2023/08/09

■ まなぶ - なぜ図書館は自室より勉強しやすい?


学校の夏休みも後半でしょうか。青森県の場合、7/22~8/23頃だそうです。私の近隣のいくつかの市立図書館は、さすがに勤勉な中高生でいっぱいです。昼過ぎにうっかり行こうものなら、座席はないです。ところで図書館にお越しの皆さんは、図書館の本が必要なわけではなくて、「空間」が必要なのでしょう。ご自宅に「私個人だけで使える自室」はないんですか? あるなら、自宅で勉強してくれよ、…とは言えないですよね。私だって、学校に通っていた頃は「空間」が目的で、利用しました。

いまどきは小中高生なら「自室」はありそうですね。大学生や独身者など、一人暮らしなら当然アリ。では、なぜわざわざ図書館にやってくるかというと、そりゃ、図書館の方が集中できるからでしょう。なぜ集中できるのでしょうか。自室の方が快適なのに...。大昔に知人に考えさせられ学んだ気がしたことを書いてみます。

小中高生なら、自分のお部屋はどう使っているでしょうか。親に「勉強部屋」と称されて明け渡されているかもしれませんが、ドアを閉めて「自分の城」の主となった以上、ナンでもデキる専制君主に君臨しているでしょう。勉強も睡眠も当然ココ。音楽も聴ける。スマホでネットもLINEもTVも無制限OK。ゲーム機はやっぱり標準装備でしょうか。そこでは、軽く飲んだり食べたりもしますか? 他に、ヒトにより、趣味やスポーツのグッズが満載された快適空間でしょうか。

さて、私が大学時代に知り合ったイギリス人留学生のMc君の発想をどう思いますか。(彼の父は「上院議員だ」と彼はひと言説明したのみですが、イギリスの上院議員は、非公選で終身任用制の貴族院なはず…。しかもこの頃は世襲貴族議席の制限前の頃の話なのですが…。ま、家族関係は私はそれ以上詮索しなかったのですが、ちょっとしたいきさつで、音楽と茶の話で打ち解けて、気さくに話しかけてくれました。)

彼のイギリスの自宅(お屋敷というべきか)は、話から推理すると、チューダー王朝期(室町時代)頃の石造りの大邸宅のようです。この邸宅には、執事・運転手以下多くの係の方々を抱えているようでした。

当時私は都心の大学のすぐ近くの、戦前に建築された古い木造のおうちの1室を借りて下宿していました。10畳間で、部屋の2面が障子戸で、開ければすぐ廊下となる角部屋です。東京と言うより江戸の雰囲気です。ここで彼に紅茶ウバの夏摘み茶を白磁の茶器で出したところ、非常に驚かれました。貴重な知己ができたのもつかの間、その2週間後に帰国してしまったのですが。

彼は私の畳敷きの下宿部屋に興味津津のようで、それを見に来訪したようなものです。彼によると、日本に来て、まず嫌悪感を覚えたことは、ダイニングルーム以外で飲食することです。彼の国の自邸では、石造りのホールに靴音が響き渡る広大なお屋敷なわけですが、ここで育った彼にとって、睡眠はベッドルームで、食事はダイニングルームで、勉強はライブラリで、紅茶やスウィーツはティールームですべきことです(もちろん全部自邸に備わります)。音楽を聴くリスニングルームも別にあるそうです(石の家なので残響が大きく、RogersのLS-3/5Aという小さなスピーカでじゅうぶん楽しめる、と言っていたのをはっきり(羨ましく)覚えています...)。

彼が退出した後、私はチョイと考えてみました;

畳の座敷の1部屋が、書斎にもなるし食堂にも茶室にも寝室にもなることは、日本では何の違和感もなく、ごく普通のアパートから高級旅館までみなその発想です。が、この点に彼は大きな感情的違和感を覚えているようです。アジア的な発想、価値観の違い、と考え、自分の感情はひとまず理性で抑えることにしたようです。

ヨーロッパでは「目的別に部屋がある」。目的の定められた空間において、目的外の行為をすることには、倫理的嫌悪感があるということでしょうか。

私生活の場に限らず、日本では、学校でも職場でも、同じ教室同じ机で作業もすれば昼食もとります。ヨーロッパでもアメリカでも、すべての学校では、科学(理科)の授業は科学(理科)室で、地理の授業は地理室で。ランチをとるのはカフェテリアで。したがって、「自分のホームルームの自分の机で」という発想はありえないようです。

さて、『図書館が勉強しやすい理由』は、「自分のイマの狭い目的以外は、周囲にナニも無い」「その行為の達成だけに集中した専用の空間」「合目的的な空間」だからではないでしょうか。

イマ自分はここに、次の3時間で使うアイテム以外何一つ持っていないです。自分はイマこの瞬間その目的のためだけにこの世にある主観的存在で、ここはそれ以外の行為は絶対にできない物理的社会的空間つまり客観的存在です。これ以上簡素で合目的的な状況はないです。とりかかりさえすれば、容易に目的を遂げられます。

他方で、学校や職場の縛りを解き放たれて自宅の自室に帰れば、「自分は無限の可能性がある若者」(主観的存在)が、「何もかも揃っている自宅の自室」(客観的存在)の中にいます。逆に言うと「何一つモノにならない自分」が出来上がったりして...(すみません、私自身の反省です)。自室というのは、目的から最も遠い最悪の空間…にならないよう、自分を強く律していかないといけない空間ですね。

2023/08/08

■ まなぶ - 大学の古い校舎の廊下

大学発行の大学案内パンフ

画像は、都心にあるイエズス会経営の大学。創設初期の建物1号館1階です。きれいですね。

廊下壁から天井への補強リブが等間隔に置かれ、ロマネスク・アーチ形に処理されて、穏やかな雰囲気を作っています。

おととい見た教会基本構造の、束ね柱Pierが天井で収束する天井Vaultの荘厳な規模や美しさには遠く及びませんが、天井照明の形が何となくVaultを連想させる気がします。

壁面の上半分が白い漆喰風の壁、下半分が褐色の腰板という、気持ちが和み落ち着く配色で、ヨーロッパの修道院や個人の大邸宅風な趣を醸し出しています。腰を据えてじっくり思索するには良さそうですね。

この1号館の1階では、毎朝、文学部系の各学部学科の外国語の授業があるようです。かつて伝統的に教授する人はネイティブの外国人教授=イエズス会修道士で、始業と同時にドアに施錠して、遅刻者は入れない、入った者は出られない、という軟禁状態で、猛烈な外国語の特訓をしたという伝説が…。腰を据えてじっくりお勉強できる完璧な環境と言ってよいでしょう…か!? さぞかし外国語が堪能になって卒業するに違いありません…。今となってはもう昔の話でしょうか。

2023/08/07

■ まなぶ - 大学構内のアーチ

google map/street

画像は、都心にある古い大学の、創設初期の建物です。学ぶための雰囲気が漂います。昨日触れた教会建築の技巧が連想されるような気がします。

尖頭半円アーチが、昨日一緒に見た教会建築の技法を彷彿とさせます。身廊naveと側廊aisleを隔てる柱列colonnadeが成すアーケードarcadeのような雰囲気を醸し出しています。骨格の建材は、大政奉還(1867)から数年後の明治最初期の建築物ですので、鉄筋コンクリート造ではなくて、石造です。この建物(法文2号館)アーチ最奥(南側にあたる)に明るく垣間見える別な建造物躯体は、昭和の建物で、アーチ形状が連続するように合わせて設計されているようです。


昨日は、上の平面図のように、教会建築は基本的に東西に延びる形で、集う会衆は建物の西側に設置された入口(façade)を入り、建物内で東方の祭壇に向かう、と言いました。

※ google map

 上の航空写真の平面図のように、この明治時代最初期の大学の建物は、建物が東西に延び、西(左側)の正門からこの建物に入ります。上3つのどの建物もその東端は尖ってドーム状をなしています。が、教会ではないので、ドーム部分は祭壇ではなく、この大学の画像左側緑色の2つの建物の東端は、数百名収容の大きな階段教室になっていて、最東端は教壇です(よくTVニュース報道で「今日、大学入試共通テスト/センター試験が行われました」などと報道される映像はこのうち左上の建物(法文1号館)内部の右端にある25番教室です。右の茶色い建物は講堂です)。明治維新時にこの建物を設計した偉大な方を私は知らないのですが、日本人なはずがなく、また、その建築技法は、バシリカ型教会建築そのものです。

ヨーロッパの古い教会には及ばないでしょうが、この大学も、歩くと、その建物の迫力に圧倒されそうですね。ただ、秋に歩くと、銀杏の実の香りが...(拾っている人もいます)。