2025/12/22

■ あるく ■ "津軽の一つ残し”


冬至。太陽黄経270°0'00''と一致するのが12/22月0:03台でしたので、はや冬至点は通過し、陰は極まって陽に転じ始めたんですね。そう思うと、気分がまるで違います。

 "冬至だからかぼちゃ"なステロタイプに安心感やブログネタを求める人もわらわらといらっしゃることでしょう、今年も。うふふ。私はお腹が弱いのでパス。

 正午の気温0℃。吹き荒れる5m/sの西風。一昨日の幻想は吹き飛ばすかのように、まさに津軽の冬となりました。

 どっしり鉛色の寒空へとあるきに出ます、冬至点を越えて気分も明るく(そんな人あんまりいないか)...。


 枯れ果て、生き物の気配すらなさそうなりんご畑。雪のない暗黒な風景かもしれないのですが、独特な魅力を感じます。

 沈んだ色彩の中、目につくのが、枯れ木に1コだけ残された真っ赤なりんご。

 "津軽の一つ残し"です。

 いっぱんに、"一つ残し"と言ったら、宴会などで、大皿料理を皆一つずつ取った後、大皿にたった一つ残された状態で誰も手を付けない場面を指しますね。"関東一つ残し" "肥後のいっちょ残し"なども、大学時代に地元出身の人から聞いたことがあります。

 Google先生に聞いてみたら;


" 津軽の「一つ残し」(津軽衆)とは、宴席などで大皿料理の最後の1つだけが残ってしまう現象を指し、津軽地方の人が「遠慮深くてなかなか手をつけない」様子を表す言葉です。これは「遠慮のかたまり」とも呼ばれ、他の地域でも「肥後のいっちょ残し」(熊本)など、地域ごとに独特の呼び名がありますが、津軽の「津軽衆」は自らをユーモラスに表現する点が特徴で、その1つを食べた人を「英雄」と呼ぶこともあるそうです。 
「津軽衆」の特徴
謙遜と配慮: 食料を分け合う文化が根付いた津軽では、他人に遠慮し、最後の1つを取ることをためらう気持ちが強いとされています。
地域性の表現: この「一つ残し」の状況を、津軽の「衆」(人々)になぞらえ、「津軽衆」と呼ぶことで、津軽人の気質を表しています。
ポジティブな解釈: 誰もが遠慮して食べない最後の1つを、あえて「食べる」人を「津軽の英雄」と称えるユーモアも持ち合わせています。 
「一つ残し」の背景
「遠慮のかたまり」: 日本人特有の「厚かましいと思われたくない」「寂しくなるから」といった繊細な感情が、この現象を生み出すと考えられています。"

 いつも好意的な説明をしてくれます。ちょい掘り下げると、地元では、最後の一つに手を付けたら、憎まれる存在、傲慢な存在、無神経な存在です。そこにつけこんでその人に向かって「英雄」と諧謔的に称賛し、その人以外の周辺の皆は心の中で冷ややかに嘲笑しているわけで...。

 さて、転じて、りんご畑のりんごの木の1本1本ごとに、収穫しない果実を1つだけ残す習慣。


 この習慣も、ごく一般的に津軽地方一円に存在するのですが、この根拠はと言えば、今年も無事収穫できたことについて、"自然"への、場合によっては"神様"への、感謝をあらわすのだ、今年残したこの1コが、来年またたくさんの果実となるのだ、と、何度も聞いたり読んだりして知った経験があります。

 "科学的にそれはありえない"などという反論はバカげています。一種の土着の信仰、いやそこまで言わずとも、素朴な"祈り"、こころの奥底からふつふつと湧き出す祈りなのだと思います。

 むしろりんご畑のこの習慣から、現代的な宴会での現象におもしろおかしく転用したんじゃないのかなと、私個人は思っています。

 冬至の日に、"一つ残し"を眺めるのは、私にとっては、小さな希望の種がこれから膨らんでいく1年の始まりのような気がして、気持ちがすがすがしくなります。