2023/08/04

■ きく - ベートーヴェン交響曲3番1楽章の「トランペット離脱問題」


ベートーヴェン交響曲3番1楽章のコーダの最後の部分の話です。「英雄」交響曲は、まるで戦いを突き進むように終末に向けてグイグイ盛り上がっていくところです。主題は、楽章を通じて用いられる4小節の動機(Motiv)を、音程2度上行させた繰り返しで、計8小節から成ります。

 1楽章は、非常に速い水の流れのような快速なアレグロ(con brio)で、どの楽器群にもスフォルツァンド(sf)やクレシェンドなどを細かく指定して歯切れよくデュナーミクの揺れも大きく、木管楽器群は活発に呼応し合い、弦楽器群はリズムを刻んだり、うねりや転がりのように軽やかだったり、力強かったりする進行です。

 低音楽器群(Fag; ファゴット、Vle; ヴィオラ、Vc;チェロ、B;コントラバス)が三拍子の力強い足取りを歩んできたところ、655小節目で、高音楽器群のような3連符風の上行とスタッカートstaccatoの下降に入って、楽章最後がいっきに爆発的な盛り上がりに突入し、ここでトランペット(Clno)が8小節に渡る第1主題のテーマをファンファーレ風に高らかに吹く...はずなのですが、ベートーヴェンは、主題の前半4小節のみそうして(楽譜上の黄色枠)、後半4小節は、トランペットを華々しい主役からいきなり下ろし、伴奏にまわしています(楽譜下の黄色枠)。盛り上がった頂点に達する一瞬前に、いきなり水を差すような処置で、異様に不自然です。これが、「3番1楽章の、コーダ問題/トランペット離脱問題」。

※↓652小節目から



ベートーヴェンがそう処理した理由は、当時のトランペットやホルンの構造にあったようだというのが、現在の通説のようです。ホルンやトランペットが、現代のようなバルブ式やロータリー式ではなく、バルブなしのナチュラルトランペット、ナチュラルホルンで、唇の形や呼気の排出量で音程も決めていた点で、音を外しやすく、演奏が難しいようで、奏者の技巧に極度に左右されます。さらに、前半4小節から2度上行した後半4小節は、自然倍音ではなく、特に彼個人の周囲の奏者らの技術レベルを考慮に入れると、技術的に不安定または困難と彼が考えたからではないかとされます。

その後、19世紀末最大の指揮者ビューロー(Hans von Bülow)が、この箇所でトランペットの旋律を8小節全て演奏させる独自の解釈というか校訂というか演奏スタイルを採用し、これが現代の大オーケストラの演奏でも採用されてきました。一気に爆発的に盛り上がる場面にトランペットは当然主役だろうという、自然な発想です。

今回この機会に、手持ちの5種類の演奏を1楽章のみ聴き比べてみました。

20世紀LP時代の伝統的オーケストラは、ビューローのスタイルで何の疑問もない、という感じでしょうか。

手持ちの盤で確認したら、Böhm/Wiener Phil(Grammophone1971), Karajan/Berliner Phil (Grammophone1984)など。ギリシャ彫刻のような静謐さを全編に湛えたベーム盤。帝王カラヤンは何の躊躇もなくマッシブに突き進む感じです。

古楽器演奏者になると、やはり原典忠実です。

手持ちの盤で確認したところでは、Hogwood/Academy of Ancient Music (L’oiseau-lyre1981), Norrington/The London Classical Players(VirginClassics1989), Savall/Le Concert des Nations(ALiaVox2019)など。

曲の構造に、古楽器演奏はいずれも、演奏家独特の透明感があって、にぎやかなはずのこの1楽章終盤も、重なる楽器同士の響き合う美しさに大いに惹かれます。

■ 現代オーケストラの派手な盛り上がり感や我先を争って他者を消し合うような大音量は、独りで聴くにはちょっと気が重くなります。この感想には、録音技術も大きく影響を及ぼしていると思いました。古楽器演奏の盤は、響きの美しさは突出していますが、後出しジャンケン的な強さがあります(笑...加えて、録音技術者の個性もかなりあり、私が思うに、LPやCDでは、録音技術者は指揮者なみに着目する箇所です。80年代クラシックLP黄金期を形成した Karajan - Berliner Philharmoniker - Grammophon - Günter Hermanns の組み合わせは、今聴き直すと、混然一体となったカタマリ感が押し寄せます。実はその頃からニガテ感がありました...。カラヤンファンの方ごめんなさい。

私は演奏会に行ける身分ではないのですが、もし演奏会に行くとしたら、または、新たな演奏家の盤を手に取る機会があるとしたら、曲全体や曲の一部や楽章ごとに、何か聴きどころのテーマを決めて聴くのが、ワクワクした楽しみだと思います。で、ベートーヴェン3番の1楽章なら、何と言ってもココでしょうか。

2023/08/03

■ あるく - 風通しの良い夏の光景

秋田鹿角大湯の環状列石群(ストーンサークル)遺跡 (10年ほど前の頃の画像です。古くてごめんなさい) 

今晩、私の自宅から徒歩5分の河川敷で、県内随一の花火大会の日です。70年以上も続いているそうです。

私は幼少時以来大学生の帰省時まで見て、その後、見たことがありません。轟音だけはいやがおうでも聞くのですが。

今日も、いつもの県道2号内真部線を歩きました。工事で全面通行止め区間が青森市側にあるのですが、その工事は、実施する日と実施しない日があり、今日のように実施しない日は、工事の人たちが、緊急車両などが通れるように片付けてあるようですが、区間の両端の路上は、「全面通行止め」の看板と簡易なバリケードで封鎖しています。中には、このバリケードを手で移動させて通行する強者がいます。今日は、別箇所の橋がメンテナンス中で、その工事車両も通行しており、バリケードは片側車線を開けっ放しにしていました。

で、いつもはこの深閑とした山の舗装道路を歩いていても、見るクルマは0台か1台(工事車両か森林管理車両)か。ところが、昨日今日は、7,8台、一般の車両や県外ナンバーやレンタカーナンバーのご家族やツーリングオートバイも通りかかりました。クルマを止めて私に、「この道、通り抜けられますか」「青森市街に行けますか」と県外の言葉で聞いてきた方々もいます。上の段落の通りに答えましたが。通行止めの予告看板は途中何か所にも設置しているのですが、地図を見て近道そうで行けそうかもというチャレンジャーの方々ですね。もしここまで来て通行不能となれば、青森市街まで60km程度の遠回りですが、ま、それでも、Uターンしてこのヒバ美林のすがすがしい森の道のドライブをじっくり堪能してください…という気には、ふつう、ならないでしょうか、やはり。

要するに、夏休みなんですね、世の中は。で、青森県内は祭期間。ほぼ全ての市町村でお盆までのこの10日間はどこでも毎日お祭りです。観光シーズン真っ盛りだったのか。

夏休み家族恒例大イベントとして、ご旅行のヒトも世間にはもちろん多いわけで。特にコロナ規制のなくなった今年は。

「夏休み」の雰囲気は、特別感や郷愁があって、こころなごみますね。

あなたが小中学生の親だとして、ご家族で旅行するとします。どんな旅行にしましょうか。身近で、ある夏に同時に、三者三様を見聞したことがありました。

【1】 K君ご家族。

中3の男子K君。毎年夏休みに楽しみにしている家族旅行(父母とK君と中1の妹さん)の行き先を、当時世界遺産指定地となった飛騨高山を見て、帰りがけに平泉中尊寺に立ち寄ることにしました(中尊寺は当時はまだ世界遺産ではなかった)。

青森から飛騨はクルマで行くのが大変だったのですが、鉄道保守作業の仕事の父もK君もクルマ好きで、先月納車されたばかりの新車(デミオだかフィットだか)でした。一家4人でじゅうぶん広いし、新車だし、妹さんは高速道路のサービスエリアごとに必ず何かおいしい物を買ってもらえるので楽しみでした。飛騨を見て、成立の経緯を知って、生活を模擬体験し、14歳の心に大きな感銘を刻みました。帰路、中尊寺にチョットのつもりで立ち寄りました。深い杉並木の巨木の森の中に豪華で大規模な伽藍配置、とりわけ金色堂と、隣接の博物館讃衡蔵の資料を見て、息をのみました。館内展示説明の中に、平安時代の殿さまたちの遺体(ミイラ)を昭和の時代に解剖して病名や死因を特定した記録がありました。暑さを忘れて寒くなりました。妹は怖くて震えてクルマの冷房を止めてもらいたがりました。

帰宅して、皆で夕食に飛騨で体験した雑穀そば打ちをして味わいました。たっぷりの栄養はないけど、やせた土地で栄養バランス良く味わいの深い食事に、江戸時代・豪雪地帯・人間の知恵を実感しました。妹は言われる通り100回数えて噛んでから飲み込みました。その時はおいしくなかったけど、後日また食べたいとつぶやいたことがあります。

数年後、彼は、医学部医学科に進学しました。妹さんは管理栄養士になりました。今はお二人とも病院にお勤めです。中学のときの夏休みのインパクトが強烈だったそうです。

【2】 D君ご家族。

夏休みでも、自営業の親は忙しくて、世間様のような夏休みはないです。かろうじて父に取ってもらえたお休みの日、D君は父にお願いして、2人で、父の仕事用のプロボックスとかいうクルマで高速道路2時間ほどの、北上高地北部の隣県の町の牧場にある、観光天文台に連れて行ってもらいました。ここは対物500mmレンズを装備した天文台で平日の来客数は無限小、休日は1桁のようすで、お金がある自治体によるすばらしい宝の持ち腐れ が大切に保管されているようすです。

出かけた日は、ときおり日が差す薄曇りの日中。お出かけには絶好の日和なのですが天体観察にはイマイチな時間帯と天候です。多忙な父の予定だからしかたがないです。着くと、広々とした牧場の景色の中にぽつんと天文台が。日常生活からかけ離れたすがすがしい光景が印象的でした。豪華な天体望遠鏡をさっそく見たいので、係のおじさんに操作してもらいます。ヒマそうにしていたので たまたま周りにお客さんがいなかったので、見たいもののリクエストができました。「月」「土星」「投影板を装着して太陽とその黒点」を、曇り空でかなり苦労して天体位置座標と焦点を合わせ、見せてくれました。

土星は小さかったけど、驚いたことに輪の縞模様が見えました。太陽はメラメラと燃える火の球で、まるで何かの生き物みたいでした。それよりも、月にはビックリ仰天!!巨大すぎて月の円周も弧(輪郭の一部)も見えません。しかも、まぶしく輝く月面は、銀色に磨いた金属のようでした。クレーターのしわまでクッキリ鮮やか。目を丸くしてゴクリと息をのみました。

その天文台内にこじんまりしたコーナーがあって、火成岩や造岩鉱物の標本がありました。「花コウ岩」「閃リョク岩」「斑レイ岩」「流モン岩」「安ザン岩」「玄ブ岩」など、学校でリクツだけ習って暗記したのですが、教科書の写真では全然イメージがわかなかった暗記系の実物が、今、いきなりハッキリとリアルなビジュアルで目の前にあり、心に突き刺さりました。

帰ってきて夕食を食べていても自分の部屋で机に向かっても寝そべっても、月のクールなシルバーの輝きが忘れられなかった…。薄曇りの真昼の空なのに見える天体望遠鏡…。

D君は大学を卒業してしばらくお勤めしたけれど、さらに数年後に、独学して、気象予報士試験に合格してその道のお仕事に進みました。

【3】 Eさんご家族。

夏&冬&春の休みは、幼少時代から親子5人で恒例のディズニーランド&シー+ 豪華ホテルの旅。TDLの定期券みたいな何だか(私はシステムをよく理解できていないので不正確ですみません...)をお持ちでVIP扱いのご一家だそうです。

中3のEさんは3歳ころからもう十数年も、年に何回も通っていて、どの乗り物もアトラクションも自分のおもちゃで勝手知ったるわが庭です。両親ともに小学校教諭ですが、2人とも口をあけて乗り物をエンジョイ中。

今回も、たっぷり楽しんでの帰りの高速道路が、初めて出会う、まさかの豪雨渋滞・事故規制・通行止め・いったん下道でノロノロ運転でまた高速道路に。ずっと雨。買ったばかりの新車豪華オプションフル装備ミニバン・トヨタアルファードの中で、小学生の弟2人が、お菓子とアイスの食べすぎでゲロゲロ(…お見苦しい記述で申しわけありません…)。深夜過ぎに帰宅してあたしは空腹。両親とも眠くてすごく不機嫌。24時間のモスバーガーとコンビニで好きなものを買えってことで1万円もらい、あれもこれも買って食べたけれど、たくさん余り、買ったものはほとんど捨ててしまいました。翌朝気持ち悪いです。今日は私の塾の夏期講習があるから昨日帰宅の日程だったのですが、何でこんな気分で塾で勉強なんかしなきゃだめなんだ。今日は休むぅ~。

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行く前のワクワクが、どんな結果に終わるのか、なかなか難しいです。

私は、夏祭とも夏休みの旅行とも縁がないのですが、空想をふくらませるとして、東北のエネルギッシュなディオニソス祭も非日常的でよいかもしれませんが、涼しいところだとすれば、水族館や美術館...は、う~んしかし、それなりににぎわって暑さと喧噪があるでしょうか。非日常を味わえそうですが、さらに、博物館・遺跡史跡も、「日常生活からの遊離」という点では、よりいっそうの高みまで上がれそうです。

東北エリアで目にできる美術品でトップランクは、世界遺産「中尊寺」の金色堂と讃衡蔵でしょうか。ステキな杉の森の参道を上がると、人類至高の芸術品である純金箔製と螺鈿細工の見事な金色堂とその収蔵品。平安期の国宝級の美術品が暗闇の中に金色に浮かび上がります。千年前のありえない物体がイマ指先5cmに存在しています。また、その背後にある栄華と衰亡の壮絶な歴史や文学作品を思い出すと、現実世界などとっくに忘れ、意識はしばし虚空に漂う...。精神が病んでますか?

東北エリアの「遺跡」は、三内丸山の規模は桁外れではないでしょうか。ただ、観光客でごった返しているのですが…。対照的に、よりいっそう静謐で神秘的なのは、秋田鹿角大湯の環状列石群(ストーンサークル)遺跡ではないかなと思い出します。

--- 真夏の東北の夜空を焦がす、熱狂と喧噪の真っただ中に身を置くお祭とは対極にある光景は、...;真夏の目もくらむ暑い白昼、静かで広々とすがすがしい草原の中に、いにしえのあの時代となんら変わらない涼風が吹き抜けます。一瞬、時間が止まったかのようなひととき。心豊かに楽しむのも、惹かれるものがありませんか(画像)。


2023/08/02

■ きく - Mozart Requiem K626

Mozart Requiem K626;

C. Hogwood/Academy of Ancient Music, Westminster Chathedral Boys Choir

「中学生の音楽2・3下」教育芸術社p30より『引用』

『「レクイエム」とは、「死者のためのミサ曲」の通称です。モーツァルトは死の半年ほど前、名を明かさない人物からレクイエムの作曲を依頼されたことに、不吉なものを感じたと言われています。そのころすでに健康を害していた彼は、”涙の日”を8小節まで作曲したところで力尽きてしまいました。その後、弟子のジュースマイヤーが続きの部分を書いて完成させました。この作品は、モーツァルトの最高傑作の一つとして、世界中で親しまれています。』

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もしあなたが、大学3年生だとして、現時点で治療方法がない内科疾患で寝たきりになり、8年間ほど病床に伏したとしたら、悪化する検査結果を見て主治医が渋い顔をして看護師さんたちが目を伏せて、ほんとうに覚悟してひとり枕をぬらしたことがあるとしたら、「将来」はなく、まもなく断ち切られるかもしれなかったとしたら、だったら、自分や将来や世の中のことを、どう考えるでしょうか。思いは暗く沈んでいくことでしょう。あらゆる悪災の悪逆な状況のみが毎日次々と心をいっぱいに満たしたとして、それでも、太宰治が例えるように、考え得るすべての悪災があなたの心という箱の中から次々と飛び出した最後に、あなたの箱の底に、小さくなっておろおろもじもじしている「希望」という小人さんを見つけられるでしょうか。

 古い本を読んだり、数学だ化学だという高校生向けクイズを解いたり、音楽を聴いたりして、こころが現実から遊離して、おもしろい、ええっすごいなどという気持ちを経ると、くつろぐ感じがするかもしれません。本も音楽も、何百年か前のものの方が、幽体離脱を経験できてよいかもしれません。その音楽の中で、この時期とくに、不思議な響きのヨーロッパ中世ルネサンス期の声楽曲など、この世のものでない経験ができるかもしれません。

 さて、カトリックのお葬式で営まれる法要(典礼)が、死者のためのミサ。

 グレゴリオ聖歌以来、ヨーロッパ千数百年間にわたり、他の典礼文同様、無数の作曲家のテキストとなっています。

 いくら音楽の教科書にあるからって、そんなものはキリスト教徒がお葬式のときに聴けば十分、人生が楽しいときに自らすすんで手に取って聴こうとは思わない、人生がつらかったり不治の病になった際にはもっと聴きたくない、に決まっているかもしれませんね。

 ラテン語のことわざに"Memento mori.(死を想え)"があるそうです。これは、わざわざ暗いコトを言って人の気持ちに水を差すつもりのことわざではなく、死を想うことで今の生を実感し、より充実したものにしようという積極的な生き方をすすめるものと広く解釈されているそうです。「いま、もっと一生懸命にやろう」というのと同じでしょうか。

 もし同じ意味だとして、例えばあなたがイマ例えば中高生や大学生だとして、「将来のため一生懸命勉強しよう」と言われるのと、「いつかくる死の日を想って、その日からイマをふりかえってみるつもりになろう。今どう過ごそうか。」と言われるのとでは、どちらが心に深くささるでしょうか。前者は校長先生の朝礼の言葉みたいな地に足がついていない無意味な表現ですが(え!?)、後者は自分がいつか死ぬべき地点という彼岸から、今いる此岸をあえて振り返るような響きがあって、「自分はどう歩もうか、イマのままでいいんだろうか。」と思わせる響きがないでしょうか。それで良い気分になれるかどうかは別として。

 死ぬことを想うことは今生きることを想うこと…。いや、自分の人生はまだまだこれから長くたっぷりゴージャスに花開くと信じているのだから、そんなツマんない暗いコト考えたこともない、でしょう...か。

 死者ミサは、参列者に、これを想うひと時を与えるテキストとなっている気がします。対照的に、日本の仏教の葬式の典礼文である「お経」はどうでしょうか。

 上の教科書解説文って、最後の一文は、不要ですよね。「最高傑作のひとつ」「世界中で親しまれて」って、だから何だと? 教科書特有の「権威づけ」「どうだ」感満載。そう言われるとパスしたいスルーしたいです。で、でも、教科書の表現は胡散臭いとしても、今、個人的には、やはり近代音楽におけるレクイエム(死者ミサ)作曲史の金字塔は、やはりモーツァルトのK626…と思います…。結論において教科書の権威主義と同じ所に帰着しちゃった…。けど、自分で気づきたいです。違う表現で勧めてくれればいいんですがネ。

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 カトリックの死者ミサ典礼文は、

I_入祭唱 1.永遠のやすらぎ 2.主よ憐れみたまえ

II_続唱 1.怒りの日 2.不思議なラッパ 3.畏るべき王 4.慈悲深きイエズス 5.呪われた者 6.涙の日

III_奉献唱 1.主イエズス・キリスト 2.讃美の供え物

IV_栄光唱 1.聖なるかな 2.祝福を 3.神の子羊

V_聖体拝領唱 1.永遠の光

から成り、どの作曲家の曲も1時間程度の大曲となっています。

死者ミサの典礼文は、基本的には通常の主日ミサのうち、入祭唱と続唱が葬儀用のものに差し替えられているだけなのですが、セクエンティア(sequentia;続唱)のテキストがあまりにも特徴的です。この部分までをかろうじてモーツァルト本人が完成してくれたのは、人類の幸運です。

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 モーツァルトK626レクイエムの演奏は、古来から、教科書の説明にあるジュスマイヤーが補完した「ジュスマイヤー・ノヴァーク版」が用いられてきました(演奏家が使った楽譜のこと)。


Mozqrt Requiem K626;
K.Böhm / Wiener Phil, Staatsopernchor

 中学のときに借りたLPも高校時代に音楽室で聴いたLPも、当時のスタンダードである、カール・ベーム指揮(ヴィーンフィル+国立歌劇場合唱団(‘71年)か、ヴィーン交響楽団+国立歌劇場合唱団(56年)のいずれか)。規模の大きさ・厳粛さ・古典的静謐さ(ベームの演奏の決定的な特徴だと思います)、に圧倒されました。一つの「基準」「模範」「権威」で、他の演奏はこの下に序列づけられる存在でしょうか。

 私の大学時代の1980年前後は、ヨーロッパのいわゆるクラシック音楽界は、ヴィーン古典派以前の音楽演奏様式に、「古楽器旋風」が革命的な勢いで吹き荒れ、伝統的な巨大編成オーケストラやヴィブラートのたっぷり乗った声楽法などが破壊的転覆を迫られていました。モーツアルト・レクイエムの演奏もその洗礼を受け、目をむいて驚く解釈に次々と触れた頃でした。

 が、大学を休学して病室の天井蛍光灯を丸一日直視していた86年頃に、ホグウッド指揮アカデミーオブエンシェントミュージックの83年録音盤を聴きました。(冒頭画像) 

モーンダー校訂版に基づいており、小編成で、シャープでこの世ならぬ古楽器の響きに、驚愕しました。ノンビブラートでクリアな弦。切々とあどけなく歌う少人数の合唱パート(イギリス合唱隊(少年・女声)・イギリスのソプラノやカウンターテナーの特徴です)。ノンバルブの金管楽器群のこの世ならぬ響き。なんというすがすがしさとやすらぎ!自分は他の人より不幸だ、生きることは苦悩だ、などといったルサンチマン感情のカタマリ的存在から、とっくに遊離し、目を開いたらあるあの蛍光灯って、ここはどこだろうと一瞬思いました。この演奏に出会えて、こんな状況にいる自分が幸せに感じられ、あたり散らしていた周りの人々に対して反省と感謝とを覚えた記憶…。別な新しい場所にいるようでした、が、蛍光灯が今でも目にまぶしく映ります(笑

 衝撃が大きかったので、すぐ続けて、アルノンクール指揮ヴィーンコンツェントゥスムジクスの81年録音のジュスマイヤー・バイヤー校訂盤を聴きました。


Mozart Requiem K626;
N.Harnoncourt / concentus musicus Wien, Konzertvereinigung

 こ、これは、死者も驚いて墓から生々しく飛び出してくるような演奏ではないでしょうか。これはバイヤー版の特徴というより、アルノンクールの強烈な個性の吐露というべきでしょう。激しい好き嫌いの対象となる演奏だと思います。けれど、死んだ人は生きている人に生きることを想えと知らせる存在だという意味で、聴く者に何かを決意させるような演奏です。

 ただの個人的体験というだけの話で、ホグウッド盤やアルノンクール盤が幾多の演奏の中でも優れているかどうかはわからないのですが、ホグウッド盤に続いてアルノンクール盤を聴いて、人生は、少なくとも、生きて何かに出会うに値するものかも、と、泥の中にごく小さな湧き水のような希望が湧いているのを見つけました。