■ あの日、一聴した瞬間、腹の底がひっこんで笑いがつい破裂しました...。なぜかは明らかですが、表現できるかな。
■ グールドを私が語るなんてはあまりに恐れ多く百年早いのですが、生きているうちにボソリと呟いてみます。
■ 日本でピアノを習う人の、数といい年齢層といい歴史といい、層の厚さは先進国随一を争う勢いです。高度経済成長期以降、ピアノが、アップライト型ではあれ、一定階層以上の個人の所有物として一般家庭に普及し、「娘にピアノくらいは習わせたい...」「その日は娘のピアノの発表会があるので...」「休日にはピアノの練習音が聞こえるちょっと大きめのきれいな家...」が、日本人の夢みる幸福で豊かな家庭のステイタスだったきらいがあります。加えて近年は「子どもの習い事」にとどまらず、学習開始年齢を問わない生涯学習としての地位も確立されているようです。
■ これほど底辺が広く高くそびえる厚い階統制を頂点に登りつめた人たちとしては、プロのピアニスト、またその供給源である芸大音楽科や音楽大学の人たちが想像できます、が、ヒエラルキーを登りつめたこの人たちのした努力は、学校のお勉強などとはまたちがって、想像を絶するものがあることでしょう。尊敬して余りあります。
■ 音楽科を受験して合格するだけでも、一般の私たちが漠然と想像するような上記の「幸せな家庭」レベルなど消し飛んでしまうような壮絶な世界だ、と、ま、当初は思ってもみなかったのですが、東京で学生をしていて、そういう方々に出会って、私には異世界なのですが、少しだけは実感できました。出会って見たり聞いたりした経験には感謝。いろんなお話がたくさんあるのですが、また今度会ったときにでも...リクエストしてくれればいくらでも語れるから(なんだそれは)。
■ そんな体験のうちのごく浅い部類の話をひとつ。私の下宿の近くに別なアパートがあって、毎日ピアノの練習をする学生さんがいました。大学が違うし、親しくはないのですが、名前とあいさつ程度は...。ピアノ科ではなく声楽なのですが、教職課程も取っていることだし、ピアノは当然必須で、毎日、声の練習の前に、ピアノの練習も異なる数曲で聞こえます。試験のスパンで曲が変わるようです。
■ が、その日の練習に入る指慣らしの毎日の第一の課題が、変わらず、表記のバッハの平均律1巻のニ長調のプレリュードでした。指導教官やテキストやカリキュラムによるのかもしれませんし、その人個人が「指慣らしにはコレ」と決めているかもしれないのですが、複数の学生さんが、毎日まずはコレを弾いているのを耳にしました。たしかに、プロにとって「旧約聖書」のこの曲ならば、さぞ指もほぐれることでしょう。もっとも、音楽科入学レベルに遥か遠い私たち素人なら、指など、ほぐれるどころか、もつれるばかりで前に進むハズのないレベル、ですが...。
■ バッハの不思議な点は、どんなレベルの誰が演奏しても、ちゃ~んと楽しんで聴けるところです。例えば街のピアノ教室の発表会。小学生主体。週2回お稽古に通うためレッスンの直前に30分練習している小学生たちが、ショパンやリストを弾いたら...、親となって目を細めて聞く立場でない限りは、そんな危険な所へは、絶対近づかないにこしたことはありません...。モーツァルトなら...、う、うん、行くはずが昨日の胃バリウム検査のせいで今日はちょっとずっとおなかの具合が...。ハイドンなら...、イマちょっと咳が出て会場で迷惑になるので早めに退出を...、バイヤーなら...、あ、チ、チョっと上手になったねぇ...と、汗だくで言いわけするところ、バッハ「インヴェンションとシンフォニア」ハ長調BW772なら...、あ、いいね!楽しい!って感じがしませんか ← よくわからん、という方ごめんなさい。
■ 芸大とか音大などの近隣に「楽器持ち込み可」のアパートが多めの学生街エリアって東京にはあるんですが、そんな場面で歩いていて他からも聞こえることはあれど、発表会の小学生へのあたたかいまなざし(耳)は無く、バッハだろうとリストだろうと、聞こえてきたら、ちょいと辛い耳をそばだててしまいます。
■だから、音楽科の学生さんのバッハなので文句なく聞ける、しかもヘ長調の「イタリア協奏曲」などとちがって、素朴な響きの「平均律」なら、よほどうまいよなぁ、...と言いたいところ、やはり、だれにでも調子の波があるようで、毎日聞くともなく聞いていると、フィンガリングが体調や感情を教えてくれたりします。
■ でも、毎日決まった時間に真面目に練習が始まり、いかにも苦悩し努力し、そういうちゃんとした人だからこそもちろん、音楽学習者ヒエラルキーの頂点に立つ学校に通っているわけで...。デタラメな私の生活を諫めてくれるような存在でもありました。この人の努力のツメのアカでも...。
■ この曲は、私個人は、LPで、H・ヴァルヒャのチェンバロの演奏と、S・リヒテルのピアノの演奏で持っています。ちょっと演奏の速さに留意して聴き直してみます。
BWV850のプレリュードの演奏速度をメトロノーム解析すると;
・ヴァルヒャ...78.5bpm…しっかりかみしめるような運指です。リュッカース・チェンバロでの70年代アルヒーフ盤ですが、今となってはやはりアンマー・チェンバロのような、鋼線の現代チェンバロに近い、硬く豪華な響きがします。
学生さんや学習者の練習はこのテンポです。調子により、止まったり戻ったり...。
・リヒテル...145.5bpm…珍しく非常に速いテンポでの演奏です。
じっくり深く沈潜して考えるリヒテルという先入観が、この曲にはあてはまらないです。
・グールド...163bpm… 猛烈に速いです。プレリュードだけなら66秒で演奏終了です。
ま、今となっては、彼なので、驚くに値しないかもしれませんが。録音は1963年と、上のヴァルヒャの2回目の録音より10年早い時期です。さぞかし世界中が腰を抜かしたことでしょう。
■ さて、冒頭で申し上げた、思わず笑いが破裂してしまったのは;
■「演奏会」「聴衆」「拍手」などに嫌悪感をおぼえる音楽家は多いです。古くはヴァグナー、ニーチェに始まり、グールドがその最右翼かもしれません。これらの者たちは、皆おなじ考えをもっているわけではないのですが、強い嫌悪感を表示している点で同じです。
■ でも、素人考えでは、「演奏会」と、これをささえる18世紀以来の裕福な一般市民層が今日も存在するからこそ、雑多の中から純粋種が洗練され、底辺が厚いからこそ頂点はより高くなるわけで、これらヒエラルキーの最底辺にあっても、そこで努力するその価値は大きいと思います。
■ ピアノのある家庭を夢見る高度経済成長期の労働者階級のおとうさんから、ピアノを習う小学生だって、発表会で目を細めるじいちゃんばあちゃんだって。また、その小学生が、中学・高校と進んで、バイヤーだったのが、ブラームスのト短調のラプソディ(Op.79)を課題曲に与えられたりなんかしたら、音楽科だって視野に入ってきます。これらの人たちの注いだ努力と費用...。どの一人の地道な努力の積み重ねも、グールドのような雲上の存在を支えていると思います。
■ ところがっ、グールドのこのニ長調ときたら...。
■ まるで、のび太くんとスネ夫くんが砂浜で何時間もかけて一生懸命つくった砂のお城を、ジャイアンが1分で大笑いして破壊するかのように、すべての音楽学習者のあらゆる地道な努力を一瞬にして蹴散らして、バッハの理想の目的地に着いたかのように聞こえてしまいました。
■ ジャイアンとグールドをいっしょにするって暴論を越して愚かですが、粗暴なジャイアンとちがうのは、グールドの、どの1音の細部にも、神が宿っている点です。
■ スタカートのようなインパクトのある左手と、想像を絶する軽やか滑らかな16分4連。
■ または、まるで、大学の先生たちが1年間4単位かけて必死に懸命に真面目に不器用に説明したコトを、たとえば F.ニーチェが「つまりさ、」と一言のアフォリズム(箴言)でケリをつけた、画家が「ほら」と壁に落書きして、1秒ですべてケリがついた、ような...。
■ グールドのこのニ長調。聴く私は、あは、と笑ったきり、口をあけたまま聴き入ってしまいます。グールドが孕むのは速さだけの問題ではなく、タッチに基づくソノリティの不思議さ等、大きな課題はなお山積、ですが、今は、その雲の上を滑走してあっという間にいなくなった彼に「どうだい、ボクの落書きは」と、66秒で教えてもらった気がしました。