2024/10/22

■ なおす ■ ブラウン管TVの廃棄処分


倉庫の奥底に、ほこりまみれのブラウン管TVが...。1978年昭和53年下期製造。

■ ニコニコ動画のキャラみたいな外観ですね。視聴して楽しみましょう...って、ム、ムリです...。

 廃棄処分しましょう。正しい処理法は、家電リサイクル券を役所や郵便局で購入し、処分場や処分業者に自分で持ち込むことです。郵便局に出向いて数千円支払い、しかも自分で廃棄物処理場や処理業者まで運搬する義務があります。

私個人は、一人でTVを廃棄処分しようとするのが、これで3回目です。

1回目は、大学生だった昭和末期の時代。先輩からもらったというか押し付けられたTV。(コレ→🔗2023/12/04とは違います。それ以前にもらった別な個体)。TVは見ない習慣だし、電源を入れて見ても5分で飽きたので、できれば捨てたいと思いましたが、どう処分すればいいかわからなかったので、友人に聞いたら、彼の取った手法は、力任せに徹底的に破壊して粉々にして、ドサッと燃えないゴミに出せばいいんだよ、と豪快なアドバイス...。昭和の東京都では、そのまま収集ゴミとして持って行ってくれたようです...。

マネしました。下宿の、放置されたような裏庭で、金づちでブラウン管をたたいたら、ドカーン!と盛大に爆縮し、破片が飛び散り、ガラス片が顔やら髪の毛やらTシャツの中やらに...。

下宿の主であるおばさんやら他の下宿人やらがビックリして飛び出してきて、叱られてボコボコに非難されました...。そのままにはできないので、結局みんなで私の尻ぬぐいのために、破片を拾い、さらに細かく破壊し、袋詰めし、あとは私一人で暗くなるまで後始末して庭をキレイに掃いて、皆に謝り、ほうほうのていでよたよたあるいて銭湯にたどり着いて人心地ついた記憶が。

2回目は、20年ほど前、実家のこの倉庫に、間借り人がいて、その人が退去したあと、古いTVをはじめ、ストーブやらじゅうたんやら漬物樽やらを置いていきました。おばあさんだったので、退去後の新居にまで押しかけて責めるわけにもいかず、私がすべてキレイにしました。

そのTVは、学生時代の苦い経験から、その頃すでに制度化されていた現在のリサイクル制度にもとづき、私の負担で電気店で処分してもらいました。露骨に拒否されイヤな顔をされたのですが、制度制定当初の当時は「最寄りの電気店が引取窓口」だったので、そのことを言って、他人のTVをただ棄ててもらうためだけに私が4,000円という高額の処分料を負担して、電気店に頭を下げて、やっと引き取ってもらいました。

このときは、今度は私が他人の尻ぬぐいをしてお金を払って頭を下げて...学生時代のツケだろうかと思い、こらえました。

さて今回。いくら電気工事士の資格と免状があろうと、個人使用のTVであろうと、個人でブラウン管TVの解体廃棄しようとすることは、法制度の建前上は良くないことですが、過去2回のツラい思い出からして、断固として徹底的に分別解体します。

作業の方針は2点。

1) 徹底的に細かく分別解体し、キッチリ分別して収集ゴミの日に出せるようにする。

2) 巨大な真空管であるブラウン管の爆縮を事故の無いよう回避する。大気圧の与圧作業後に、破砕し、その後ガラスと金属端子を、ミリ単位まで分別する。

大学生レベルの知性があるなら、昭和のあの頃の時点で、そう留意すべきだったんですよね。ゴミ分別という意識がデキていなかったんですね。

まず、作業スペース確保と清掃。工具準備。電動ドリルのビットは絶縁ビッドに(通電も蓄電もしていないんだから、コンデンサもトランスも考慮する必要はないし、不要なんですが、気持ちの問題です)。シリコンゴム手で解体し、革手で破砕。


次に服装。ワークマン製ナイロンヤッケの上下、そのフードをかぶり、ヘルメットとセーフティゴーグルと防塵マスク。ヘッドランプも。安全靴...はナイので、登山靴!

人さまにはとうていお会いできない不気味な服装となりました。倉庫内で作業します。

ネジ部に潤滑剤を浸透させている間に、筐体をウェットウェスで清拭。私自身は使ったことが無いTVですが、父が、コレで、一人の時間を楽しんでいたようです、もう40年ほども昔...。思わずチョっとていねいに拭き掃除してしまいます...。


あとはひたすら、ネジというネジを外します。昭和の全盛時代の東芝の精密設計とていねいな組付けを感じます。三次元空間に複雑に実装しているので、電動ドリルより手回しのクロス2番のボールドライバの方が小回りが利いて速いです。ニッパとラジオペンチで、基盤のハンダ箇所を見つけて配線を次々と切断していきます。46年前の東芝の組付け工場の手作業のはんだ付けの手際よさに、ついマジマジと凝視したい気になります。が、組付けた人にこころの中で、感謝し、謝って、どんどん切断しましょう。

どこもまったく力を加えることなくハラハラと解体でき、プラ筐体、基盤、配線、ブラウン管本体と、分かれてくれました。ネジや端子類は、外すごとに、牛乳パックを切断した小皿に次々と放り込んでまとめます。

ブラウン管の大気圧平衡作業。ゴーグルとヘルメットと革手をし、袋で二重に包み、段ボールに入れて、電子銃先端付近をガムテープで保護し、手持ちの片口玄能で軽く押すように叩くと、缶飲料を開けるようなプシュっという小さな音で与圧できました。


あとは、ブラウン管の正面蛍光体付近に、片口玄能の尖端を軽くあてると、小さな音でパリンと割れます。袋の上から静かにまんべんなく叩いて破砕。かなり小さい破片になりました。金属端子を取り出し、キャベツ1コ程度のサイズに破砕できたガラス片はそのままさらにポリ袋に包み、「割れガラス」として市の「燃やせないゴミ」収集の日に出します。


爆縮で大騒ぎしたあの頃って...。野蛮人だった時代...。

プラスチック筐体は、破断のために、電動レシプロソーを用意したのですが、TVの寸法が小さいので、履いている登山靴で踏んだ方が早いと思い、これもビニール袋で包み段ボールに入れ、その上から踏むと、破砕できました。素材にはある程度紫外線劣化があったでしょうが、現在のものよりプラスチックが肉厚で、まだまだ素材の弾性粘り強度も残っていました。結局「プラスチック・リサイクルゴミ」収集の袋1つにコンパクトに収まりました。

配線類や端子類は、伸ばしてニッパでキレイに両端を切って、鉄・銅・コード線・ケーブル線など、素材別に分別し、数カ月来続いている自転車部品の処分と合わせまとめて廃棄物業者に持ち込めば、少額ですが買い取ってくれます。だいぶたまってきました。

今回は静かに(物理的に、のみならず、気持ちの点でも)、また短時間で、何事もなかったように解体できました。

感じたのは、昭和製は、やはり頑丈と、再認識したこと。基盤実装の設計技術は隔世の感はあれど、設計思想や現実の組付けには、「数年で捨てて買い換える」という発想は無く、「修理さえ重ねれば長く使えるように」という思想を感じます。また、さらに感じたのは、こういった思想や製品を糧に、自分は育ててもらったんだと、感謝して廃棄する気持ちにチョっとなったこと、でしょうか。