ新しいいきいきとした世界がこれから開けると思います。

 20年以上前なら単行本で高額だった井沢元彦の『逆説の日本史』。"日本の歴史を創るのは「言霊、和、怨霊、穢れ」への無意識の信仰"という基調に惹かれ、読むともなく手に取ってきましたが、 2010年代に文庫本化され、けっきょく今日まで全26巻を手元に置いて読んでいます。未だ完結していないのですが、もはや中公文庫-堀米庸三他『世界の歴史』16巻、井上光貞他『日本の歴史』全26巻など、大学生の頃に古本屋で揃えて読んだ大著に匹敵する巻数となっています。

 芝居『忠臣蔵』に対する個人的な違和感をスッパリと解消したのが、井上の14巻-『近世爛熟編』でした。

 吉良による浅野への嫌がらせの複数の論拠が浅薄なことを始め、襲撃現場の詳細など、芝居やドラマで日本人が常識だと思っている『忠臣蔵』のデタラメな(つまり史実と異なる)ディテールを、一つ一つていねいに論証で覆しています。

 「だからどうぞお読みください。終わり」でいいんですが、要点を書き出すと;

 そもそも芝居『忠臣蔵』を、史実たる『赤穂事件』の再現だとする点が、多くの日本人の根本的な誤り。芝居は、事件から着想を得て庶民にウケるよう複数作家の手で改訂に改訂を重ねたまったくの創作。だから、"『忠臣蔵』は史実と異なるデタラメ"などと言っても無意味です。...この時点で、私は、自分の長年の勘違いを、膝を打って納得しました。別なんですよ。そういう発想をまずしなくては。

 芝居の襲撃場面と、歴史的資料に基づく襲撃場面は異なる。いかなる一次史料にあたっても、朝廷からの勅使到着、それも"ご予定より早いご来城"の情報を得て、江戸城内における準備の慌ただしさはピークのはずで、芝居のような、吉良による浅野への直前のあのねっとりした挑発という目撃証言は存在しない。

 しかも実は、この度の朝廷勅使接待は、恒例のもの以上の重大さがあった。綱吉が、朝廷に対し、母桂昌院に、女性では史上前例のない、"従一位 (摂政関白クラス)"を拝命しようとかねてより重ねて大運動展開中のところ、その正式な会見となるはずのものだった。この'プロジェクト'に際して、総責任者たる吉良が、部下に嫌がらせをしたり恥をかかせたりして、勅使接待を失敗に終わらせる意図など介在の余地はないはず。

 襲撃の模様も異なる。浅野(33歳)は吉良(60歳)を、突然背後から肩口に切りつけ、驚いて振り返ったところ顔面正中から切り、逃げようとした背後からさらに2度切った。その時点で梶川に羽交い締めにされて制止された。

 浅野は大名=藩主であり、幼少時より武芸の訓練を得た壮年。一方、吉良は旗本として大小を挿すことも慣れないような本丸出仕の中央官庁の官吏であり、老人である。浅野は背後から、殺意を持って老人を襲うという、殺人方法としては圧倒的に優位だったにもかかわらず、また、武士の戦い方としてはありえないほど卑劣だったのだが、4度も斬りつけたのに、絶命させることができなかった。

 殿中では小刀のみ帯刀を許されていたが、小刃の用い方は、『斬る』のではなく『突く』というのは武芸の基本である。また、城内の接待役たちは皆、勅使接待の場における正式装束の"大紋"着用、と同時にとうぜん風折烏帽子を着用していたが、これは型崩れ防止のために頭まわりの全周に鉄輪が用いられ、額を斬りつけても小刀で斬ることは当初より不可能である。

 この点は、事件当時の江戸市中の川柳でも揶揄され("初手を斬り 二手を突かぬ不覚さよ...")、明治期の乃木希典ですら、「斬るのではなく刺すのだ」と、襲撃手法の不可解さを露わにしている。

 その勅使到着の本当に数時間前の殿中での抜刀と刃傷事件で、赤穂藩の末路は明らかであるにも関わらず、藩主でありながら見境もなく行為に及んだ。

 判断力が欠落し、武道に劣り、人格的に卑劣...。

 綱吉が激怒して、みずから「浅野は即日切腹」を言い渡したのも当然すぎる結論だ。

 ついでながら、私にも、その判決"切腹"は、綱吉ならではの政治的温情、いや、武家政権のコペルニクス的転回にも近い発想だと思えてきます。

 井沢によると、平安貴族に代わって、暴力を政治力とする鎌倉武士団台頭以降の武断政治であれば、このような場面では、"切腹"でなく"打首"です。綱吉こそ、一連の社会保障政策である"生類憐れみ関連諸法"(🔗9/18)と"服忌令(ぶっきりょう)"で、暴力でも宗教でもなく、政治力によって統治体制を変えた、明治維新にも匹敵する支配体制の転換を遂げた将軍、という捉え方がなされています。

 さて、そもそも最大の疑問、「なぜ浅野は、見境もなく殿中にて襲ったのか」については、奇想天外な結論です。

 井沢は、歴史学者大石慎三郎、精神医学者中野静雄、大石神社社務所宮司飯尾精などのプライオリティを断りつつこれを引用して、"浅野は統合失調症(かつての'精神分裂病')もしくはその周辺の精神障害を持病としていた"、当時の表現で"癪を持病とし", "毎日薬持参で登城"という記録や結論です。

 あの刃傷の場で、いきなり猛り狂った'乱心'は、当時の一次資料にもあるようです。井沢はさらに歴史学者松嶋栄一による、刃傷事件の決裁の場を引用しています。綱吉が集めた5人の老中のうち3人は、浅野の'乱心'、つまり発作によるもので、今日の刑法・刑事訴訟法上の"責任無能力(心神喪失)状態"と見受けられるとして、綱吉に、最終的な処分の猶予を願ったとのことです。日頃の異常行動が周囲に知られていたのかもしれないですね。が、怒りの綱吉は座を立ち、奥にて、月番老中の土屋を呼んで、浅野の切腹を命じたとのいきさつがあります。

 この本で、いわば初めて、浅野という人物像の概要を少し詳しく知った気がして、また、長年のもやもやが意外にも収束した自分の気持ちを知って、放心した記憶があります。

 このくらいにしましょう。反発する方もいらっしゃるかもしれません。が、明らかになりつつある史実に接することの重要さに並行し、その一方で、芝居は芝居として、日本人の心に触れる作品へと長年に渡り洗練された芸術作品として尊重します。引き続き、さまざまな視点や立場と新たな史料から歴史書を楽しむ傍らで、芸術作品の訴える大きな情動や感動も、楽しみ続けたいと思います。

2025/12/18

■ まなぶ ■ 理解できなかった『忠臣蔵』-3

赤穂城
赤穂観光協会Website

この芝居で、ストーリーを知った高校時代から理解不能だった点が2つ;

 最も不可解な疑問;殿中(江戸城内)で刀を抜いて刃傷沙汰を起こすと、"本人は切腹、その配下のお家は御取り潰し"という鉄の掟を知らない者は絶対にないはず。凶行に及んだ赤穂藩主浅野長矩だって百も承知だったではないの? 

 言葉による度重なる罵倒や遺恨にガマンしきれなくなって刀を抜き、その場で鬱憤を晴らすことができたとして、翌日以降、自分と赤穂藩はどうなるのか、藩主浅野に見境がつかなかったのはなぜか、という点です。

 第2の疑問は、"仇討ち"という表現です。一般に、仇討とは、親や主君が殺された場合、子や臣下に当たる者が、殺した者に、決闘を挑むことです。

 この芝居では、"主君たる浅野長矩が、吉良義央に殺され、この'仇討ち'を旧藩士四十七士が遂げた"ワケじゃなくて、どちらかと言えば発端たる事件の被害者加害者が逆転し、"主君たる浅野が、吉良を殺しそこね、四十七士は重ねて吉良を襲った結果殺した"というのが事件の経緯です。これは'仇討ち'のカテゴリーに入るのか、逸脱していないか、という点です。

 以上の2点、どう説明をつければ納得がいくかなぁと、以来ずっと、大学時代もその後も、12月14日になって"今日は討ち入りの日"などとお気楽モードな報道を耳にする度にもやもやとしてきました。

2025/12/17

■ まなぶ ■ 理解できなかった『忠臣蔵』-2

忠雄義臣録第三 
歌川豊国三世画 1847

芝居『忠臣蔵』のストーリーのうち第1の事件『刃傷事件』の場面;

 加害者被害者両当事者は、赤穂藩主浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)と吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)。

 後者は高家旗本(高家肝煎)職なので、中央省庁たる幕府江戸城にて朝廷関連儀式を司る職で、定期的にある勅使饗応行事の実務を監督する。そのもとで、饗応役事務方は、各藩の持ち回り当番制。

 1701年の勅使饗応役は、播磨赤穂藩が選任され、藩主浅野長矩が江戸城に登城し、吉良の指示で立ち回っていた。言うなれば、中央省庁本庁の局長級の偉いお役人が、当番制でやってきた県知事に指示を出して、共同プロジェクトの遂行にあたっていたとでも捉えることができそうです。事件の4月21日は、勅使到着の当日。

 浅野は吉良から、日頃、ことあるごとに、田舎者扱いされ、恥をかかされ、パワハラ、嫌がらせ、イジメ、挑発を受けていた。

 その原因は、諸説によると、吉良の指導に対する浅野からの"指導料"たる献上進物(賄賂)が少ない、という短期的なものから、塩田における製法と販路と販売量を両者が競っていたが、赤穂藩が圧倒していた、という長年に渡る因縁まで、種々積層していたというもの。

 事件は、江戸城本丸御殿の中で、最も広く、かつ長いもので、障壁画として松が描かれていたことから、「松之廊下」と呼ばれていた場。 ここは、御三家、加賀前田家、越前松平家等の登城時の控えの間があり、幕府の権威を示す特に重要な儀式が行われる場。儀式によってはこの廊下で行われることもあり、当日はこの場に朝廷勅使が到着する直前であった。

 この時点で、芝居『忠臣蔵』と史実である『赤穂事件』とで、"傷害事件"である事件の時系列に食い違いはないようです。

 芝居『忠臣蔵』の描写によると;

言葉による挑発に耐えかねた浅野が、「吉良、待て」と声をかける。振り返った吉良の顔面に正面から一太刀浴びせ、額に流血。驚いて逃げようとするその肩口にさらに一太刀。膝から崩れ落ちる吉良。この時点で、現場にいた梶川与惣兵衛頼照によって、浅野は背後から羽交い締めにされて制止され、逮捕・拘引され、お裁きとなる。

 この、襲撃行為の描写に、芝居と史実とで大きな喰い違いがあるようです。

2025/12/16

■ なおす ■ 窓断熱にロールキャップ


窓辺から猛烈な冷気が侵入しているのはわかっていました。灯油代もやはり、高かった去年よりなお高いので、この際、見た目など無視して、対策します。

貼る前

 窓枠にロールキャップ(ぷちぷちシート)を養生テープでベッタリと貼ります。

貼った後

 ただでさえ農業用マルチシートで屋内空間を仕切っていて、"ビニールハウス住まい" なのですが(🔗10/18)、ますます...。

 窓を密閉するように貼ってびっくり。きっちり閉じてロックした、ペアガラスのアルミサッシ窓なんですが、それでも冷気が、貼ったロールキャップを強い圧力で押しています。外縁部のテープもメリメリと剥がれそうな音です。手で触って押し戻そうとしても、ロールキャップシートは容易には押し戻せないほど強圧です。まるではち切れるほど空気が入ったビニール製のボールみたい。

外から侵入する冷気で
ロールキャップシートが膨らんで
左のペットボトルを倒しそうです

■ 養生テープを補強して二重に幅広に貼ります。テープの種類も変えたほうがいいかも。こんな強い氷点下の冷気が続々と室内に入ってきていたんですねぇ。そう考えると、逆に、室内暖房の威力もまたスゴい熱量で暖めていたんだなぁと実感します。

 まともな生活ができているのも、これらの素材、機材、現代文明のおかげだナと、つくづく思いました。