2023/09/30

■ なおす - 草むしり


なんということもない、家周辺の草むしりをしました。きれいな写真でもなんでもないので、小さい画像で。

 大邸宅でも農家でもないので、笑ってしまう程度の小さな敷地内ですから、手でむしるだけです。画像は、それまで両側が緑豊かな田舎道だったのを、強引にコンクリとアスファルトと廃屋同然の建物だけから成る、田舎町のうらぶれた灰色一色の小路の光景にしたところです。画像左の2棟分の四辺、画像奥になんとな~く見えている緑壁の建物の手前まで。と、幅員3.5m道路を挟んだ向い、画像右の小さな縫製工場の1辺を。この工場は敷地内に空き地が広くて、冬は、すぐ近くの小学校の通学路になっているこの狭い道路を早朝に除雪し、右の敷地内に、その雪を、工場の社長さんの許諾を得て、毎日のように一時的に山積み状態で置かせてもらっています。春になって暖かくなったらお日様にも手伝ってもらって雪をきれいにしてお返ししています...(;--A...で、ですので、無雪期はその敷地と道路境界の草むしりをさせていただいております。

 それでも、手でむしって1時間かかります。たいした画像でもない上の左端のゴミ袋1ツ分です。今年は5月~9月の間、ほぼ毎月やっているからその程度で済んでいます。で、除草剤を希釈して2ℓにし、2回、計4ℓ噴霧して30分。長袖とシリコン手袋必須です(...単なる備忘録です)。

 蛇足です。左の朽ちた建物は私の倉庫兼住居です。この汚れはてた建物壁土台と道路の細い境目に雑草が生い茂るのですが、その草の中に、ラズベリー(=フランボワーズ=木苺)があります。棘があるツルが壁をよじ登ろうとし、赤い実をけっこうたくさんつけ、人目につきます。汚れはてた画像左側の壁は、実はかえって放置すれば、ラズベリーのフレッシュ・グリーンの光景にすることが可能です...。それを今日また徹底的に引っこ抜いたわけで...。

 実はコレは、私が原因を作ってしまいました。1990年代から、この地でチャリ(ロードバイク)を楽しんでいて、以前は、ここから直接、周辺の野山までチャリで自走して、愉快に堪能しておりました。そのさいちゅうに、野山にて、運動中のことですのでのどが渇きます。水ボトルは当然持参。湧き水ポイントもあります。この界隈の田んぼのあぜ道やりんご畑周辺にラズベリーはいくらでも自生しています。農作業の軽トラに踏まれて赤くぐちゃぐちゃになったラズベリーはどこにでも見られます。元気に生えている果実を手で摘み、ボトルの水で洗って土ぼこりを流し、いきなり食べます。初夏から秋までを通じていくらでも生えているのですが、ラズベリーは種が硬いので、そうたくさんは食えず、チャリのジャージのポケットに入れておきます。また峠道や山頂で食べるつもりです。

 食べないまま自宅に戻ったりします。その際にポケットのラズベリーを、たいていは紙に包んでゴミ箱に捨てるのですが、自宅周辺に落としたことも何度もあり何年にもわたります。その果実の種子をどうやら風や虫がこの古い倉庫の軒下まで運んでくれて、軒下に多年生の株が、もしかしたら大群落となって残っているようです。春になると日光を求めてツルをのばし、葉を広げ、実をつけます。先月引っこ抜いたばかりなのに今日はすでにまた...。猛烈な生命力です。通学路なので、よく小学生たちが赤い実を発見して盛り上がっていることがあります...。なるべくマメに毎月草むしりをする理由の一つだったりします。

2023/09/29

■ あるく - オートバイの利点


あるくことを楽しめるポイントまで、クルマやオートバイや自転車で出向きます。あるくのが目的ならば、自宅付近をあるけばよい、あるくためにクルマやオートバイを使うなんて矛盾だ、と思うのですが、7/24に書いたように、私の自宅は、比較的街中の住宅街なので、交通繁雑で喧噪と排気ガスのアスファルト道路をあるいても、あまりわくわくした気分転換になりませんので、楽しめるかどうかという点では、いっそ緑が豊かなポイントまで出向きたいという気持ちがあります。

 そんな場所は、歩けるような近くにはないので、動力を利用するというわけです。が、この空前のガソリン高で、それも気が引けるようになってきました。クルマは最も快適ですが、手持ちの車両の燃費は、近隣の田園地帯を往復して、軽トラのダイハツハイゼット(CVT)が16km/ℓ弱、ロードスター(MT)が20km/ℓ弱といったところです。

 他方、オートバイもあります。昨年夏の9月に、別な構想を描いて発注したのですが、今年の6月に納車になりました...。その間に私の生活が激変してうっとりした構想など消え、もう注文など販売店側で忘れたか、供給不足のメーカー側による自然キャンセルなのかと思っていた頃...。当初の用途はなくなりましたし、すぐこのまま売却処分しようかなと思いましたが、気を取り直して、幸運に感謝し、リターンライダーの末端に加えてもらうことにします。で、もっぱら、夏以来おなじみの、青森県道2号屏風山内真部線の内真部森林公園の往復にのみ使っている状態です。

 交通量の多い街中を6分ほどで抜け出し、田園地帯を貫く快適な国道バイパスを12分あまり駆け抜け、県道の山岳路を12分ほど上り、向う側に6分ほど降りて、森林公園に到着。片道27.0km、約40分程度の旅です。ペースはゆるいです。走っているクルマを追い越すことはありません、それが広いバイパスで前を走るのが農家のおばあちゃんの運転するゆったりペースの軽トラであっても。すると、燃費は、メータークラスタのデジタル燃費計では、ほぼ決まって36.6km/ℓです。軽トラの半分以下の燃費です。

■ 以上より燃費を計算すると、近隣のレギューラーガソリン価格が今日の時点で172円/ℓですので、私の1回の往復には258円かかることになります。

 この山岳路は、片側0.8車線な(?)、狭く、曲がりくねり樹木で見通しが利かず、舗装が荒れ果てた道。軽トラは恐るべき乗り心地で、また、今や3ナンバーとなったロードスターは道の狭さと視界の悪さで、チョッと気持ちが重いです。オートバイで森の雰囲気を楽しみながらゆっくり行きましょう。

 その際には、四輪が逆立ちしてもマネできないオートバイの楽しさである「コーナーリング」をチョッピリ味わいましょう。

 以上の、「燃費の良さ」「狭隘路での身軽さ」「コーナーリングの楽しさ」が、オートバイの決定的な利点でしょうか。なお、「ツーリング」「キャンプツーリング」というスケールの大きな楽しみ方があるようですが、そんな洒落たテクニックが私にはないので、キッパリあきらめることにしています。

 オートバイを往復で1時間半、田園地帯の快走路と山道とを楽しみ、ひば樹林帯の山道を深呼吸しながら小一時間ほどウォーキングして、計2時間半の大いなる気分転換が258円。高い!とは思えないです。とはいえ、技術的に低レベルな今の私は、50ccのスーパーカブでもじゅうぶんなくらいですが、幸い買えた今のバイクで、調子に乗って転倒事故など起こさないようつねに気をつけて楽しむことにします。

 今週に入っていきなり気温が下がりました。先週の月・火(9/18, 19)など昼間は30℃越えていたのに、今週の月曜(9/25)は朝の最低気温が11℃台。今9/29pm1:00の気温は24℃で湿度38%と、夢のような爽やかな天気です。気温の下がり方が大きい年は、紅葉がきれいです。今日はまだ山の景色は緑一色ですが、もう来週には、ぶなのきれいな紅葉が始まりそうです。

2023/09/28

■ まなぶ - 宮沢賢治「セロ弾きのゴーシュ」は良い話ですか?

宮沢賢治『春と修羅 - 竹と楢』- 青空文庫

宮沢の童話は有名です。でも、文学など理解する能力のない私にとっては、打ち明けますと、実は、楽しくありませんでした、ず~っと。

 「童話」の基本概念の典型は、無知蒙昧な私にとっては、古いところでは「イソップ物語」、「グリム童話」、より下っては新見南吉です。

 人類に愛と憎しみと殺し合いをもたらし続けている人類の三大宗教。「イソップ物語」は、それ以前に成立し、宗教以前の、人類である限り誰にでも理解できる素朴な慈しみの感情と教訓が満ち溢れていて、読む都度に心打たれます。16世紀に法王庁が世界中に「派兵」した法王秘蔵の精鋭特殊工作部隊であるイエズス会士が、あらゆる地球上の奥地の謎の人類の部落に入り込み、死屍累々たる苦難の末に現地の人類をカトリック教化できた理由はいくつか挙げられます。うち、現地語の教材をイソップ物語で作成することによって、後輩宣教師の現地語理解の速度を速め、かつ現地人の共感を必ず得たという事実も、またそれに資するものと、私は勝手に推理し納得しています(これを一人合点というのですが...)。

 民間伝承「グリム童話」はそれよりも極度に狭く暗く愚昧な背景を感じますが、それでも話の楽しさは、グリムらの手腕に与る所大ですが、もう抜群です。

 これらすべてを心得た上で、子どもに、いやあらためて読む人なら誰であっても、童話らしいあたたかい感動や美しい日本の背景を呼び起こして与えてくれるのが、新見南吉のお話です。

 そのようにしてつくられた私の「童話」の概念から期待して宮沢の「童話」を読むと...。

 「ゴーシュ」は、子どもの頃に、子ども向けに書かれたこの話を読んで、漠然とつまらなさを感じ、かつ、心が痛んだ記憶があります。小学校のときに、子ども向けにつくられたこの話の映画を見て、つまらなく、かつ、心が痛みました。 大学生になって、本が簡単に手に入る環境になって、原典を読んで、つまらなく、かつ、心が痛みました。

 ゴーシュは粗野な人間で残虐趣味があります。極端な練習不足のままセッションに出向くこと、喫煙癖があること、など、自己統制力の欠如した人格です。対等に語る人格者となってお願いにあらわれたすべての動物たちに、ひどい「言葉の暴力」を浴びせ、法律上の定義である物理的有形力そのままの「暴力」を加え、本人はそれを暴力だとわきまえていない人格です。

 もっとも「喫煙」や「それが暴力にあたるか」という基準は、百年たった21世紀の日本の価値観とは違うので、その点は非難してもムダです。が、その人柄の全体的な粗雑さとストーリーのとげとげしさや読後の充足感のなさや哀しさ、という点で、もう読みたくない「童話」、子どもにはまさか勧められない「童話」...。

 「料理店」も、落ちのあざとさはわかるのですが、読んだあと、楽しいか・充実感があるか・心温まるか、という基準は遠く満たさないでしょう。他の「銀河鉄道」「電信柱」「雪渡り」に、ストーリー性を期待しても、何一つ腑に落ちてこない、どころか、「電信柱」などは一読して心を病んでいるのではないか、などと勘ぐります。この観点から、精神病理学会界隈での研究が盛んなようです。

 最近になって、...と、ここまで書いてきた罵詈雑言を取り繕おうとあわてているところなんですが...、図書館に出入りできる時間が増えたり、青空文庫やアマゾン・キンドルで著作権フリー = お財布フリーの宮沢作品が好きなだけたくさん読めるようになった最近になって、一連の『春と修羅』のような詩集を読めるようになり、チョっと読んではチョっと考えてきました。

 西洋的な「独立した個人vs社会」、「我と彼」、の線引きをするところから始める発想とは、別な山に登って景色を見ているようです。また、仏教輪廻のような、時間軸という座標軸も彼からは欠落している気がします。

 「我」は「世界」とは線を引くことのできないような、つながった同じ成分組成の存在のような...。たとえば、の感覚的なたとえの話ですが、肺胞や柔毛の突起組織の1つが「我」で、それは肺嚢や小腸という器官や毛細血管やリンパ管からなる有機的な「世界」の一部品のような存在のしかたをしているのではないのかなと思います。「我」という柔毛が充実しその存在を主張するときは、栄養素や酸素のような外からの物質が「我」の細胞膜付近を盛んに透過して取り込み、血液やリンパ液が相応する物資をやり取りする流速が速く、「我」は激しく活動し肥大化している状態で、その「我」も、その後一時活動が不活発になったり停止したり、そして最後は病変や壊死したりするでしょう...

...え? 「お前が病んでいるのではないか」って?......そ、そうかもしれない気になってきました。

 ただ、宮沢が精神を病んでいないことは、それを客観的に文字で表現できる時点で明らかではないでしょうか。加えて、たとえば、『春と修羅』では、叫びや異なる内面の声を、性質に応じて、段落文頭の複数種類の文字下げや複数種類のカッコの使用で区別し、ト書きで全体を制御することによって、詩の構造を整理しています(例えば、上の画像)。人格的に病的な解離ではないのはハッキリしています。

「ゴーシュ」という名前にしても、仏語  “gauche” = maladroit et disgracieux (不器用で見苦しい), 転じて英語 “gauche” [góʊʃ] = neither ease or grace; unsophisticated and socially awkward (粗野な; 安らかさも優雅さもなく, 洗練されておらずかつ社会的に引っ込み思案) の発音に着想したネーミングではないでしょうか。つまり、そういうキャラクターとして客観的に認識していたのではないでしょうか。

 だとして、宮沢が、お話の中で、アピールしたかった抽象的な理念は何なんだろうな、と、しかしながら、いまだに思います。と同時に、だんだん、「つまらなくて心が痛む話ばかりで、もう読みたくない」とばかりもいえない存在になりつつあり、毎日玄米(に似た五分搗き米)2合と味噌と少しの野菜を食べては、『春と修羅』の詩を何度も何度も読んでいるところです(あの、玄米は「四合」も食えないです)。