■「悲痛」「怒り」「疾風怒濤」などと言われます。母を失ったので、怒り狂うように泣き叫ぶのですか、そう、したり顔に語る論者は?
■ 「親を/妻を/家族を失ったから」この頃の作品にそれが表れているのだ、といった、事情通の裏話や歴史的逸話はいったん置いて、それとは切り離して曲を聴きましょう。私にはそうは聴こえてこないです、内田(1985 Philips 412-741-2)とピリス(1989 De Grammophon 00289 477 5903;DG盤)を聞いた限りでは。というのも、たしかに嵐のような十六分音符の連続と展開部の振幅の激しいデュナーミクですが、叩きつけるような他の演奏と異なり、2人とも、1楽章全編を貫く長いレガートや長いスラ―記号を最大限活かして、流れるように美しく弾くからです。
■ピリスのモーツァルトは、70年代に日本のイイノホールでの録音が、デンオン(Denon)レーベルから全集で出ていたのですが、私はそれをカセットテープでエアチェックして聴いた程度。曲はK310ではなく、K331(トルコ行進曲付き)の1曲でした。「モーツァルトは簡単で親しみやすい。でも子どもの発表会みたいにガチャガチャな音ではないんだね」が「モーツァルトのピアノ曲」という第一印象。でもそれっきりでした。その後も入手性は良いのですが、結局は90年代に入って再録音全集(DG盤)を買いました。今これを書きながら、まだ手に入るDenonの全集盤が聴きたくてたまらなくなりました。
■ DG盤を聴くと、K310は、やはり、悲痛でも怒りでもありません。ピリスの1楽章は、瘧(おこり) が 落ちたような明るい理念を貫いてタッチに強弱をつけて弾き進みます。展開部に「雷鳴」や「迫力」などのピアノ協奏曲のようなデュナーミクを期待すると無駄にリキむので、力をぬいて...。
■ それに先立つ1980年代に、内田の演奏(CD)に出会って、「簡単そう・聴きやすい」というモーツァルト観が変わりました。安易で軽薄な奴だったんです、私は(告解してもしょうがないのですが)。なるほど、ト短調の弦楽五重奏曲K.516も、そういいたかったのですか、小林は「モオツアルト」で (ただ、"tristesse allante"が「疾走する悲しさ」とは、誤訳に近い意訳・恣意的な意訳だという指摘で、小林の唐突な口調の感傷的な評論文はここ30年来見直されているのも、大いに納得しています)。
■ 内田のK310を、100回、200回と聴くと、その、1音1音、1本の指の1回の打鍵のタッチが、これは、もしかして、あ、ありえないほどの「微妙さ」...を感じます。打鍵時の緊張感を少し想像しただけで、ますます髪の毛も逆立つような...。あなたが非常に大切に使いこなしてきた道具が何かあるとしましょう。他人には貸したくない、触らせたくもないような。それをしぶしぶ他人に貸したら、ぞっとするような乱暴な使い方に目を覆いたくなる経験があるでしょう。内田の打鍵の微妙さは、その尊さに似ています。例えばユーチューブなどでK310の演奏を公開している素人さん等で聴くと、耐えられなくなって途中で...。ふりかえって内田の演奏法を誰かほかのひとがマネしたとしても、誰一人として神経がもたないだろうと思えるほどの繊細さを感じます。
■ 十六分音符を多用していますが、スタッカートもあればレガートもあり、全体に数小節に渡り1本のスラ―がかかっている箇所も数多くあります。響きはたしかにホモフォニックなオーケストラの伴奏のようでもあり、ポリフォニックな左右両手対等のフーガのようでもあります。それらの役割を持つ十六分音符の速い進行をどの一音もいつくしんでタッチを変えて弾き分けて進む気がします。
■ 私がこの内田のイ短調で初めて実感した「モーツァルトの"tristesse allante"」は、展開部の楽譜2でした。フォルテッシモとピアニッシモを交互に打ち込む、息も絶え絶えな右手の16分連符と、同時に進む2拍ごとの最低音の鼓動(黄枠)が、心臓に杭を打ち込まれるようです。右手高音声部の緊張が楽譜3(橙枠)でリズムが極大に達して息詰まるようですが、同時に和音の連打だった低音部が今や激流となって、しかし解決に向かう、かのようです。