2023/12/04

■ なおす - TVを見た記憶 - 3

Chaplin; "The Gold Rush" 1925

さらにまた昨日の続きです;これまでの一生の間TVを見た経験が五指に収まる生きる化石のヒトの思い出話;

 5). 東京で大学生だった頃の1980年代に、知人からもらった古くて小さいブラウン管TV。今では考えられない「12型画面」でした。今どきは「タブレット」の画面サイズです。が、異様に長い奥行きで、片手では重すぎるくらい。年配の人である前の持ち主によると、SONYだったか松下(Panasonic)だったか著名ブランドの、小さいけど高性能品高額だ、使わないようだったら他に有効活用してくれそうな人に譲ってよい、と、言われました。私には価値がよくわからなかったです。「なんとかに真珠、かんとかに小判」です。もらった当時の私の東京の下宿は、山手線のど真ん中だったものの戦前のはるか昔に建てられた古い木造家屋で、私の部屋は、二階の角部屋でしたので、二面が障子&廊下。その畳の部屋にTVをじかに置いただけです。

 TVをもらったその日、下宿のおばさんから聞いたところでは、私の部屋の隣の6畳の部屋にいる台湾からの留学生Kさんのところに、彼の後輩Tさんという人が台湾から初来日し、住まいが決まるまでの1,2か月間、6畳に2人で寝泊りする状態になるとのこと。

 私はさっそく二階に上がって、Kさんの部屋の襖に声をかけると、Kさんはおらず、初対面のTさんが、ヘタったジャージ姿で、臆病なふうにちらりと襖をあけて、日本語で挨拶します。聞くとすぐ外国人の日本語とわかるのですが、上手で語彙も豊富です。立ち話をすると、彼の人生初の日本に到着して初日のまだ数時間。長旅の疲れを、彼の人生初の「銭湯」で癒して帰って来たばかりで、日本の「銭湯」に面食らった事、いや、それはどうでもいいのですが、私と同じ年で、台北にある臺灣大學で台湾現代史を研究中です。日本語は幼少時からそうとう勉強したが、日本で日本人と会話するのは今日が初めて。このたび経済学部に国費留学とのこと...。ヘボいジャージ姿なのは、状況的に当然の話として、見かけとは違って、よほど優秀なヒトじゃないだろうか。こちらもかしこまってしまって、大げさにおカタい挨拶をします。

 襖を閉めて、自分の部屋でチョっと本を読みかけましたが、TVもつないだところだし、新しい住人の彼の存在もあって、かなり気が散ります。この際、もう少し話をして、打ち解けた方が、安心して暮らせるかな、と思いますが、キッカケがありません。

 また、TVの使い方なんかわからないので、ひとまず電源を入れいろいろ操作していると、チャップリンの『黄金狂時代』が始まったばかりのようです。私はその頃は、チャップリンの映画は全く見たことがありませんでした。でも、「チャップリン=喜劇王」という一般的な知識はあったので、コレだ、と思い、すぐTさんに、よければいっしょにTVでチャップリンを見ないか、と声を掛けました。

 彼も喜んで私の部屋に...。が、TVの小ささにたじろいだ表情です。とはいえ、お互い、TVや映画が目的ではなく、少し話をした方がいいかなと、互いに思っていたんだと思います。畳にぺたんと座って、小さい画面を見るともなく話をします。

 『黄金狂時代』は、トーキー以前の映画で、セリフがありません。時々、紙芝居のように、セリフや状況らしきものが英文で書かれたパネルが写されるだけ。視聴するに際しての言葉の障壁は無いようです。彼も私もチャップリン映画を見るのは初めてです。

 当初は、見るともなく、台湾から今日初めて日本の土を踏んだ彼のことについて、日本語で、チョっと不自由なときはお互いカタコトの英語で補足しながら、いろいろと聞きます。彼もフランクに話してくれて、話は弾みます。

 と同時に、映画がおもしろくなってきました。映画の中で、吹雪で一夜にして、眠っていた二人が山小屋ごと飛ばされて、知らずに目覚めた二人が今いるのは断崖絶壁の隅でシーソー状態で揺らめいている小屋、という箇所ですが(上の画像)、あまりにおかしくて、お互い、笑って笑って、涙は出る、洟は出る、息はできない、で、二人とも七顚八倒の苦しみに見舞われました。

 それ以来、彼とは仲良しになりました。このときばかりは、言葉の壁など無いチャップリンの映画とTVの存在に感謝します...。このTVは、実は、すぐ翌日、彼にあげました。日本語に慣れるかなとお互い期待して。彼もそのSONYだか松下だかのブランドを見て喜び恐縮していましたが、もらう際の彼の日本語は「このような、超小型で超高性能な家電製品は、日本のお家芸ですよね。」と。日本初来日の初日とは思えない語彙を使いこなしていたんですよ。

 一週間ほどして、彼は、大学の紹介で、某研究所の社員寮の一室を借りられることになり、私の下宿からはいなくなりましたが、その後もよくここに遊びに立ち寄りました。その折に彼からもらった烏龍茶『凍頂』の特級品と簡単な茶道具一式で淹れた茶のおいしかったことといったら!

 あげたTVですが、その半年後くらいに「今度日本に来た後輩に譲ってよいか」と、たいへんていねいな文面のハガキで私に問い合わせてきました。律儀な人です。

 彼はもう今では見上げるような高みで後進の指導をする立場ですが、あのときの小さいTVで笑った思い出が、ニッポン留学で真っ先に思い出す楽しい思い出、とのことです。