2023/07/11

■ まなぶ - 『半七捕物帳』- 再読したい気持ちにさせる背景描写


今日の「英単語集を書く」は、1001-1100まで例文を書きました。

今日の例文1071: Some say that bribery and extortion are rampant in post-communist Russia.

   共産主義崩壊後のロシアでは、賄賂と恐喝が蔓延しているという人もいる。

… “単語集”がここまで言っていいんですか!?...post-communist直後の10年間はエリ(E)の、さらにその後23年間はプチ(P)の独裁政権ですね。国営企業をタダ同然で手に入れたオリガルヒたちを、Eは癒着によって、Pは恐喝によって、手中に収めてきました。これをすべて許すロシア人。200年前に生まれたドストエフスキーが「ロシア人は長いものに巻かれろという民族性なのだ」と喝破した通りですか、やはり。

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私のような底辺の庶民は、普遍的価値のある文学に、小さな心の安らぎを求めるとしましょう。

そのうち、年に1,2回、思い出して全編を読みたくなるのが、幕末~維新を舞台とする岡本綺堂『半七捕物帳』なんです。

19世紀末の『シャーロック・ホームズ』が最初にして最高の探偵小説ですが、これを範としたのが『半七捕物帳』。日本文学における最初にして最高の探偵小説(?)です。前者には種々の学究的考証を進めるシャーロキアン協会が存在しています(入会希望者は筆記試験採用です)が、後者にも「ハンシチアン」が存在するんだそうです。さもありなん。

ストーリー(落ち・プロット)はもうわかりきっているのに、どうして再読味読するのでしょうか、特に探偵小説なんか。同様に、考えてみると、寄席に通う人というのは、古典落語のストーリーが知りたくて行くはずがないのですが、なぜお金を払って聞きに行くのでしょう。いや、それはすべての文学作品に、敷衍すれば、音楽・美術など全ての古典作品に共通する疑問です。ま、答えは置いておくとして...。

 「また読もうかな」と思って『半七捕物帳』に手を出すのは、最近、私は、「江戸情緒を感じてみたい」という、妙な気持ちがそうさせるようです。過日(7/6)に書いた「手塚マンガの背景」に、やはり似ています。

『半七』と、二匹目のどじょうを狙った『銭...』との大きなへだたりが、江戸情緒の描写の有無・巧みさです。

『半七』のほかに、再読味読する作品のなかには、そういえば、同じ動機で手を伸ばしているものがあるんじゃないかな、と、ちょっと振り返って考えました。

簡単に引用してみましょう。漱石『猫』、鷗外『高瀬舟』もどれも著作権の心配はもうなさそうです;

そうですね、さしあたり「春の宵」の情景を思い出して選んでみましょう。


綺堂 『半七1 - お文の魂』

...閉め込んだ部屋のなかには春の夜の生あたゝかい空氣が重く沈んで、陰つたやうな行燈(あんどん)の灯は瞬きもせずに母子の枕もとを見つめてゐた。外からは風さへ流れ込んだ氣配が見えなかつた。お道は我子を犇(ひし)と抱きしめて、枕に顔を押付けてゐた。


漱石 『猫』

...花曇りに暮れを急いだ日は疾く落ちて、表を通る駒下駄の音さえ手に取るように茶の間へ響く。隣町の下宿で明笛を吹くのが絶えたり続いたりして眠い耳底に折々鈍い刺激を与える。そとは大方朧(おぼろ)であろう。...

...春の日はきのうのごとく暮れて、折々の風に誘わるる花吹雪が台所の腰障子の破れから飛び込んで、手桶の中に浮ぶ影が、薄暗き勝手用のランプの光りに白く見える。


鷗外『高瀬舟』

...さう云ふ罪人を載せて、入相(いりあひ)の鐘の鳴る頃に漕ぎ出された高瀬舟は、黒ずんだ京都の町の家々を兩岸に見つつ、東へ走つて、加茂川を横ぎつて下るのであつた。...

...いつの頃であつたか。多分江戸で白河樂翁侯が政柄を執つてゐた寛政の頃ででもあつただらう。智恩院の櫻が入相の鐘に散る春の夕に、これまで類のない、珍らしい罪人が高瀬舟に載せられた。


「春の宵」は、読むあなたにしてみれば、あたたかくゆるやかな気持ちになろうかという暗示をかけられます、ただ、夕闇が迫ることから、そっと緊張感もあなたの襟首から差し込む、そういう気分を、さらに「江戸情緒」という背景に重ねて、読むあなたを包みこもうとする巧妙な技巧のように思えてきます。

 いずれもそれが、情景を描写するのが主たる目的ではなく、お話のごく些細な背景のためにわずかな言葉を費やすに過ぎないのですが、特に漱石と鷗外は、さりげないながら、じつに周到に1ページ程度おいた後に、春の宵の江戸風情をリフレインします。

思い返してみれば、噺家の中にも、桂米朝(人間国宝)などは、筋を急ぐだけでなく、上方落語の鳴り物入りとはいえ、季節の情景描写の織り込み方もじつに見事なものがありました。

これに身を任せようかなと意識したうえで、文豪の手のひらの上でいいように転がされるのを楽しむというわけなんですよ。これが私にとって、再読味読の楽しみです。