2023/09/13

■ きく - タリス「エレミア哀歌」 - ヒリアードアンサンブル


夜半過ぎに起きて、明け方まで、机に向かって簡単な作業をすると、8/20, 9/9に書きました。

■ この状況では、ホモフォニックな和声やリズムの変動がない、簡素な流れるようなポリフォニーが耳に心地よいです。タリス(T. Tallis;1505?-1585)、バード(W. Byrd;1543-1623)からくだってパレストリーナ(Palestrina;1525?-1594), アレグリ(Allegri;1582-1653)くらいまでの音楽に落ち着いています。

■ うち、男声のみ4人程度のヒリアードアンサンブル(Hilliard Ensemble)の、タリス;エレミア哀歌(The lamentations of Jeremiah / De lamentatione Jeremiae prophetae)を。ずいぶん以前に購入したCDです(1988年頃)。

■ この16世紀の作曲家タリスの名前を冠した現在の合唱団に、タリス・スコラーズ(The Tallis Scholars)があります。彼らの演奏は、女声を含む十数人規模のもので、私もギーメル(Gimell)レーベルの十数枚程度を愛聴しています。この中に、作曲家タリスのCDは2枚。1枚はエレミア哀歌、もう1枚はイングリッシュアンセム集。いずれも、彼らの演奏への期待に違わぬ美しい響きです。

■ タリス・スコラーズの特徴の1つとして、イギリスのソプラノの美点である彼女らの、ノンヴィヴラートで、あたかも天上にかかる細い虹の穹窿のように、静かで透明でいながら何ものをも貫き通すように非常に良く通る高音部が挙げられます。

■ この美しさを知ってしまうと、自分で出向いて聴ける演奏会レベルで接するプロやアマチュアの他の合唱団の演奏を聴くのがつらくなります。違いは、きれいかどうか、という曖昧なものではなくて、演奏会で接する合唱団は、声質が揃っていない斉唱が通常です。例えば、同じ「ソプラノ」の声域の歌手であっても、抒情的なソプラノ・リリコとプリマドンナクラスのソプラノ・ドラマティコの声質の女声が入り混じって、複数で同じ声部を同時に斉唱すると、だいぶつらいです。とりわけこの時期の、つまり13世紀以降18世紀に足を踏み入れるバッハににいたるまで、特に宗教曲には、ソノリティの混濁があって、向かないと思うのです。タリス・スコラーズもケンブリッジ・キングスカレッジ聖歌隊もガーディナーのモンテヴェルディ合唱団も、イギリスの演奏家の世界では、声の帯域にとどまらず、声の性質を厳密に選別しているのではないでしょうか。これは歌手個人の努力や才能のおよばない、持って生まれた資質に依存していると思います。

■ そう意識してしまうようになったのも、イギリスのこれら新しい若い演奏家たちが、たゆまず響きの純粋性を洗練させてきたからかもしれません。

■ さて、今の私の聴く明け方前の時間帯や微小な音量では、しかしながら、女声ですと、最上声部であるスペリウス(Superius)(ソプラノ声部)が、強く浮いて聞えてしまうことに気づきました。女声がない方がいいんだけどな...って、なんというわがまま。他方、ヒリアードアンサンブルは、スペリウス声部も含め男声のみです。

■ 明け方前の暗い空間に、静かにさらさらとまたゆるりと均質な男声のみのポリフォニーが流れます。自分という生き物と今いるこのせまい空間の境が曖昧になり、まるで半透膜をはさんでこちらとあちらで似たような塩分濃度の液体がゆらりゆらりと行き来するような感覚になります...(精神がかなり危険なレベルのトランス状態になってきましたか...)。

「エレミアの哀歌」は、旧約聖書のテキストです。かつて繁栄を誇ったユダヤの国の首都イェルサレムが陥落し神殿は破壊され生き残ったユダヤ人は数十万人規模で捕囚となり強制移住させられた紀元前6世紀頃の史実について、同時代人の預言者が箴言を連ねるものです。簡素なテキストが、キリスト教を対称軸に今から線対称に紀元前に飛ぶ気がしますし、キリスト教から気持ちが離れるという意識下の意識も潜み、また、作曲家は16世紀という意識もあって、暗闇の彼方に、遠く遡った時間と空間を感じます。

ですのに、いま響いているこの曲の美しさといったら。感覚的な刺激や棘が存在せず、善悪や愛憎の彼岸にたゆたうように響きます。

そう感じるのはなぜでしょうか。

ここで、その秘密である作曲家の波乱万丈な生涯と演奏家の輝かしい受賞歴を振り返ってみましょう...などというバカげたマネはやめて、目を瞑って、曲そのものを感じてみましょう。一人しずかに、感じ、考えて、間違っていたらそれはそれで。で、感じて考えたことのうち、2点ほど。

 1) 多旋律同時進行のポリフォニーは、始めもなく終わりもない永遠性を感じさせ、ゆえに教会典礼音楽として花開いたのですが、他方で、聴いていて単調になりがちです。タリスの旋律は、スペリウス始めいずれか1声部が1小節先行し、つねに縦のホモフォニックな和声効果に配慮している、と同時に、たまに装飾音的な小刻みな動きがあって、その動き方が、現代の人類の情感にも強く訴えるような普遍的な響き、というと大上段に振りかざしていますが、やさしげななぐさめとなる響きがあります。

 全体に古い教会旋法(フリギア旋法)で厳粛に進みますが、楽譜1の青枠では、そのテキストが "彼夜もすがら甚く泣き悲しみ、涙は顔に流るる (旧約聖書エレミア哀歌C1-§2)" であるにもかかわらず、たったこれだけの上行旋律のせいで、曲全体が一度に明るく希望に満ちた響きに変容します。このようなゆっくりとした装飾音的な動きが随所にあります。

楽譜1

■  2) 曲の終わりやゲネラルパウゼ(曲途中での一斉終止)直前の、最終音が、必ず長三度和音の組み合わせで終止します。と同時に、きりりと絞られた緊張感・集中力・一体感を、新たにします(楽譜2, 緋色枠)。この特徴は、タリスの他の作品、「"Spem in alium..." 40声部のモテト」「"Mass for Four Voices" 4声部のミサ」にも顕著です。

■ 多旋律が対位法的に推移し、民の嘆きやうめきが次々と浮いては沈むように聞こえる不協和音の連続だったとしても、長三和音を組み合わせる最後の一音で、つねに希望ときずなが与えられます。聞く者は、いかなる苦しみも不安も必ず救済されると確信します。こころから美しいと思わずにはいられない響きです。

楽譜2

■  以上2点の特徴を思うと、タリスは、音楽史的な流れとしては、恐るべき大事件となった宗教改革に揺れるヨーロッパ大陸という本流とは離れた島国の辺境の地の上流の細い支流かもしれないのですが、あきらかに爛熟のバチカンローマ楽派の水と交わり、それがベネツィア楽派へと流れ込み、モンテヴェルディという山の平原に広がる美しく巨大な湖に流れ込んでいると思います(その湖の水は、のちにバッハという大海に流れ着くのですが)。

■  他の演奏で、女声がスペリウスを担当するタリススコラーズ, ザ・シックスティーン, ヴォイセス・エイトなどの気鋭のイギリスの演奏家たちならば、これまた別に、抜けるような広い明るい空間に永遠の響きが厚く広がることでしょう。そのような場所と状況でじっくり聴いてみたいものです。が、小さな私の環境では、親しげなソノリティのヒリアードアンサンブルで。