2023/08/31

■ きく - モーツァルト ピアノソナタ イ短調 K310 - 1楽章 / 内田 & ピリス

 Portrait left unfinished - Josef Lange

取り上げるには大きすぎるのですが、やはり全体のうちのごく一部のみをひと言。短くまとめようと思うのですが、短いほど時間は莫大にかかりそうです...。

「悲痛」「怒り」「疾風怒濤」などと言われます。母を失ったので、怒り狂うように泣き叫ぶのですか、そう、したり顔に語る論者は? 

 「親を/妻を/家族を失ったから」この頃の作品にそれが表れているのだ、といった、事情通の裏話や歴史的逸話はいったん置いて、それとは切り離して曲を聴きましょう。私にはそうは聴こえてこないです、内田(1985 Philips 412-741-2)とピリス(1989 De Grammophon 00289 477 5903;DG盤)を聞いた限りでは。というのも、たしかに嵐のような十六分音符の連続と展開部の振幅の激しいデュナーミクですが、叩きつけるような他の演奏と異なり、2人とも、1楽章全編を貫く長いレガートや長いスラ―記号を最大限活かして、流れるように美しく弾くからです。

ピリスのモーツァルトは、70年代に日本のイイノホールでの録音が、デンオン(Denon)レーベルから全集で出ていたのですが、私はそれをカセットテープでエアチェックして聴いた程度。曲はK310ではなく、K331(トルコ行進曲付き)の1曲でした。「モーツァルトは簡単で親しみやすい。でも子どもの発表会みたいにガチャガチャな音ではないんだね」が「モーツァルトのピアノ曲」という第一印象。でもそれっきりでした。その後も入手性は良いのですが、結局は90年代に入って再録音全集(DG盤)を買いました。今これを書きながら、まだ手に入るDenonの全集盤が聴きたくてたまらなくなりました。

■ DG盤を聴くと、K310は、やはり、悲痛でも怒りでもありません。ピリスの1楽章は、瘧(おこり) が 落ちたような明るい理念を貫いてタッチに強弱をつけて弾き進みます。展開部に「雷鳴」や「迫力」などのピアノ協奏曲のようなデュナーミクを期待すると無駄にリキむので、力をぬいて...。

■  それに先立つ1980年代に、内田の演奏(CD)に出会って、「簡単そう・聴きやすい」というモーツァルト観が変わりました。安易で軽薄な奴だったんです、私は(告解してもしょうがないのですが)。なるほど、ト短調の弦楽五重奏曲K.516も、そういいたかったのですか、小林は「モオツアルト」で (ただ、"tristesse allante"が「疾走する悲しさ」とは、誤訳に近い意訳・恣意的な意訳だという指摘で、小林の唐突な口調の感傷的な評論文はここ30年来見直されているのも、大いに納得しています)。

■  内田のK310を、100回、200回と聴くと、その、1音1音、1本の指の1回の打鍵のタッチが、これは、もしかして、あ、ありえないほどの「微妙さ」...を感じます。打鍵時の緊張感を少し想像しただけで、ますます髪の毛も逆立つような...。あなたが非常に大切に使いこなしてきた道具が何かあるとしましょう。他人には貸したくない、触らせたくもないような。それをしぶしぶ他人に貸したら、ぞっとするような乱暴な使い方に目を覆いたくなる経験があるでしょう。内田の打鍵の微妙さは、その尊さに似ています。例えばユーチューブなどでK310の演奏を公開している素人さん等で聴くと、耐えられなくなって途中で...。ふりかえって内田の演奏法を誰かほかのひとがマネしたとしても、誰一人として神経がもたないだろうと思えるほどの繊細さを感じます。

■  十六分音符を多用していますが、スタッカートもあればレガートもあり、全体に数小節に渡り1本のスラ―がかかっている箇所も数多くあります。響きはたしかにホモフォニックなオーケストラの伴奏のようでもあり、ポリフォニックな左右両手対等のフーガのようでもあります。それらの役割を持つ十六分音符の速い進行をどの一音もいつくしんでタッチを変えて弾き分けて進む気がします。

楽譜1
■  また別な観点として、その演奏のテンポの取り方です。冒頭の右手、装飾音と二点ホの四分音符ですが、内田は、冒頭は音符に忠実です。が、50小節ほどから成る提示部終了時のダカーポ後は、冒頭に戻ると、その装飾音がほんの少し長くて、四分音符がほんの少し遅れて入ります(楽譜1の枠)。展開部の入りを始め、いくつかの箇所に、このような、次の音を聴き手が期待する圧力の溜めのようなゆとりのような、そのような意図したテンポの揺れがあります。これが、タッチの繊細さに加えて、このイ短調1楽章の曲想全体を支配する不安な雰囲気とドラマトゥルギーを醸し出している、と言えるかもしれません。その背後に、内田の役者の大きさ・技量のゆとりが、他の奏者とは歴然としている印象を強く受けます。

■ 私がこの内田のイ短調で初めて実感した「モーツァルトの"tristesse allante"」は、展開部の楽譜2でした。フォルテッシモとピアニッシモを交互に打ち込む、息も絶え絶えな右手の16分連符と、同時に進む2拍ごとの最低音の鼓動(枠)が、心臓に杭を打ち込まれるようです。右手高音声部の緊張が楽譜3(枠)でリズムが極大に達して息詰まるようですが、同時に和音の連打だった低音部が今や激流となって、しかし解決に向かう、かのようです。

楽譜2

 たしかにこのような場面では、モーツァルトのdämonischな面が露出していると言えると思います。同時に、それは悲痛や怒りではなくて、ランゲの「モーツァルト肖像画」の、あのまなざしではないかな...

2023/08/30

■ まなぶ - 心の奥底を書き出す


心の奥底にある考えを、文字に書き表すのは、ためらいます。誰でもそうだと思います。

■ 美しいことから醜いことまで、うっかり書き出したら、自分で見て、または万が一自分以外の人に見られて、あらゆる羞恥や嫌悪が発生しそうです。

「モーニングノート」という、アメリカの作家による提唱が2001年頃にされて流行しているそうです。朝起きてすぐに、ノートに、上で述べたような自分の気持ちをありのままに書き出すのだそうです。それにより、自分の気持ちが整理でき、本来の自分を見出すことができるという効果があるそうです。

■ 私はやったことがありませんが、多少の文化の違いはあれ、効果がありそうで、惹かれますが、やはりためらっています。やってみようか、どうやればいいだろうか...などを、グーグル先生に聞いてみたら、賛否両論が激しくあって、答えは探しかねました。

■ とはいえ、私が80年代に8年間ほど、病室で天井蛍光灯を24時間眺めて暮らした際に、類似のことをしたような気がします(朝ではないが)。短期間でノートを見返すと、補足や削除もあって手直ししたりしましたが、長期を経てから見直すと...、内容や表現が目も当てられなかったり、自分はもう別なステージにいると気づいて、捨てようという気になりました。もしかして、何十年もあとで読み返すと、また別の価値があったかもしれません。いずれにせよ、書いてよかったかというと、書いているその瞬間は、心の慰めになったのは確かでした。短期間で読み返すと、「じゃあどうなればいい?」など自分に反論して考え始めます。その限りで、考えはある程度まとまる方向に向かうし、心の中に鬱積していく一方の苦悩は、破裂や崩壊を逃れた気もします。

■ 1994年の大学入試センター試験の英語(1994追試第5問)に、表題のような実験をした簡単な論説文が出題されたようです。以下に大意を訳してみます。

■ 『離婚とか家族の死といった大きな衝撃を受けた人々の多くが、大小さまざまな病気に対して弱くなるように見えるのはなぜでしょうか。

心理学者の共通した考えですが、人々はそのつらい経験を理解し受け入れることができれば、より効果的に、それに対処できるだろう、ということです。

実際、専門家の多くは、心の安定を乱すようなでき事に関して、考えや気持ちを表現することの価値を強調しているのです。

最近、ある医学研究者チームが、「心理的につらいでき事をあえて表現すること」と「長期にわたる健康」との関連について調査しました。

ある実験で、健康な大学生たちに、4日間、個人的に非常につらかったでき事か、または、ごくありふれた話題の、いずれかについて書くように求めました。

続く数カ月間、心の中で思ったことや感じたことを書いて吐露することを選んだ学生の方が、毎日のありふれた話題を書いた学生よりも、病気で健康センターを訪れる回数ははるかに少なかったのです。

その後の別な実験で、別のグループの健康な学生たちが、4日間文章を書く課題を与えられました。

中には、非常に個人的で気が動転するような経験(孤独、家族や友人に関する問題、死なども含む)を書くことを選んだ学生もいました。

その人たちは、その実験直後に質問された際には「気分は以前と比べて特に良くなってはいない」と言いました。しかし、実験の前後に採られた血液のサンプルを調べてみると、病気に対する抵抗力は強くなっていたことがわかったのです。つまり、バクテリアやウイルスを撃退する白血球が、これらの「侵入者」に対する反応性や感度を高めていたのでした。

この傾向は、その後6週間にわたって続きました。最も良い結果を示したのは、以前なら人に話すのを意識的に控えていたような事柄について書いた人たちだったのです。

研究者たちは、つらい経験に立ち向かっていかないことが、それ自身一種のストレスになり、病気になる可能性を増すのだと言っています。したがって、大きな衝撃に積極的に対処すれば、その衝撃を理解し受け入れることができるということになるのです。

解決策は、沈黙のうちにつらい思いを忍ぶことではありません。

個人的な問題について話すことは、いつもできるわけではないかもしれませんが、それを積極的に書き表すことが、長い目で見れば、からだが病気と闘う助けになることでしょう。』

■ 思わず、本当か!? と言いたい内容で、心に残りました。これを書いたキッカケは、昨日弔問した亡き人のことを考えると、さぞつらい気持ちだったろうと胸が痛んだからです。また実は、このブログを始めたのも、春の実家整理作業とその直前の真冬の明け方毎朝4時間の除雪作業で、自分の心の状態が経験のない鬱に向かっていたのを意識したからです。後に、書いたことの9割を削除してアップしはじめましたが、今の立場を客観視でき、気持ちの安定につながりました。

■ センター試験の英文は、「アメリカ人やヨーロッパ人の、教育や文化のバックグラウンドを前提とすれば、積極的に勧められることだが、日本人の私たちにもあてはまるだろうか」という疑問も少し頭をよぎりますが、国民性にこだわらずとも、戦後に価値観の共有があった多くの人に言えるのではないかなと思いますが、どうでしょう。いちばんいいのは、少しずつでも自ら実践してみることなのかなと思います。

2023/08/29

■ あるく - 弔問


青森市の親戚Tさんを訪問して、家屋取り壊し費用について教えてもらったことを4/17の記事に書きました。ここには私の従弟(いとこ)もいるのですが、彼の妻が数日前に50代前半にして亡くなり、先ほど弔問にうかがいました。

4月にうかがったときには、入院待ちで自宅にて療養中で、本人にこれまで通りお会いしていろいろと話をうかがうこともできたので、あまりに早い逝去に声も出ない思いでした。