2023/12/06

■ きく - バッハ「オルゲルビュヒライン」BVW599-644; ヴァルヒャ


オルガン曲といえば、私ならば、この人のこれです。

 もうちょいウルさく書けば;

バッハ『オルゲルビュヒライン - 45のオルガンコラール集』のうちから 

 Nr 4. Lob sei dem allmächtigen Gott (BWV602) 

レーベルは、アルヒーフ Archiv Produktion (West Germany)

1969年9月のステレオ録音

オルガニストは、ヘルムート・ヴァルヒャ Helmut Walcha 

 今は、静かなこころ楽しさがある待降節の時期なので、45曲のうちの、第4曲目を。たった40秒たらずの曲です。

 1970年代後半に購入した画像のLP、アルヒーフの国内盤の訳では、この第4曲目は、「万能なる神に賛美あれ」と文語調でいかめしい表現ですが、曲はふわりと柔らかいです。

 どの曲も、ルター派の讃美歌の旋律です。ただしそのさらに元はラテン語の(つまりカトリックの) “Conditor alme siderum”(輝く星の創造主)に由来します。でも、言葉で補おうとすればするほど、難しげになりそうで、ごめんなさい。が、そんな前提知識は不要です。

 聴けば、柔らかく喜びにはずむ低音ペダルのリズム(下の画像の最上声部の四分音符 - 緑枠)と、軽やかな左手の対位法的装飾音(楽譜画像の十六分連符 - 黄枠)を伴って、高音域の右手旋律(画像の最上声部の四分音符 - 橙枠)が、四分音符のみの、単純で素朴でおおらかな下降旋律で弧を描きながら、少しずつ降りてきます。最後の和音は、上行する左手の装飾と交叉して、御座への昇天を予告します。

※ Bach 自筆譜 "Lob sei dem allmächtigen Gott (BWV602)"

 このペダル-緑枠と左手-が、最初の小節で、直感的にほっと息を吐きたくなるような、何もかも、後悔も悲しみも罪の意識も、ふわりと包み受け入れてくれるようなやすらぎがあります。

 待降節は、"神の子が人となって地上に降りる"神学的モチーフが必ず背景にあります。ゆえに、待降節用のコラールには、基本的には下降音型をもつ旋律的動機が用いられる点で共通しています(たとえば、ご存じのクリスマス讃美歌『きよし、この夜』ですが、この2文節のいずれも、旋律語尾は下降していませんか?)

 あ、そもそも「オルゲルビュヒラインOrgelbüchlein」とは、「オルガン小品集」「オルガンの小さな本」という意味です。バッハのこの曲集の定訳が表題のカタカナのみの音訳となっているので、無理に訳し直すならそういう感じでしょうか。

 この45曲は、教会暦にしたがって、1年を「降誕(12月)、新年、受難、復活、聖霊降臨、祈り、死(11月)」に分割し、それぞれに数曲ずつ、ルター派のコラールをもとにさまざまなオルガンの技法を記したものです。

 うち、待降節用に第1~14曲目、復活までで第32曲目までと、やはり降誕と復活には大きく割り当てられています。

 全盲のオルガン奏者ヴァルヒャは、バッハのオルガン曲全集を、モノラル時代とステレオ時代の2度録音しています。私は70年代前半の中学1年生かそこいらの頃に、バッハって、ヴァルヒャって、誰だかよくわからないまま、この曲集のFM放送をカセットテープに録音しました。曲集の途中から録音、途中で尻切れです。きびしいようなやさしいような、ひとりでよく考えてみよう、と語りかけるようなこの曲集...。何百回か聴いて、カセットテープはもつれて捨てる状態に。高校生になった16歳、70年代後半頃に、意を決してあのカセットテープに録音した音源である、冒頭の画像の2枚組LPレコードを、当時の価格5,000円で買いました。画像のLP音盤はもう傷だらけです。日本語盤ですので、磯山雅の解説和訳があり、買ってすぐ読みました。そのとき、演奏者年譜に、ヴァルヒャという人は「16才...全盲となる」と書かれてありました。

 心臓がつぶれる思いでした。幸せにもLPを買った私と同じ歳で...。どんな思いだったのでしょうか。それが自分だったら...。

 目を瞑って聴いてみたらどうだい? と、声をかけられている気がしました。

 目を瞑って音楽をきくようになったのは、その瞬間以来、今日まで、半世紀近く続いています。

 この第4曲の音、いや、この曲集全体の色調が、やわらかいのは、当時のクリアならざる録音技術のせいもあるでしょう。ラジカセでは、よく言えば神秘的な、ハッキリ言えばモヤっと曇った響きでした。

 LPをヘッドフォンで聴いて、やはり、やわらかく包み込む響きがしました。今でもです。また、この第4曲の1969年録音時の一次音源には、曲の最初しばらく録音技術上のバグ的な雑音「ザリ」音ノイズがあります。

 同時に、このやわらかい響きは、使用したオルガンの音の特徴も大きいと思います。

 オルガンは、歴史的に独仏の領有争いが絶えなかった「アルザス=ロレーヌ地方のストラスブール 」=「エルザス=ロートリンゲン地方のシュトラスブルク」にある、サン=ピエール=ル=ジュヌ教会(Saint-Pierre-le-Jeune, Strasbourg)のジルバーマンオルガンです(画像CD右のジャケット)。

 聖人信仰の教会名からしてカトリック教会ですが、このエリアの複雑な歴史的経緯から、バッハの時代にはもう現在のルター派教会となっているようです。

 オルガン制作者のジルバーマンは、バッハと同時代人です。このアルザスエリアは、当時はオルガンの名工らで名高く、彼はその代表格でしょう。建造後数年して当地に来たモーツァルトがこれを演奏した当初は、構造的に、マニュアル(手鍵盤)1段、ペダル(足鍵盤)数本程度だったに違いないのですが、200年の間に修復を重ねたようで、20世紀になって、その初頭に、あの「密林の聖者」シュヴァイツァー、彼もストラスブールの人ですが、その彼が、エルフェル社と共同で手直しをしたのを始め、1979年頃までに、マニュアルはレシ込みで3段鍵盤かつワイドレンジで大掛かりなペダルに拡張され、そうとう大型のオルガンになっているようです。

 ジルバーマン建造当時のストップ(同種発音を有する一群のパイプ配列群)も敢えて残して使っているようです。

■ LPの解説にはオルガンの説明もあり、改修歴とディスポジション(ストップ仕様)が、それぞれの風圧データに至るまで詳細に表示されています。

 発音の特色(音色)は、おそらくの推理...ですが;LPと、その後80年代にこれをCD廉価盤にて再販した同一録音を購入したのですが、その2種の音源を、目を瞑ってジッときいての推理でしかないのですが、そうとう大型のオルガンでありながら、おそらく、たいへんに柔らかい発音の特色、場合によっては、同じ大規模なサイズで20世紀に新建造されたオルガンと比べてかなり反応が鈍い特色、などを備えているのではないでしょうか。これをヴァルヒャは、小さな独楽(コマ)でも転がすように、自由自在に操っているような印象をもちます。

 その、ストラスブールのジルバーマンオルガン固有の発音の特色と、他の人ならぬヴァルヒャという歴史的存在が、他の曲ならぬオルゲルビュヒラインを選んで弾いている、という組合せが、私にはかけがえのない、生涯の出会いです。

2023/12/05

■ きく - オルガンって?

※カトリック関口教会(東京カテドラル聖マリア大聖堂); 関口教会ウェブサイトより

12月。クリスマスの月? それってキリスト教の話では。いや、でもニッポンの行事ですよね。もうニッポン固有ニッポン古来の伝統行事との固定観念もあろうかという勢いです。クリスマス=忘年会=飲み会という概念の正しさに疑問の余地もないニッポンのオッサンが、酔って帰宅途中、偶然通りかかったキリスト教会前を見て「へぇ、キリスト教でも、クリスマスをヤルのかぁ」と感心した話もあるくらいで。

 私は学校に通っていた時代に、親戚である浄土真宗のお寺に下宿していましたが、そのお寺には、他にも下宿生が、時期にもよりますが、中学生・高校生・大学生などが混在していたりして、この下宿生のために、冬休みの入りに、「クリスマスパーティー」もあったくらいです。え? 仏教寺院でクリスマスパーティをしていいのか!?...って?...(;^^A…イデオロギー上の論理的矛盾に気づいたとしても、ま、おカタいこと言わずに...。親元を離れて勉強する下宿生への、ささやかながらこころのこもった気づかいですよ。みんなのご飯を365日のあいだ毎日3食、当然お弁当もつくって、さまざま世話をしてくれた伯母さん(住職の妻)は、よほどたいへんだっただろうなと思います。

 で、今年は、教会の暦で、クリスマス前の待降節第1主日が遅くて、おととい12/3(日)だったそうです。それは何? だから何? で別にいいんですが、個人的な暦感覚では「真冬の入り」で、昼なお鉛いろにどんよりと暗い日がこれから3か月続くというこの地方で生きていると、待降節→四旬節と、気持ち的にもずっしりと重いです。よくわからない感覚でごめんなさい。

 そんな天候気候できく音楽は、i). 明るく軽く華やかな曲を聴く、ii) どんよりと暗い曲を聴く、の、実はどちらもそれなりに良いものです。i).の選択肢に飛びつきたくなりますが、私がここ半世紀ほどii).を選んでしまうのは、人格的問題か、いやそもそもそんな人格をこの気候風土が創ったのでしょうか...。いずれにしても、中世ルネサンス期の器楽なしの声楽かオルガン曲に限られてしまう現象があります...。

※ 左;ヤマハ創始期のリードオルガン組立工程 (YAMAHAウェブサイト) 
/ 右;日本最大のパイプオルガン (サントリーウェブサイト)

「オルガン」と言ったとき、ニッポンの庶民の私たち(あなたも引きずり込んですみません)にとっては、昭和の昔まではどこの小学校にもあった「足踏み式オルガン」を思い浮かべませんか? これを今「リードオルガン」と呼ぶことにします。他方で、CDで聴くオルガンは、日本では「パイプオルガン」と呼びならわしています。

 昭和の(特に津軽地方の)小学校の教室に1年中必ずあったのは、黒板・机・椅子のほかに、足踏み式のリードオルガンと石炭ストーブです。私の小学校時代の担任のうちの、男性の教員は、思い出してみれば、リードオルガンの操作が、実にぎこちなく、本人もつらそうで、つまりはっきりヘタクソでした(す、すみません!!...)。小学校教員は、今でもですが、鍵盤も水泳も必須なので、教員採用試験のハードルは高いのではないかと、無能な私は尊敬するとともによけいな勘ぐりをしてしまいます。

 リードオルガンは、明治期に宣教師たちが大量に持ち込み、国産され、文部省の唱歌教育で教育の場に隅々まで普及し、戦後に個人宅でも備える家庭が増えたそうです。ピアノメーカーの山葉(ヤマハ)も河合(カワイ)も、出自はオルガン製造者です。が、その後、作曲者や演奏者が、個人的に、操作しやすく、かつ、より感情的芸術的ニュアンスを伝えやすいピアノに取って代わられたようです。

 パイプオルガンは、教会の構造の一部であって、建造にも維持にも莫大なコストがかかり、巨大で専門的です。現在は、私たち庶民レベルから見ると、典礼と芸術鑑賞用途のみで、日常生活には縁がない遠い存在です。

 ただ、LPやCDのおかげで、私のような末端の庶民でも、自宅で気軽に聴くことが可能です。

 でも、聴くと、ピアノを聴くのとも管弦楽や室内楽を聴くのとも違う気分です。もちろん、ミサや礼拝のような典礼に与っている気分ではない。けど、芸術作品を鑑賞している気分とも違うような気がします。何か、うまく言えないのですが、たとえば、自分用にきっちりPCで制作したリフィルを革手帳に整え、本来あるべき自分について、構想し、具体的に計画し、予定に落とし込み、達成度を確認し、これにより方向を修正し、...などといった、かるい緊張感のもとで、ちょっとちゃんと省察してみようか、という気になるんですよ。いや別に、オルガン曲を「机に向かって」「正座して」聴くハズがなくて、横になって聴いていたとしても、そういう気になります。

 ここまでまとめてみて考えると、なんだかこんな天候気候・風土のなかで一人で目を瞑って聴くという自分のスタイルができてきたのもしょうがないか、せっかくここまで意識したことだし、これからは少し目的意識を持ってオルガン曲を聴こうかなと思います。

2023/12/04

■ なおす - TVを見た記憶 - 3

Chaplin; "The Gold Rush" 1925

さらにまた昨日の続きです;これまでの一生の間TVを見た経験が五指に収まる生きる化石のヒトの思い出話;

 5). 東京で大学生だった頃の1980年代に、知人からもらった古くて小さいブラウン管TV。今では考えられない「12型画面」でした。今どきは「タブレット」の画面サイズです。が、異様に長い奥行きで、片手では重すぎるくらい。年配の人である前の持ち主によると、SONYだったか松下(Panasonic)だったか著名ブランドの、小さいけど高性能品高額だ、使わないようだったら他に有効活用してくれそうな人に譲ってよい、と、言われました。私には価値がよくわからなかったです。「なんとかに真珠、かんとかに小判」です。もらった当時の私の東京の下宿は、山手線のど真ん中だったものの戦前のはるか昔に建てられた古い木造家屋で、私の部屋は、二階の角部屋でしたので、二面が障子&廊下。その畳の部屋にTVをじかに置いただけです。

 TVをもらったその日、下宿のおばさんから聞いたところでは、私の部屋の隣の6畳の部屋にいる台湾からの留学生Kさんのところに、彼の後輩Tさんという人が台湾から初来日し、住まいが決まるまでの1,2か月間、6畳に2人で寝泊りする状態になるとのこと。

 私はさっそく二階に上がって、Kさんの部屋の襖に声をかけると、Kさんはおらず、初対面のTさんが、ヘタったジャージ姿で、臆病なふうにちらりと襖をあけて、日本語で挨拶します。聞くとすぐ外国人の日本語とわかるのですが、上手で語彙も豊富です。立ち話をすると、彼の人生初の日本に到着して初日のまだ数時間。長旅の疲れを、彼の人生初の「銭湯」で癒して帰って来たばかりで、日本の「銭湯」に面食らった事、いや、それはどうでもいいのですが、私と同じ年で、台北にある臺灣大學で台湾現代史を研究中です。日本語は幼少時からそうとう勉強したが、日本で日本人と会話するのは今日が初めて。このたび経済学部に国費留学とのこと...。ヘボいジャージ姿なのは、状況的に当然の話として、見かけとは違って、よほど優秀なヒトじゃないだろうか。こちらもかしこまってしまって、大げさにおカタい挨拶をします。

 襖を閉めて、自分の部屋でチョっと本を読みかけましたが、TVもつないだところだし、新しい住人の彼の存在もあって、かなり気が散ります。この際、もう少し話をして、打ち解けた方が、安心して暮らせるかな、と思いますが、キッカケがありません。

 また、TVの使い方なんかわからないので、ひとまず電源を入れいろいろ操作していると、チャップリンの『黄金狂時代』が始まったばかりのようです。私はその頃は、チャップリンの映画は全く見たことがありませんでした。でも、「チャップリン=喜劇王」という一般的な知識はあったので、コレだ、と思い、すぐTさんに、よければいっしょにTVでチャップリンを見ないか、と声を掛けました。

 彼も喜んで私の部屋に...。が、TVの小ささにたじろいだ表情です。とはいえ、お互い、TVや映画が目的ではなく、少し話をした方がいいかなと、互いに思っていたんだと思います。畳にぺたんと座って、小さい画面を見るともなく話をします。

 『黄金狂時代』は、トーキー以前の映画で、セリフがありません。時々、紙芝居のように、セリフや状況らしきものが英文で書かれたパネルが写されるだけ。視聴するに際しての言葉の障壁は無いようです。彼も私もチャップリン映画を見るのは初めてです。

 当初は、見るともなく、台湾から今日初めて日本の土を踏んだ彼のことについて、日本語で、チョっと不自由なときはお互いカタコトの英語で補足しながら、いろいろと聞きます。彼もフランクに話してくれて、話は弾みます。

 と同時に、映画がおもしろくなってきました。映画の中で、吹雪で一夜にして、眠っていた二人が山小屋ごと飛ばされて、知らずに目覚めた二人が今いるのは断崖絶壁の隅でシーソー状態で揺らめいている小屋、という箇所ですが(上の画像)、あまりにおかしくて、お互い、笑って笑って、涙は出る、洟は出る、息はできない、で、二人とも七顚八倒の苦しみに見舞われました。

 それ以来、彼とは仲良しになりました。このときばかりは、言葉の壁など無いチャップリンの映画とTVの存在に感謝します...。このTVは、実は、すぐ翌日、彼にあげました。日本語に慣れるかなとお互い期待して。彼もそのSONYだか松下だかのブランドを見て喜び恐縮していましたが、もらう際の彼の日本語は「このような、超小型で超高性能な家電製品は、日本のお家芸ですよね。」と。日本初来日の初日とは思えない語彙を使いこなしていたんですよ。

 一週間ほどして、彼は、大学の紹介で、某研究所の社員寮の一室を借りられることになり、私の下宿からはいなくなりましたが、その後もよくここに遊びに立ち寄りました。その折に彼からもらった烏龍茶『凍頂』の特級品と簡単な茶道具一式で淹れた茶のおいしかったことといったら!

 あげたTVですが、その半年後くらいに「今度日本に来た後輩に譲ってよいか」と、たいへんていねいな文面のハガキで私に問い合わせてきました。律儀な人です。

 彼はもう今では見上げるような高みで後進の指導をする立場ですが、あのときの小さいTVで笑った思い出が、ニッポン留学で真っ先に思い出す楽しい思い出、とのことです。