2023/09/28

■ まなぶ - 宮沢賢治「セロ弾きのゴーシュ」は良い話ですか?

※ 宮沢賢治『春と修羅 - 竹と楢』- 青空文庫

宮沢の童話は有名です。でも、文学など理解する能力のない私にとっては、打ち明けますと、実は、楽しくありませんでした、ず~っと。

 「童話」の基本概念の典型は、無知蒙昧な私にとっては、古いところでは「イソップ物語」、「グリム童話」、より下っては新見南吉です。

 人類に愛と憎しみと殺し合いをもたらし続けている人類の三大宗教。「イソップ物語」は、それ以前に成立し、宗教以前の、人類である限り誰にでも理解できる素朴な慈しみの感情と教訓が満ち溢れていて、読む都度に心打たれます。16世紀に法王庁が世界中に「派兵」した法王秘蔵の精鋭特殊工作部隊であるイエズス会士が、あらゆる地球上の奥地の謎の人類の部落に入り込み、死屍累々たる苦難の末に現地の人類をカトリック教化できた理由はいくつか挙げられます。うち、現地語の教材をイソップ物語で作成することによって、後輩宣教師の現地語理解の速度を速め、かつ現地人の共感を必ず得たという事実も、またそれに資するものと、私は勝手に推理し納得しています(これを一人合点というのですが...)。

 民間伝承「グリム童話」はそれよりも極度に狭く暗く愚昧な背景を感じますが、それでも話の楽しさは、グリムらの手腕に与る所大ですが、もう抜群です。

 これらすべてを心得た上で、子どもに、いやあらためて読む人なら誰であっても、童話らしいあたたかい感動や美しい日本の背景を呼び起こして与えてくれるのが、新見南吉のお話です。

 そのようにしてつくられた私の「童話」の概念から期待して宮沢の「童話」を読むと...。

 「ゴーシュ」は、子どもの頃に、子ども向けに書かれたこの話を読んで、漠然とつまらなさを感じ、かつ、心が痛んだ記憶があります。小学校のときに、子ども向けにつくられたこの話の映画を見て、つまらなく、かつ、心が痛みました。 大学生になって、本が簡単に手に入る環境になって、原典を読んで、つまらなく、かつ、心が痛みました。

 ゴーシュは粗野な人間で残虐趣味があります。極端な練習不足のままセッションに出向くこと、喫煙癖があること、など、自己統制力の欠如した人格です。対等に語る人格者となってお願いにあらわれたすべての動物たちに、ひどい「言葉の暴力」を浴びせ、法律上の定義である物理的有形力そのままの「暴力」を加え、本人はそれを暴力だとわきまえていない人格です。

 もっとも「喫煙」や「それが暴力にあたるか」という基準は、百年たった21世紀の日本の価値観とは違うので、その点は非難してもムダです。が、その人柄の全体的な粗雑さとストーリーのとげとげしさや読後の充足感のなさや哀しさ、という点で、もう読みたくない「童話」、子どもにはまさか勧められない「童話」...。

 「料理店」も、落ちのあざとさはわかるのですが、読んだあと、楽しいか・充実感があるか・心温まるか、という基準は遠く満たさないでしょう。他の「銀河鉄道」「電信柱」「雪渡り」に、ストーリー性を期待しても、何一つ腑に落ちてこない、どころか、「電信柱」などは一読して心を病んでいるのではないか、などと勘ぐります。この観点から、精神病理学会界隈での研究が盛んなようです。

 最近になって、...と、ここまで書いてきた罵詈雑言を取り繕おうとあわてているところなんですが...、図書館に出入りできる時間が増えたり、青空文庫やアマゾン・キンドルで著作権フリー = お財布フリーの宮沢作品が好きなだけたくさん読めるようになった最近になって、一連の『春と修羅』のような詩集を読めるようになり、チョっと読んではチョっと考えてきました。

 西洋的な「独立した個人vs社会」、「我と彼」、の線引きをするところから始める発想とは、別な山に登って景色を見ているようです。また、仏教輪廻のような、時間軸という座標軸も彼からは欠落している気がします。

 「我」は「世界」とは線を引くことのできないような、つながった同じ成分組成の存在のような...。たとえば、の感覚的なたとえの話ですが、肺胞や柔毛の突起組織の1つが「我」で、それは肺嚢や小腸という器官や毛細血管やリンパ管からなる有機的な「世界」の一部品のような存在のしかたをしているのではないのかなと思います。「我」という柔毛が充実しその存在を主張するときは、栄養素や酸素のような外からの物質が「我」の細胞膜付近を盛んに透過して取り込み、血液やリンパ液が相応する物資をやり取りする流速が速く、「我」は激しく活動し肥大化している状態で、その「我」も、その後一時活動が不活発になったり停止したり、そして最後は病変や壊死したりするでしょう...

...え? 「お前が病んでいるのではないか」って?......そ、そうかもしれない気になってきました。

 ただ、宮沢が精神を病んでいないことは、それを客観的に文字で表現できる時点で明らかではないでしょうか。加えて、たとえば、『春と修羅』では、叫びや異なる内面の声を、性質に応じて、段落文頭の複数種類の文字下げや複数種類のカッコの使用で区別し、ト書きで全体を制御することによって、詩の構造を整理しています(例えば、上の画像)。人格的に病的な解離ではないのはハッキリしています。

「ゴーシュ」という名前にしても、仏語  “gauche” = maladroit et disgracieux (不器用で見苦しい), 転じて英語 “gauche” [góʊʃ] = neither ease or grace; unsophisticated and socially awkward (粗野な; 安らかさも優雅さもなく, 洗練されておらずかつ社会的に引っ込み思案) の発音に着想したネーミングではないでしょうか。つまり、そういうキャラクターとして客観的に認識していたのではないでしょうか。

 だとして、宮沢が、お話の中で、アピールしたかった抽象的な理念は何なんだろうな、と、しかしながら、いまだに思います。と同時に、だんだん、「つまらなくて心が痛む話ばかりで、もう読みたくない」とばかりもいえない存在になりつつあり、毎日玄米(に似た五分搗き米)2合と味噌と少しの野菜を食べては、『春と修羅』の詩を何度も何度も読んでいるところです(あの、玄米は「四合」も食えないです)。