2023/08/11

■ まなぶ - おうちで勉強?

※『巨人の星』

また思い出話なんですが、大学3年のときに知り合った同じ大学学部の千葉のS君の話です。昨日お話したMc君は、人類の階級的頂点に生まれついた人でしたが、それとは極端に対照的な環境、と言っちゃあ悪いのですが、昭和の刻苦勉励ドラマ『巨人の星』の星飛馬並みにニッポンの下層庶民的な境遇の人です(「そう言うお前は人のことが言えるのか」と言われると、ま、それはその、いまはしっかり棚の上にあげておくことにしましょう...)。人見知りで遠慮がちで人と目を合わせずに静かに話します。星飛馬とまではいかなのですが、家族みんなで暮らす自宅は昭和の大都市周辺人口過密地帯に造成された公団住宅の一室。3部屋から成り、「居間兼食堂兼台所」「父母の部屋」「子ども部屋」。自分専用の部屋など、もちろんないです!3人兄弟の長子長男なのですが、3人で六畳一室の「子ども部屋」があるのみです。そこは弟妹がいつも耳元で騒ぎ、一人あたりの机は学校のより狭く、机の上も下も学校教材や衣類や運動具などの荷物置き場です。考えてもみよ、もしあなたがこの環境で生まれ育ったら、どうやって勉強するというのですか? いやふつうもう勉強なんてしないから…。

というふうに、家で勉強などするはずのない小学校時代を経て、中学生となった彼は学校の授業もわからずテストもふるわず…。それは「平均的」「ふつう」「平凡」ということで、責められるべきこととは言えないですが、自分で何だか不完全燃焼感がありました。運命の分かれ目は、この感覚をどの程度まで持つか、ということでしょうか。わかると楽しい、もっとわかりたい、という衝動にかられました。中学生が一人でじっくり勉強するには、中学校の図書室や放課後遅くの自分の教室も、選択肢としてはありうるのですが、放課後遅くの教室は委員会や新聞作成やらで、一人で勉強する雰囲気ではないですし、図書室には怖い生徒さんたちがいて、勉強空間というより、イマ風に言えば、深夜の都市部のコンビニ前の若者が集う風な空間です。人口爆発中の昭和の都市部の公立中学校にはよくある話でした。

で、勉強できるスペースとして彼が目を付けたのは、狭い自宅の居間兼食堂兼台所の、家族全員で使う食卓テーブルです。さすがに星飛馬のおうちのような、父星一徹がよくプッツンとキレたら貧乏なくせに食べ物を粗末にするかのように、ごはんごとひっくり返して怒り狂うという、例のあのちゃぶ台ではなく、椅子つきの洋式テーブルでした。ただ、家族全員で食事や茶菓や団欒その他のために使うし、TVもあって、そこで一人で静かにのびのび勉強はムリです。サイズは広くていいんだけどな。

そこで、考えて試して、1. 家族が起きていない早朝の時間帯、2. 夕方弟妹が学校や外遊びから帰ってくる夕食前のごくわずかな静かな時間、3. 朝に開錠したばかりの学校教室、をフル活用することにしました。父母や弟妹にもわかってもらいました。弟が帰ってきて遠慮して漫画みたいにヌキ足で歩いているのを見て、ヘンなかっこうに大笑いしましたが、感謝しました。

ただ、テーブル使用時間に非常に大きな制約があります。授業中や下校時間に、頭の中で、とにかく優先順位を決め、所要時間の見積もりを立て、だらだらせず、ただちにとりかかる必要があります。

「45分以内にやれなければ必ずあきらめる」「今日はコレをやってアレは必ず捨てるしかない」と、猛烈にタイトでシビアな取捨選択を、瞬時に決定し、強烈な集中力で試験勉強をするのが、まさに日常茶飯事となりました。時間は絶対厳守のため、体調を整えて規則正しい朝型生活となりました。おそらく勉強時間は非常に短かったのではないでしょうか。

成績がふるわない小太りな小学生だった彼が(風貌は関係ないのですが)、コレを始めた中学後半から、あれよあれよという間に学年1位に昇りつめました。結果、県内トップの県立の進学高に進みました。高校では、学校の図書室を存分に使うことができて、読んで書いて現実を忘れてしまうような夢のような環境でした。

この話を大学時代に何人かで聞いた際には、ただの雑談の場だったのですが、皆が大いに感銘を受けました。自分の部屋や図書館を使える境遇って、ほんとうに恵まれていて幸せです。

昨日お話したイギリス人のMc君の場合は、場所的な割り切りが気持ちの入れ替えに通じていたとも表現できるでしょうか。北ヨーロッパ的な住居の構造に対する発想もまた、西洋的合理主義を生んだ一因ではないでしょうか。19世紀に世界を制覇したイギリスに対する国家的イメージは、ケインズの流動性選好説に象徴される怜悧で現実的なジョンブル精神だし、他に同様な家屋構造や空間の捉え方を持つヨーロッパの民族性を顧みると、フランスの明晰判明なエスプリ、ドイツの思想や科学における冷徹な合理主義、アメリカのプラグマティズムなど、どれも緻密な構造計算を次々と積み重ねて壮大な思想的建築物を構築していくような気がします。教会建築に代表されるような、意志を持った堅牢な石造りの空間構造が、ヒトの考え方をもリジッドに規定しているような気がします。

場所がアプリオリに措定されている前提に基づいて、業務・私生活・食事・睡眠など日程や計画を画定する、すなわち「空間が時間を画定していく」わけですが、このようにヒトを外部から規定して日常を消化し積み上げていくヨーロッパ的発想は、目的を達成するための段取りとして、究極的の合理性があると思います。

では、ヨーロッパのステキな石造りのおうちに住んでもいないしそんな合理主義的伝統もない東洋に住む私たちが、何か目的をもち、これを合理的に達成するにはどうしたらよいでしょうか。場所を変えて気分を入れ換え、定めた作業に集中すればよいとしても、「いつ」「どこで」を割り振って、実際に行動に移すには、綿密な計画と強い意志が要りますネ。星一徹みたいな厳しいお父さんが監視してくれればいいのにな…(という考えも意志薄弱な私のただの甘えです)。