2023/08/02

■ きく - Mozart Requiem K626

※ Mozart Requiem K626;C. Hogwood/Academy of Ancient Music, Westminster Chathedral Boys Choir

「中学生の音楽2・3下」教育芸術社p30より『引用』

『「レクイエム」とは、「死者のためのミサ曲」の通称です。モーツァルトは死の半年ほど前、名を明かさない人物からレクイエムの作曲を依頼されたことに、不吉なものを感じたと言われています。そのころすでに健康を害していた彼は、”涙の日”を8小節まで作曲したところで力尽きてしまいました。その後、弟子のジュースマイヤーが続きの部分を書いて完成させました。この作品は、モーツァルトの最高傑作の一つとして、世界中で親しまれています。』

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もしあなたが、大学3年生だとして、現時点で治療方法がない内科疾患で寝たきりになり、8年間ほど病床に伏したとしたら、悪化する検査結果を見て主治医が渋い顔をして看護師さんたちが目を伏せて、ほんとうに覚悟してひとり枕をぬらしたことがあるとしたら、「将来」はなく、まもなく断ち切られるかもしれなかったとしたら、だったら、自分や将来や世の中のことを、どう考えるでしょうか。思いは暗く沈んでいくことでしょう。あらゆる悪災の悪逆な状況のみが毎日次々と心をいっぱいに満たしたとして、それでも、太宰治が例えるように、考え得るすべての悪災があなたの心という箱の中から次々と飛び出した最後に、あなたの箱の底に、小さくなっておろおろもじもじしている「希望」という小人さんを見つけられるでしょうか。

古い本を読んだり、数学だ化学だという高校生向けクイズを解いたり、音楽を聴いたりして、こころが現実から遊離して、おもしろい、ええっすごいなどという気持ちを経ると、くつろぐ感じがするかもしれません。本も音楽も、何百年か前のものの方が、幽体離脱を経験できてよいかもしれません。その音楽の中で、この時期とくに、不思議な響きのヨーロッパ中世ルネサンス期の声楽曲など、この世のものでない経験ができるかもしれません。

 さて、カトリックのお葬式で営まれる法要(典礼)が、死者のためのミサ。

グレゴリオ聖歌以来、ヨーロッパ千数百年間にわたり、他の典礼文同様、無数の作曲家のテキストとなっています。

 いくら音楽の教科書にあるからって、そんなものはキリスト教徒がお葬式のときに聴けば十分、人生が楽しいときに自らすすんで手に取って聴こうとは思わない、人生がつらかったり不治の病になった際にはもっと聴きたくない、に決まっているかもしれませんね。

ラテン語のことわざに"Memento mori.(死を想え)"があるそうです。これは、わざわざ暗いコトを言って人の気持ちに水を差すつもりのことわざではなく、死を想うことで今の生を実感し、より充実したものにしようという積極的な生き方をすすめるものと広く解釈されているそうです。「いま、もっと一生懸命にやろう」というのと同じでしょうか。

もし同じ意味だとして、例えばあなたがイマ例えば中高生や大学生だとして、「将来のため一生懸命勉強しよう」と言われるのと、「いつかくる死の日を想って、その日からイマをふりかえってみるつもりになろう。今どう過ごそうか。」と言われるのとでは、どちらが心に深くささるでしょうか。前者は校長先生の朝礼の言葉みたいな地に足がついていない無意味な表現ですが(え!?)、後者は自分がいつか死ぬべき地点という彼岸から、今いる此岸をあえて振り返るような響きがあって、「自分はどう歩もうか、イマのままでいいんだろうか。」と思わせる響きがないでしょうか。それで良い気分になれるかどうかは別として。

死ぬことを想うことは今生きることを想うこと…。いや、自分の人生はまだまだこれから長くたっぷりゴージャスに花開くと信じているのだから、そんなツマんない暗いコト考えたこともない、でしょう...か。

死者ミサは、参列者に、これを想うひと時を与えるテキストとなっている気がします。対照的に、日本の仏教の葬式の典礼文である「お経」はどうでしょうか。

上の教科書解説文って、最後の一文は、不要ですよね。「最高傑作のひとつ」「世界中で親しまれて」って、だから何だと? 教科書特有の「権威づけ」「どうだ」感満載。そう言われるとパスしたいスルーしたいです。で、でも、教科書の表現は胡散臭いとしても、今、個人的には、やはり近代音楽におけるレクイエム(死者ミサ)作曲史の金字塔は、やはりモーツァルトのK626…と思います…。結論において教科書の権威主義と同じ所に帰着しちゃった…。けど、自分で気づきたいです。違う表現で勧めてくれればいいんですがネ。

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■ カトリックの死者ミサ典礼文は、

I_入祭唱 1.永遠のやすらぎ 2.主よ憐れみたまえ

II_続唱 1.怒りの日 2.不思議なラッパ 3.畏るべき王 4.慈悲深きイエズス 5.呪われた者 6.涙の日

III_奉献唱 1.主イエズス・キリスト 2.讃美の供え物

IV_栄光唱 1.聖なるかな 2.祝福を 3.神の子羊

V_聖体拝領唱 1.永遠の光

から成り、どの作曲家の曲も1時間程度の大曲となっています。

死者ミサの典礼文は、基本的には通常の主日ミサのうち、入祭唱と続唱が葬儀用のものに差し替えられているだけなのですが、セクエンティア(sequentia;続唱)のテキストがあまりにも特徴的です。この部分までをかろうじてモーツァルト本人が完成してくれたのは、人類の幸運です。

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モーツァルトK626レクイエムの演奏は、古来から、教科書の説明にあるジュスマイヤーが補完した「ジュスマイヤー・ノヴァーク版」が用いられてきました(演奏家が使った楽譜のこと)。


※ Mozqrt Requiem K626;K.Böhm / Wiener Phil, Staatsopernchor

中学のときに借りたLPも高校時代に音楽室で聴いたLPも、当時のスタンダードである、カール・ベーム指揮(ヴィーンフィル+国立歌劇場合唱団(‘71年)か、ヴィーン交響楽団+国立歌劇場合唱団(56年)のいずれか)。規模の大きさ・厳粛さ・古典的静謐さ(ベームの演奏の決定的な特徴だと思います)、に圧倒されました。一つの「基準」「模範」「権威」で、他の演奏はこの下に序列づけられる存在でしょうか。

 私の大学時代の1980年前後は、ヨーロッパのいわゆるクラシック音楽界は、ヴィーン古典派以前の音楽演奏様式に、「古楽器旋風」が革命的な勢いで吹き荒れ、伝統的な巨大編成オーケストラやヴィブラートのたっぷり乗った声楽法などが破壊的転覆を迫られていました。モーツアルト・レクイエムの演奏もその洗礼を受け、目をむいて驚く解釈に次々と触れた頃でした。

が、大学を休学して病室の天井蛍光灯を丸一日直視していた86年頃に、ホグウッド指揮アカデミーオブエンシェントミュージックの83年録音盤を聴きました。(冒頭画像) 

モーンダー校訂版に基づいており、小編成で、シャープでこの世ならぬ古楽器の響きに、驚愕しました。ノンビブラートでクリアな弦。切々とあどけなく歌う少人数の合唱パート(イギリス合唱隊(少年・女声)・イギリスのソプラノやカウンターテナーの特徴です)。ノンバルブの金管楽器群のこの世ならぬ響き。なんというすがすがしさとやすらぎ!自分は他の人より不幸だ、生きることは苦悩だ、などといったルサンチマン感情のカタマリ的存在から、とっくに遊離し、目を開いたらあるあの蛍光灯って、ここはどこだろうと一瞬思いました。この演奏に出会えて、こんな状況にいる自分が幸せに感じられ、あたり散らしていた周りの人々に対して反省と感謝とを覚えた記憶…。別な新しい場所にいるようでした、が、蛍光灯が今でも目にまぶしく映ります(笑

衝撃が大きかったので、すぐ続けて、アルノンクール指揮ヴィーンコンツェントゥスムジクスの81年録音のジュスマイヤー・バイヤー校訂盤を聴きました。


※ Mozart Requiem K626;N.Harnoncourt / concentus musicus Wien, Konzertvereinigung

こ、これは、死者も驚いて墓から生々しく飛び出してくるような演奏ではないでしょうか。これはバイヤー版の特徴というより、アルノンクールの強烈な個性の吐露というべきでしょう。激しい好き嫌いの対象となる演奏だと思います。けれど、死んだ人は生きている人に生きることを想えと知らせる存在だという意味で、聴く者に何かを決意させるような演奏です。

ただの個人的体験というだけの話で、ホグウッド盤やアルノンクール盤が幾多の演奏の中でも優れているかどうかはわからないのですが、ホグウッド盤に続いてアルノンクール盤を聴いて、人生は、少なくとも、生きて何かに出会うに値するものかも、と、泥の中にごく小さな湧き水のような希望が湧いているのを見つけました。