2025/10/09

■ まなぶ ■ 吉田秀和 - シューマン『交響的練習曲』の終曲はうるさい?


"まなぶ"というタイトルよりむしろ、"読む"話、しかも「吉田秀和って誰?」というあなたに意味不明な話なんですが。

 吉田秀和『LP300選』は、愛読書です。タイトルも時代遅れなら、推薦盤もLP初期から中期のもの。画像はすっかり変色し切った新潮文庫昭和59年版ですが、これ、大学生の時に"買い直した"2冊目です。いまだによく手に取ります。知り尽くしたフレーズですが、ときおり眺め、感銘をあらたにしたり反発したり...。

 さて、そんな箇所はいちいちたくさんあるのですが、今日は、シューマンの記述の前半。

 "300選"を作曲家ごとに選ぶこの"選集"のうち、1割近い29点はモーツァルト、ついで22点がバッハ。これはごもっとも。

 笑ってはいけないが笑ってしまうのが、"ショパンは(たったの)2点"。

 うち1点は『マズルカ』。これは何百回か読みなおし聴きなおし、歳月を経てからやっと、実感できるようになりました。

 "私の三〇〇選には、以上の二種目で我慢してほしい。偏見と承知しての話である。そうして、私は、とかく「ショパンは、天才的素人作曲家である」というルネ・レイボヴィッツの言葉に共感したくなるのである。"

 ...吉田のスタンスに共感と納得を得ます。

 "この私が、シューマン(Robert Schumann 1810-56)には、少しあまい。これも偏見だろう。"


 と言って、ショパンの時と同様、次々とピアノ曲を俯瞰し、さて、けっきょくどれを選ぼうかという段になって、"『交響的練習曲』は天才的な作品だと思うが、フィナーレがなんとしても長すぎる。あの反復はたまらない。"と、選から捨てます。

 大学生の時以来、コレはムっとした箇所でした。

 「評論家大先生はいいよなぁ、シューマンの大作をも"反復がたまらん、長い、うるさい(?)"といって、ポイだもんなぁ」と、大学時代同好の士だった友人らと軽口をたたき合ったものです。

 血気盛んな若者(?)なら、あの頃にリリースされた若き日のポリーニ(DG)盤を聴くと、拳を握りつつ感動したのですが、それは多少引き潮気味だとしても、今でも思いは同じです。

 自分の好みに合う文章かそうでない意見かを、吉田にぶつけつつ気にしつつ読んでいたあの頃。

 いま、考えてみると、吉田秀和の、白水社の全集も新潮の文庫本も、手に入る限りかき集めて読んできたわけなんですが、読み方はちがうと気づきます。

 ショパンとちがって、シューマンには、歌集も室内楽も管弦楽も多いので、ピアノ独奏曲は、グッとこらえて『クライスレリアーナ』『幻想曲』だけに絞りに絞ったようですが、そこに至るまでに、存分に吉田の、シューマン・ピアノ曲の位置づけを読んで楽しむスタンスを取るようになりました。しぼるのにずいぶん苦しんでいるはずのところ、選に漏れたものをも、記述の中で上手にそれぞれ位置づけ、きれいにしまいこんでいて、数年後数十年後の今になってすぐに、整理整頓されてしまわれてしまった棚から、自分で取り出して聴けばいいだけ、にしておいてくれていたんですねぇ...。

2025/10/08

■ まなぶ ■ 教科書を読...まずに、絵を眺める(3) - 中学1年国語


このシリーズ(?)(🔗10/1)まだやるつもりなの? という感じでごめんなさい。このくらいにしときます。

 検定教科書(『新しい国語』東京書籍(令和3年))の、芥川のお話の最後に、著作者の紹介があり、その見開き2ページの紹介の半ページを割いて『作家を知る』と称して、「作家について書かれた本」3冊の紹介をしています(p219)。

 媚びている...。

 教科書編集者と販売会社は、中学生に媚び、教育委員会採用担当者に媚び、売上とカネに媚び諂っています。

 まるで、高等教育を受けた老人が、自分の興味からではなく、娘や孫娘の歓心をかおうとする一心で、ラノベを一緒に読み始めたりインスタやX(ツィッター)を始めたりして楽しがるようすをあえてするのと同じ、ムリな醜さを感じます。

 "芸術作品に親しんでもらうために、まずは芸術家の身近な・人間的な・下世話な・ゲスい話題を"、"まずはビジュアルから入ろう"...などというアプローチだって、アリだろう...そのことは、否定するつもりは無いです。また、紹介されているその3冊を否定するつもりもないです。書名も内容も知らないですし。もしかしたら自分でも読んで楽しい本かも。

 でもその安易なアプローチを、13歳を相手に、検定教科書の場で、しなくてはダメなものなの? 

 どうしてもこの商業誌を検定教科書の紙上で宣伝しなきゃダメなものなの?

 それ以前に、作品そのものの魅力を13歳にさりげなく伝え、作品を手に取ってみたい気持ちにさせてくれる努力をしてはどうなの?

2025/10/07

■ つかう ■ 立ち机-2


ここでは今までは座る体勢でPCに向かっていました↓。


 しばらく使っているうちに、立った体勢で向かうのがよくなったりと、定期的に気分が変わります。4月10月と、半年ごとにレイアウトを見直して、ついでに、ホコリまみれのカオスな配線も掃除し、接続し直します。

 今回は特に、あと1週間でついにWindows10のサポート終了ですので、Windows95以来30年間貢いできたWindowsマシンを全廃し、すべてLinuxディストリビューションに移行するつもりです。今さらあわてて2台並べて移行の試行中です。

 ひとまずPCデバイス類を撤去、机周辺と各デバイスを清拭。


 会議室用テーブルのうちの"座卓"バージョンを清拭してから載せます。


 WindowsとLinux Mintを並べ、設置します。


 うまく移行できますように...。

2025/10/06

■ つかう ■ 立ち机


"立ち机"は、ずっと愛用してきました。

 デスクワークを立って処理した方が、ルーティーンな業務なら、効率的です。

 ダラダラしないわけでもないのですが、椅子に座ってデスクワークをするよりは、その時間が少ないです。

 二十数年間してきた仕事は、100%立ち机でした。7,8時間程度座らないまま作業していました。

 立ち机など市販されているのを見かけることは無いです。ので、会議室用折り畳み脚のテーブルの、脚部分を除去し、天板を、"ホームエレクタ"などの組み立て式メタル棚に固定したものを、何個も自作しました。

 ただ、身長によって机の高さをあらかじめ調整しなくてはならないのが短所でしょうか。

 もっと良さが認められていろいろな製品が普及してくれればいいんですが...と四半世紀ほど思い続けてはいるのですが。

2025/10/05

■ つかう ■ 鉛筆6Bの幸せ


「6Bの鉛筆を、何種類にもわたって、思う存分使える」だなんて、気持ちがほんとうに豊かになっているのを感じます。

 先日来ぼやいてはみたものの、そんな些細なことより、なによりもそもそも、大いに気分が良いです。ぼやくのも楽しんでいるうちです。 

 あえて意識して鉛筆を使用するようになったのはおととし(🔗2023/6/23)。

 考えてみれば、拙いなりにずいぶんいろいろと試してきました(🔗2024/1/15)。

 児童生徒学生だった頃には思いもよらなかったような"大きな贅沢"のような気がします。

 感謝して、引き続きこの豊かさを楽しんでいきたいと思います。

2025/10/04

■ あるく ■ 菊が丘公園


雲ひとつない快晴の土曜日。いつも昼休みにあるくのですが、今日は午前中お店が開くかあかないかのうちに、日々の買い物に、またあるいて10分程度のLoftがあるショッピングモールへ。

 でも大回りして、菊が丘公園を抜け、土手の道に上がり、そこから街中の水路沿いの道を通りますので、1時間程度かけて行ってみます。


 小学校前を通って市民体育館裏を抜け、公園に出ます。


 図書館や野球場や庭球場や遊具が隣接してあり、利用する人や家族で駐車場は混んでいて、にぎやかな声が聞こえます。が、朝の公園はまだ人の気配がないようです。


 明るくてあたたかくて静かです。


 土手に上がり、水路沿いの道に降ります。新興住宅地を縫う遊歩道も、あるきやすいです。


 ここまで静かな散策を堪能できました。

 土曜日のショッピングモール内に入ったとたん、いきなり混雑した雑踏につぶされそうになりました。朝と言えど土日に私が来るべきところではなかったか。ここは早々と退散。

2025/10/03

■ つかう ■ "北星鉛筆"に想う


 ダイソーで、北星鉛筆製#9900の6B(トップ画像手前)が、3本110円で販売されて久しいです。いや当初は4本110円だか108円だったと思います。

 北星鉛筆の#9900は、かつて、ダイソーで販売される以前は、北星鉛筆のトップグレードでした。

 セカンドグレードとして、#9500(トップ画像奥)が、HB, B, 2Bで、現在も存在し、一般に販売されていて入手性は比較的良いです。(ダイソーにて販売、ではなくて、AmazonやYodobashiで取扱い中です。)


 画像は、北星鉛筆メーカーWebsiteより。


 この話の内容からそれますが、ウェブサイトは、"htms xmlsn ="http://...")なので、ご覧になりたければご自身で。ついでに、このサイトの「鉛筆の正しい持ち方」は、とてもわかりやすくて参考になりました。

 さて、ダイソー扱いの#9900は、税抜きなら3本100円だから、1本33円ですネ。セカンドグレードだったはずの#9500は、1本あたり50円。一見すれば、逆転していますね。

 書き味は;

 ダイソー扱いの#9900の外観は、6Bらしく、極太の芯。丸軸ですが滑りにくいような高級感ある黒い塗装。国産の他の鉛筆には類のない手触りの良い塗装。しかも塗装は厚めです。削るのがなかなかたいへんでした。33円でいいんですか。うれしい!

 ら、....。これ、6B?...う、う~ん。正直に告白すると、薄くて、硬くて、その...。

 他方、#9500は。

 6Bはないので、ラインナップ中で最も濃い2Bを愛用しています。外観は、三菱の#9800やトンボの#8900といった普及価格帯品と同じ、濃緑色の六角軸。

 この品質の良さは、歴然です。三菱の#9800やトンボの#8900のような普及価格帯品にある、"サリサリ感"よりも、黒鉛含有量の多そうな、素晴らしい滑らかさ。筆跡も"2B"の表示を上回るような黒々としたものです。

 言っていいのかな、#9900の6Bより、#9500の2Bの方が、濃く、滑らかで、高品質なのは、2本同時に比べれば誰でもわかるのでは?

 いや、ハッキリ言いましょう。#9900は、#9500よりも、大幅に品質とコストを落とした、低級品です。現状で入手できる価格の序列の通り。

 のみならず、#9900には"6B"を称する価値は無いです。6Bの鉛筆が欲しいなら、三菱鉛筆のUni(エンジ塗装軸)シリーズか、トンボ鉛筆のMONO(黒塗装軸)シリーズ以外を買ったとして、満足を得られることは、無いです。硬筆書写の方、デッサンの方は、手を出さない方が...。逆に、"6B"を期待しないで、ふと太とした書き心地の筆記用として使えればそれで、というつもりなら、サリサリした書き味と、サラサラした心地よい塗装の手触りが楽しめるかもしれないです。

 他方、北星鉛筆の#9500は、しかし、--  #9500のB, 2Bをこの2年で1ダースずつ以上を使ってきて感じるのですが、--  その品質の高さは(その安い価格を大幅に上回って)、上のエンジ軸や黒軸に匹敵します。HBやBや2Bを使いたいなら、まず北星鉛筆の品質の良さと価格の安さは、購入する際の候補の筆頭です。

 ここからは憶測なんですが、北星が、ダイソーの販売網で販売できるとして、北星は、"ダイソーで売れる"と大喜びしたのかな。

 両者がその商談をする際に、強い立場って、どちらでしょうか。東京の下町の町工場に、強大な企業は、どんなことを要求したのでしょうか。

 北星が、従来の最高グレードを、リテール価格3本100円や4本100円の条件で卸して、利益の余地がある話だと信じる人類が存在しますか?

 外観は従来の最高グレードのまま、同時に、目に見えないけれど製品としての生命線である"芯"の品質だけを、ガックリと抜いたのではないかな、断腸の思いで...。

北星の無念たるや...。でも、ダイソーの販売網に乗せられることで、少なくとも知名度を得られそうですね。P/L(損益計算書)に金額で表示できる取引以外の利益と将来性が得られることを、願わずにはいられないです。

2025/10/02

■ あるく ■ みんなキレイに駐車した跡?


また田んぼの道をあるいて、遠い方の図書館を往復。

 雨が上がって、やや風は残りますが、秋晴れに向かいそうです。

 図書館開館と同時に着いたので、図書館が入っているショッピングモールの駐車場は閑散としています。、

 雨上がりの広い駐車場の舗装のへこみに、小さな水たまり。これ駐車車両のタイヤ跡では。猛暑でへこんだんですね。周囲を見渡すと、キレイに規則正しく水玉模様が...。

 往来のない静かな舗装農道をまたあるいて帰ります。追い風で無風に感じるところ、風切り音もピタリと止み、ステレオイヤホンの音が良いです。バッハの無伴奏バイオリンソナタとパルティータも、孤独感に満ちていますが、見渡す景色にすばらしく良く響き渡ります。

 この夏は、猛暑やらクマさんやらその怖いニュースやら珍情報やらで、やむなく自宅界隈の道をひたすらあるいたのですが、おかげでクルマはバッテリーが心配なくらいまるっきり使っておらず、しかも運動量(歩数)はこれまでになく増えたようです。


 毎朝(といっても起床時間は0:00amなんですが)計測する体組成計のBMI値は、20.6~20.8で9月は安定。"22.0じゃないから不健康"なのかな。

 体脂肪率は、毎日極端に変わるんですが、15%前後で、今朝は13.4%...。カラダも気分も軽快な気がするんですが。さんぽできる場を取っちゃったクマさんに感謝すればいいんですか。

2025/10/01

■ まなぶ ■ 教科書を読...まずに、絵を眺める(2) - 中学1年国語


国語教科書の、レイアウトに不満がある話その2...。

 個人的なぼやきを先日(🔗9/27)から続けているだけなので。

 どのお話の最後にも、著作者の顔写真と経歴が必ずあります。

 文庫本や新書などは、著作者の顔写真を掲載していないのがふつうでは。

 "教科書なんだから載せてよい/載せるべき"という議論があるのかもしれないのですが、ちょっと...。

 写真の写り方/写し方によって、見るすべての中学生の目には、カッコよかったり悪役風だったり、好みのタイプだったりその逆だったり...。それによって、読む内容の印象にも影響があったりしませんか。

 でも、"国語教科書"に必要なのは、「言語を通じて何が書かれてあるか」じゃないのかな。

 で、教科書の著述がきっかけで初めてその著作者に興味を持ったら、今どきの世の中、さらにどんどんその人の著作物に触れる手段は多様にあり、その過程で、顔や容姿や経歴など外見的な部分にいくらでも触れる機会があると思います。

 顔写真はその人のごく一面しか反映しない気がしますし、ましてやその書いた内容と顔写真は関係がないので、"教科書"にどうしても掲載する必要はない気がします。

 やはり前回同様、著述内容にとって、"ヴィジュアルな要素"があるせいで、ことばとその内容以外の、余計な印象を混入させている気がするんです。