■ お盆前から夏の酷暑は和らいでいますので、大好きな山あいの道をあるいて気分転換をしたいのですが、今日は強い雨が降ったりやんだり。いやそれ以前に、クマさんがすっかりこわくなり、山みちのさんぽにかわる別な気分転換をかんがえなくては。
■ クマさんの出没につき、ネットにて知見を広めようとすると、さまざまな個人の知見にも触れる機会があり、ぼやっとした私には、おおいに参考になります。
■ まったく思いもよらなかった新たな知見にも、いくつか触れました。ネット社会という満ち溢れる情報の海のおかげでしょうか。2つめのお話は、やはりお詳しい先日の同じ方(🔗8/18)のウェブログの別な日の記事。ごく一部を要約すると;
"昔は、里にクマが出て作物を荒らしたとなれば、(中略) 大勢の村の人たちがほら貝や鍋、釜、太鼓等を鳴らし、大騒ぎをすることで一定の方向にクマを追い込んでいき、猟銃を持つ人たちが待ち構えてクマを退治するというやり方が取られていた。仮にクマを逃したとしても、大勢の人間の怖さをしったクマは里を荒らしにこなくなる、という学習効果があった。..."
■ 日本昔話もビックリ!もっと詳しく知りたいのですが、具体的な出典や資料は、やはり今回も示されていないです。ネットでだいぶ調べたのですが、類似の情報が全くヒットしませんでした。
■ 1) どこの地方? この筆者の方は東北の方のようです。東北にはなんと広い未知の文化があることでしょう。
■ 2) "ほら貝、鍋釜、太鼓"の4点を、同時に装備してある家庭とは...。
■ "太鼓"を、村では、何に使ったのだろう...。
■ "ほら貝"を、村に住む一般の人が、どのような意図や用途で手元に常備しているのだろう...。
■ 時代的にいつ頃の話なのだろう...。鳴らすような鍋や釜、また猟銃といった金属器を所有する民間人がいるならば、明治以降。この方の記憶にあるとすれば、昭和のうちの戦後と、わりと最近...(戦後生まれの日本人の割合は9割)。
■ 3) クマを追い込むための大勢の村人の"大騒ぎ”とは...。「うぉー」という勝鬨みたいな? 周囲の山にいる数頭数十頭が複数回出没するたびに、そのような喧噪態勢で、道なき山中を駆け回るのは猛烈に疲れそう、というか、そのようなことが可能な"大勢の村人"は、みな特殊なトレーニングを受けたレンジャー部隊に近い技能と体力を日ごろから身につけていた...、そういう村が存在していた...。
■ "大騒ぎ"にはリズムや歌などがあった? とするならば、その"クマ追い歌"みたいなものは、もしかして、"南部牛追唄"みたいに、文化財保護法に基づく国の重要無形民俗文化財や登録無形民俗文化財などに指定される可能性、またはされている可能性も大きいです。
■ 4) "村人たちが大騒ぎにて一定の方向にクマを追い込み、待ち構えていた銃を装備した迎撃部隊にて退治"というスケールの大きな猟の仕方には、そうとうなチームワーク、日ごろのトレーニングが必要なことでしょう。どのような指揮系統、チーム編成、訓練形態(頻度や装備品の分担)、招集基準や規模が採られていたのでしょうか。
■ それらにより仕留めたクマの処分方法には、どのような村のルールが...。戦前ならば、軍需用・毛皮・肉・内臓の製薬用途など、一定の「クマ市場」や流通ルートがあり、クマ死骸に一定の財産的価値がありました。村ではどのように分配していたのだろう...。
■ またわかることとして、村ごとに、複数人数が、猟銃を所持し日常的に使用しているという背景的な基本的事実...。
■ 私の住むエリアの近隣には、白神山地があって、山中の旧"目屋村"のマタギの話は何度か聞いたことがあります。たしかに村で複数人が猟銃を使っていたのですが、県内の歴史でも非常に特殊な山奥の村です。対して、ここのお話に登場するほどのレベルと規模で村全体として知的で組織的なクマ狩りがなされる話は存在しなかったです。
■ 高校日本史で、桓武天皇の東北平定に付随して、"アテルイの乱(巣伏の戦い)(789年)"を学習します。圧倒的な先進武装兵力を誇る数千人規模の朝廷軍を、アテルイ率いる東北の蛮族数百人が、地形を利用した巧みな追い込みで壊滅させる話です。これに激怒した桓武天皇がついに坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ、徹底的な凄惨窮まる東北征伐を実行した、という経緯です。高校日本史Bの検定教科書にもWikipediaにも載っています。
■ この方のお話から推測するに、東北人のその壮絶な伝統を千年にわたって維持している恐るべき村々がごく最近まで存在していたにちがいありません。なぜそれが、ひろく日本人に知られていないのか、私が無知だっただけなのか、大いなる驚きの見聞だったとともに、非常に不思議な気もしました。