2023/09/17

■ あるく - 廻堰大溜池周回道路


大好きな散歩道、廻堰(まわりぜき)の大ため池を周回する農道です(4/29, 5/5など)。

 この付近は大きなハリエンジュ(ニセアカシア)の群生で、道が画像奥に行くほど深い木のトンネルになっています。と同時に、画像右側に開けるりんご畑の防風林です。画像左側は湖面ですが、例年なら今の時期は湿地帯です。今年は水がかなり干上がって、緑の大草原のように広がっています。

 この道は幹線道路でも生活道路でもなく、りんご畑の森の農道で、冬期には完全閉鎖になる静かな道。たまに思い出したように軽トラが通り過ぎ、あとは鳥のさえずりが響きます。巨大画像でお見せできれば良いのですが残念。お休みの日の雰囲気がただよって、心がなごみます。

2023/09/16

■ なおす - 玄米を精米


お米を玄米で購入します。米作地帯のど真ん中に住んではいるのですが、農家ではないので。

で、10kgずつコイン精米します。

どのメニューにしますか? 別にそうワクワクしないか...。でも好みは激しく分かれそうです。

デフォルトは「標準白米」ですが、それよりさらにピカピカに磨く「上白精米」もあるようです。「大吟醸」はないかなぁと探したのですが、ありませんでした(あったらお前はそれを選んだのか? と詰め寄られると...)。

逆に、玄米に近い「一分づき」もあるようです。玄米にせず一分づきにするために精米機に持ち込んでお金とひと手間をかける人もいるんですねぇ。

私ならいっそ玄米のままで...30年間ほどそうでした。食感が好きです。ていねいに噛もうという気にもなります。が、残留農薬が...などと言う声も。意に介さず強い決意で主義を貫けばよいのですが、小心者なので、チョっと削りましょう。

ということで、私は「五分搗き」にしています。

分搗き米を自由に選んで食べられるなんて、すばらしく便利です。感謝。

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あの、一点ちょっと(いつもの通り、その「一点」が、長いです)。この、精米最後の段階でお米を受けるために持参すべき容器?ですが、「30kg入り米専用紙袋」(画像右下の紙袋)以外はセットできないのが業界標準仕様になっています(近隣の複数個所複数メーカーの精米機すべて)。

初めて精米機を利用しようと決意した数年前、精米機利用のしくみが不明で、恐怖心が...(クラシックシェービングみたいだな→5/1ご参照)。ここまで読んきてくれた方にはうすうすご察知の通り...根っからの臆病者なんです。ユーチューブなどでじゅうぶんに研究を重ね、かつ数か所を下調べに訪問します(手ぶらで精米機周辺を歩いたりしゃがんだりする不審者です)。

どの複数のブースを訪れても、精米後の白米が床に散乱していて、かつ、かならずホウキと塵取りがぶら下げられています。こんなに白米をこぼすだなんて、ずいぶん皆さんズボラな方々ばかりで...い、いや待て、もしかして、これはやはり最後に白米を受けるのに失敗する確率がある程度高いのではないか...などと推理します。

さて、数年前の、初めて利用した時の話です (毎度ここからが長いので、チャンネルを変えるなら今です);

万が一しくじって米をこぼすのではないかと予想して、焦らなくてよい時間帯として、利用者のいないであろう早朝を選んで訪問。

農家ではないので「30kg入り米専用紙袋」など持っているはずがなく、スーパーの(というか、正確にはニトリとユニクロの)大きな白いポリ袋を念入りに3枚ほど重ねて、精米した10kgの米をこれに受けるつもりです。袋の容量は十分あります。

備え付けのホウキと塵取りを使って、いちおう、あらかじめブース内をきれいに掃きます。掃いた白米混じりのゴミを塵取りに入れたら、塵取りからすぐあふれます。軽トラに常備してある別のポリ袋に入れます。結局、ゴミ・砂・泥・髪の毛・白米の合計で、3合程度はありました(おぞましい記述ですみません)。「炊いて食おうかな」という欲望が、一瞬頭をよぎります。あざ笑っているあなたは、江戸時代初期元禄期の井原西鶴の、大阪堂島のあの話をご存じないからでしょう!? その話によるとつまり...いや、やめときましょう。で、画像では左に見える黄色い収穫コンテナ(画像左の黄色い箱)を置いてあるその台の上に、すくい取ったゴミ入りの袋、いや正確にはごみ交じりの3合の白米入りの袋を置きました。

さて、玄米と段ボールとポリ袋と、さらに、昨日買って用意しておいた新しいホウキと塵取りとごみ袋など、一式を収穫コンテナに入れてブースに持ち込みます。第三者が見れば、どう見ても「コイン精米機をメンテ中の管理人」の構図です。

で、米を受けるためのポリ袋を広げておき、さらにその下には用意した段ボールの箱を置きます。この時点で精米機初体験の緊張は極値に達しています。「こわい...やめようか。でも朝早いし誰もいないし、やるならもう今しかない。今やらなければ生涯やらない」と葛藤します...犯罪でもするんですか。この刹那に感得した一つの真理;「得難き機会はすべての動物をして、好まざる事をも敢ヘてせしむ」。

さて、コインを入れると、精米機の中に隠れているお姉さんが目覚めて指示を出し始めます。「五分づきコース」を選んで、精米ボタンを押します。ドカンという轟音で開始。口をあいて見とれています。精米された米は最終落下地点の上にあるバスケットに次々とプールされていきます。五分づき米は、玄米と変わらないような黒さです。お姉さんちゃんと米を搗いているんですか!? 朝早いからって...。

精米完了。緊張しつつ、ごくりと息を飲んで、両手でポリ袋を広げておき、意を決してペダルを踏んで米を落下させました、

ら、

ドカンという轟音とともに、10kgすなわち100Nが一度に重力加速度9.81 m/s²に加勢されて落下。手に受けるその衝撃が想定外に大きく、「ちょっとずつ落ちてくれよ、おバカ!」と思う間もなく、袋はあっさりと3枚まとめて破れ、米が床にあふれ落ち始めます。米は魔物だなと疳づいた時はすでに遅く、破れた袋の形を取り繕おうとすればするほどますます焦り、米は雪崩のように床に崩落し、沼へでも落ちた人が足を抜こうと焦るたびにぶくぶく深く沈むように、せまい精米ブースはあたり一面に見る見る間に米が堆積し(大げさだと思います)...あとは自由に想像して楽しんでね...(ioi)...。

ブース内の床は精米後の米がざっくざく。誰かが外から開けようものなら滝のように米が流れ落ちたことでしょう。この煩悶に際して覚えず逢着した第二の真理;「すべての動物は直覚的に事物の適不適を予知す」...が、真理はすでに二つまで発明しましたが、毫も悟りを会得した愉快が感じられません。

これが日本昔話みたいな大判小判ならなぁ、あはは...などとあなたのジョークで慰めてもらっている場合ではありません。しかも五分づき米で色は黒く、銀シャリ信仰のある東北人に見られたら恥ずかしいというコンプレックスもあり、誰かに見られないうちに、床にぶちまけた米の中に塵取りを突き刺して狂ったように怒涛の速さで段ボールに掬います。掬ってもすくっても...。で、最後は米をホウキで塵取りに掃き取って段ボールに。掃いて捨てるほどあるというのはこういう意味だったのか...ここに第三の真理が驀地に現前します;「君子危きに臨めば平常なし能わざるところのものを為し能う。之を天祐という」...。幸いに天祐を享けたる君子が、暴君たる精米機の指示に服従させられた奴隷的労務からついに解放に近づいたところ、何だか迫り来る軽トラのエンジン音が...。ここで人に来られては大変だと思い、いよいよ躍起となってホウキを掻きまわす...。足音がだんだん近付いて、ついにガラリと我が闘争のブースを開ける...。ああ残念だが天祐が少し足りなかった...。

「お前、ずいぶんきれいに掃除したな、どうもどうも」と、軽トラのおじいさん。聞くと今度は本物の「精米機ブース管理人」でした!が、すぐ気配を察知して、「マガした(ぶちまけた)のか...。たいへんだったな。準備がいいな。ごくろうさん。大きい(30kg入りの米専用の)紙袋じゃないとダメなんだよ。」と叡智と慈愛に満ちたありがたいお言葉を賜りました。

このあふれる大判小判のように持ち帰った生涯思い出に残る五分搗き米を、その後しばらくは、研ぐ際には、六分搗き米くらいになるまで額に青筋を立てて猛烈な気合いを入れて洗ってはすすぎ、おいしくいただいたのは、いうまでもありません。過酷な労働の後のごはんはおいしい...。

2023/09/15

■ こわすつくる - 出版社PR紙面に落書き


■ 「あっ、やっぱり!(ノ`o´)ノ また切って落書きして!」(9/12)

■ 「ごっ、ごめんなさい~。φ(・ω・` ) びょうきなんです...ぅぅ」


2023/09/14

■ こわすつくる - 出版社PR紙を裁断


■ 「あっ!? (ノ゚ο゚)ノ、なんてことを!せっかくもらって読んでたのに。」(9/10)

■ 「えっ!? (゚ω゚ノ)ノ...処分していいんじゃなかったの!?」

2023/09/13

■ きく - タリス「エレミア哀歌」 - ヒリアードアンサンブル


夜半過ぎに起きて、明け方まで、机に向かって簡単な作業をすると、8/20, 9/9に書きました。

■ この状況では、ホモフォニックな和声やリズムの変動がない、簡素な流れるようなポリフォニーが耳に心地よいです。タリス(T. Tallis;1505?-1585)、バード(W. Byrd;1543-1623)からくだってパレストリーナ(Palestrina;1525?-1594), アレグリ(Allegri;1582-1653)くらいまでの音楽に落ち着いています。

■ うち、男声のみ4人程度のヒリアードアンサンブル(Hilliard Ensemble)の、タリス;エレミア哀歌(The lamentations of Jeremiah / De lamentatione Jeremiae prophetae)を。ずいぶん以前に購入したCDです(1988年頃)。

■ この16世紀の作曲家タリスの名前を冠した現在の合唱団に、タリス・スコラーズ(The Tallis Scholars)があります。彼らの演奏は、女声を含む十数人規模のもので、私もギーメル(Gimell)レーベルの十数枚程度を愛聴しています。この中に、作曲家タリスのCDは2枚。1枚はエレミア哀歌、もう1枚はイングリッシュアンセム集。いずれも、彼らの演奏への期待に違わぬ美しい響きです。

■ タリス・スコラーズの特徴の1つとして、イギリスのソプラノの美点である彼女らの、ノンヴィヴラートで、あたかも天上にかかる細い虹の穹窿のように、静かで透明でいながら何ものをも貫き通すように非常に良く通る高音部が挙げられます。

■ この美しさを知ってしまうと、自分で出向いて聴ける演奏会レベルで接するプロやアマチュアの他の合唱団の演奏を聴くのがつらくなります。違いは、きれいかどうか、という曖昧なものではなくて、演奏会で接する合唱団は、声質が揃っていない斉唱が通常です。例えば、同じ「ソプラノ」の声域の歌手であっても、抒情的なソプラノ・リリコとプリマドンナクラスのソプラノ・ドラマティコの声質の女声が入り混じって、複数で同じ声部を同時に斉唱すると、だいぶつらいです。とりわけこの時期の、つまり13世紀以降18世紀に足を踏み入れるバッハににいたるまで、特に宗教曲には、ソノリティの混濁があって、向かないと思うのです。タリス・スコラーズもケンブリッジ・キングスカレッジ聖歌隊もガーディナーのモンテヴェルディ合唱団も、イギリスの演奏家の世界では、声の帯域にとどまらず、声の性質を厳密に選別しているのではないでしょうか。これは歌手個人の努力や才能のおよばない、持って生まれた資質に依存していると思います。

■ そう意識してしまうようになったのも、イギリスのこれら新しい若い演奏家たちが、たゆまず響きの純粋性を洗練させてきたからかもしれません。

■ さて、今の私の聴く明け方前の時間帯や微小な音量では、しかしながら、女声ですと、最上声部であるスペリウス(Superius)(ソプラノ声部)が、強く浮いて聞えてしまうことに気づきました。女声がない方がいいんだけどな...って、なんというわがまま。他方、ヒリアードアンサンブルは、スペリウス声部も含め男声のみです。

■ 明け方前の暗い空間に、静かにさらさらとまたゆるりと均質な男声のみのポリフォニーが流れます。自分という生き物と今いるこのせまい空間の境が曖昧になり、まるで半透膜をはさんでこちらとあちらで似たような塩分濃度の液体がゆらりゆらりと行き来するような感覚になります...(精神がかなり危険なレベルのトランス状態になってきましたか...)。

「エレミアの哀歌」は、旧約聖書のテキストです。かつて繁栄を誇ったユダヤの国の首都イェルサレムが陥落し神殿は破壊され生き残ったユダヤ人は数十万人規模で捕囚となり強制移住させられた紀元前6世紀頃の史実について、同時代人の預言者が箴言を連ねるものです。簡素なテキストが、キリスト教を対称軸に今から線対称に紀元前に飛ぶ気がしますし、キリスト教から気持ちが離れるという意識下の意識も潜み、また、作曲家は16世紀という意識もあって、暗闇の彼方に、遠く遡った時間と空間を感じます。

ですのに、いま響いているこの曲の美しさといったら。感覚的な刺激や棘が存在せず、善悪や愛憎の彼岸にたゆたうように響きます。

そう感じるのはなぜでしょうか。

ここで、その秘密である作曲家の波乱万丈な生涯と演奏家の輝かしい受賞歴を振り返ってみましょう...などというバカげたマネはやめて、目を瞑って、曲そのものを感じてみましょう。一人しずかに、感じ、考えて、間違っていたらそれはそれで。で、感じて考えたことのうち、2点ほど。

 1) 多旋律同時進行のポリフォニーは、始めもなく終わりもない永遠性を感じさせ、ゆえに教会典礼音楽として花開いたのですが、他方で、聴いていて単調になりがちです。タリスの旋律は、スペリウス始めいずれか1声部が1小節先行し、つねに縦のホモフォニックな和声効果に配慮している、と同時に、たまに装飾音的な小刻みな動きがあって、その動き方が、現代の人類の情感にも強く訴えるような普遍的な響き、というと大上段に振りかざしていますが、やさしげななぐさめとなる響きがあります。

 全体に古い教会旋法(フリギア旋法)で厳粛に進みますが、楽譜1青枠では、そのテキストが "彼夜もすがら甚く泣き悲しみ、涙は顔に流るる (旧約聖書エレミア哀歌C1-§2)" であるにもかかわらず、たったこれだけの上行旋律のせいで、曲全体が一度に明るく希望に満ちた響きに変容します。このようなゆっくりとした装飾音的な動きが随所にあります。

楽譜1

■  2) 曲の終わりやゲネラルパウゼ(曲途中での一斉終止)直前の、最終音が、必ず長三度和音の組み合わせで終止します。と同時に、きりりと絞られた緊張感・集中力・一体感を、新たにします(楽譜2, 緋色枠)。この特徴は、タリスの他の作品、「"Spem in alium..." 40声部のモテト」「"Mass for Four Voices" 4声部のミサ」にも顕著です。

■ 多旋律が対位法的に推移し、民の嘆きやうめきが次々と浮いては沈むように聞こえる不協和音の連続だったとしても、長三和音を組み合わせる最後の一音で、つねに希望ときずなが与えられます。聞く者は、いかなる苦しみも不安も必ず救済されると確信します。こころから美しいと思わずにはいられない響きです。

楽譜2

■  以上2点の特徴を思うと、タリスは、音楽史的な流れとしては、恐るべき大事件となった宗教改革に揺れるヨーロッパ大陸という本流とは離れた島国の辺境の地の上流の細い支流かもしれないのですが、あきらかに爛熟のバチカンローマ楽派の水と交わり、それがベネツィア楽派へと流れ込み、モンテヴェルディという山の平原に広がる美しく巨大な湖に流れ込んでいると思います(その湖の水は、のちにバッハという大海に流れ着くのですが)。

■  他の演奏で、女声がスペリウスを担当するタリススコラーズ, ザ・シックスティーン, ヴォイセス・エイトなどの気鋭のイギリスの演奏家たちならば、これまた別に、抜けるような広い明るい空間に永遠の響きが厚く広がることでしょう。そのような場所と状況でじっくり聴いてみたいものです。が、小さな私の環境では、親しげなソノリティのヒリアードアンサンブルで。