2023/04/09

■あるく - 「冬季閉鎖道路」開通


十腰内のリンゴ畑を貫く農道について、2週間前の3/26(※画像左)にご覧いただいた画像は、キンと冷えた空気でお日さまと雪の照り返しが妙に目に痛い、剪定シーズン開始頃の光景でした。

あの日とは違い、春の2週間を経た今日の道(※画像右)は、もはやとっくに開通し、奥津軽の山あいも春爛漫。画像右側の農園の花は、りんごではないです。桃か梨でしょうか。りんごの木は、画像の左側斜面で、つぼみとなって待機でしょうか。それもあと1,2週間で開花しそうです。

2023/04/08

■こわすつくる - 実家整理 - 仏壇閉眼供養2

 

※ 画像は、フリー素材です。

■ まずは、菩提寺を訪問して相談することにします。

■ が、ここの住職はたいへんに多忙な事は承知なので、おそらくいらっしゃらないだろうと思い、具体的な事情と希望の供養日時の候補を、見やすいよう、ワープロで事務的な文書を作成用意して、持参します。

■ で、やはり、お寺には不在でした。留守番の方に、要旨を述べて文書を手渡します。

■ その帰途、たまたま年来の知己を得ている生花店さんがいますので、思い余って相談してみました。

■ 花店でご対応いただいた方が、「ご供養は可能だが、その段取りは、私がすぐには答えられないので、折り返し、詳しい者から電話させる。」とのこと。あまり期待せず、帰宅して待ちましたら、ほどなくして電話あり。

■ お電話をくれた方は、たいへんに詳しい方でした。

これも、この場で公開するには障りがありそうですし、地方により事情は大きく異なると思いますが、読んでくださる差し迫った事情のあるあなたにとって、ほんの少しでもご参考になれば…(私がそうだったからです);

・宗派によっては、魂抜きの段取りが非常にやっかいなので、住職に事前に通じておくのはもちろんのこと、経験のある第三者にもあらかじめ周到に相談しておくべき。

・今の私の「実家処分」状態の自宅で執り行なうとすれば、ご仏前・お花・お膳・果物・菓子・お燈明などの「霊前仏前一式」のセッティングが非常に困難だと思われる。(要するに、そんな状況でできるわけないだろう、という感じです。突き放した言い方ではなく、同情していただいている口調でした)

・現実問題としては、寺に出向いて供養することを強く勧める。住職に願い出た方がよい。

・私の菩提寺の場合については、住職が非常に多忙なので、住職を自宅に呼ぶよりもむしろ、一家で寺に出向いた方がよい。今の場合に限って言えば、その方が住職にとっても好ましいと思われる。

・私の宗派の場合、自宅仏壇上部中央にある本尊(「御姿(おすがた)」)を、供養の際に菩提寺に持参のこと。遺影や位牌と勘違いしない点に注意(まったく無頓着な私向けに釘を刺してくれたものと思われる)。

・私の場合、この菩提寺に納める費用は、「閉眼料x円」&「御布施y円」を、別々の封筒に包むこと。

・供養後の仏壇は、近くのp仏壇店にて処理してもらうのが、この地方の慣行である。仏壇サイズが人の背丈ほどある家の場合は、z円程度かかる。

・寺での供養の際の「霊前仏前」一式は、当日事前に当花店で、菩提寺に出向いてセッティング可能。費用はv円。

・家屋取り壊し後は、位牌をきちんと管理すべき。ところで、現代の家族の場合…(以下、非常に微妙なお話)。

・菩提寺住職と檀家の間で日程を相談し、決まったら、当花店に日程を知らせてくれれば、当花店側から住職に連絡をして、寺にて当日のセッティングに出向く。

■ その電話の直後10分以内に、菩提寺の住職ご本人から電話がありました。

「今帰ってきたところだ。書き置きは今読んだ。M月D日のH時に私が出向く。それでよいか。」といきなり具体的に提案していただきました。

「日程ご調整をいただき、ありがとうございます。ところでご相談ですが、こちらからお寺に出向いてもご供養なさっていただけると知人に聞いたので、家も残置物撤去作業中であることですし、お寺内でなさっていただければ」とお願い申し上げたところ、

「わかった。じゃ、M月D日のG時に変更するので、お出で下さい。ご本尊を持参せよ。位牌はもって来なくてよい。」と、15秒で決まりました。

■ それにしてもなんとまぁ頼りになる花屋さん…。 本当に地獄に仏でした…。この花屋さんの担当者が仏様のようにありがたく思われ、手を合わせてしまいます…。

...って、何か、形容矛盾を犯していますか?


2023/04/07

■きく - レコード芸術誌にこころから感謝

 


■ レコ芸休刊。音楽ファンの心情に、一つの大きな時代の区切りを刻むのは確実だと思います。

■ 私は中学生だった70年代から数十年来拝読してきた口です。

■ 中学の時、批評子諸氏の言葉は宣旨文として謹んで承り、高校の時は慈父の如き批評子に対する反抗期を迎え、大学時代は同好の士と口角泡を飛ばして今月号の論評を論評し合いました(笑

■ レコ芸70年の歴史で特筆すべきことや事件も多かったと思います。

■ 個人的には「古楽」の分野。20年にわたって、NHK-FMの番組と並行して、皆川-服部両氏の博覧強記かつ温厚篤実な名コンビで、しかも一切の互いの干渉なしで続いたという奇跡です。

■ また、毎年の「レコードアカデミー大賞の決定」。いえ、何が選出されたか、なんかどうでもよいです。読者にとってはこの時点で既知の音盤です。むしろ、選考過程の、それも特に批評子同士で大きく混乱した際の、経過の報告が、毎年の年末の楽しみでした…って、ちょっと私の性格に問題がありますか(^^?...

■ 新譜評論は、いつの時代も需要はあり続ける気がします。「どんな音楽を聴こうかな、どんなCDを買おうかな」を導いてくれますし、「この演奏はこんなふうだ」という方向性を示唆してくれます。だからレコ芸休刊は意表を衝かれました(「いつかは他の雑誌と同じ運命だろうけどそれは今か」という感じ)。

■ 例えば吉田秀和のような、ひと言で正鵠を射るような優れた論者たちが導き手になっているという図式は、レコ芸にはあったと思います。私もこれに安心して身を任せていました。

■ 思うに、これ(新譜評論)への欲求について、レコ芸の読者層は、(音友やステレオ誌に比して)いち早くネットへのシフトが完了したのではないでしょうか。例えば、買おうとするCDがあったとして、その演奏のウェブサイトのコメント欄を見ます。そのうちの一つ、国内外のHMVのコメント欄は、その積み重ねが膨大で、(しかもどなたもレコ芸やGramophoneみたいな評論調で、)読むだけでお腹いっぱい楽しめます。ふと考えてみれば、その後にレコ芸を買う必要性があるかと問われると…。

■ このような現象はテクノロジーの変化が主たる原因ですが、レコ芸の批評子の権威が相対的に低下したことも大きいでしょう。評論の質が下がったかどうかという問題は置いといて、「その道の権威に従う」という70年代のような価値観の単一性は崩壊し、誰でも情報の発信者になれたことで諸説紛々とした状況。ニーチェが「奴隷の反乱」、オルテガが「大衆の反逆」と喝破してもう100年ですが、2人のスタンスの良し悪しはともあれ、状況的には、彼らにも想像できなかった規模となって実現していることでしょう。

■ もちろんコメント欄に書き込んでいる人のレベルは玉石混交です。豊富な知識を前提に念入りに聞き込み配慮して表現したプロの批評子の比ではありません。が、なにせ量が圧倒的。読み進むうちに、そのCDの演奏がどんな演奏なのかについて、例えば自分がすでに聞いたことのある他の演奏と比べて記述してくれる人も多く、ほぼ把握できるような気がします。

■ でも「どんな音楽を聴こうかな」というわくわくした気分で今月号を開くという楽しみは、ネットにはない、レコ芸ならではのもの。やっぱり切ないです。