2023/10/28

■ まなぶ - 『うるしの話』松田権六 (岩波文庫)


漆器の話を10/22に書いたのは、岩波文庫で、松田権六『うるしの話』と再会したからです。

 この本は、私が大学の頃の80年代に読んだのですが、そのときには、旧仮名遣いで縦長判の岩波新書だった気がします。岩波文庫版になって、しかも表記が現代仮名遣いに直されて、たいへん読みやすくなっていました。

 漆器独自の存在感に気づいたのが、10/22に書いたように、この大学生の頃。チョっと調べてみたい気になったのですが、書店の雑誌の特集などでは、目が飛び出るような価格の高級漆器を、きれいな写真と「使っている有名人」の笑顔で勧めてくれるだけで、漆器の写真を、陶磁器や高級時計にすり替えてもこれらの雑誌はそのまま売れそうで、その存在価値が不明です...なのはともかく、図書館で調べようと思いました。ですが、専門的なモノばかりでした。そのとき、表題のタイトルどおり、すっきりわかりやすいこの書を手に取ったわけでした。

 そのときに興味があったのは、あの独自の触感というか「指ざわり」の秘密、漆の木、漆液、漆器用の塗料になるまで、といった、素材の素性を知りたかったのでした。

 この本は、話がそこ(樹液)から始まります。その後、蒔絵・螺鈿・平文などの製作の話。いずれも、たったこれだけの本なのに、非常に詳しくまたわかりやすいです。本の最後3分の1くらいの分量で、これは予想外でしたが、松田権六が、少年時代から今日に至るまで歩んできた人生を書いています。

 石川の農家の三男が、7歳から漆職人に仕えて、人間国宝に叙せられる以前の時点までの自叙伝です。私としては、漆の技術的な面に興味があって手に取った本だったことから、最初は興味がなかったのですが、軽妙な語り口でどんどん引き込まれます。ただ、その内容は、つまり歩んだ人生とその蘊蓄は、さすがに、ずっしり重いです。

 さて、先日、岩波文庫で再会して手に取り、また楽しみに読み始めました。全部読んだはずですが記憶から欠落していたのが、『蒔絵万年筆の創始とその影響』という一節でした。初めて読んだ大学生の頃は、安い万年筆は割と頻繁に使っていたものの、「蒔絵万年筆」だなんて何の興味もなかったので、読んだ直後にもう記憶から脱落したのでしょう。いま読むと、実におもしろいです。

  並木製作所(今のパイロット万年筆)に就職する大正時代の終わり頃の話が、語り口の楽しさについ笑ってしまうのですが、深く心を打たれます。

■ パイロット創業者の並木良輔と初めて出会った話です。この時点で松田は、芸大の卒業制作が教授全員の合同評価にて前代未聞の「100点満点」評価で政府買い上げ品(現在も芸大収蔵品)となるなど、受賞歴を重ねていた上、当時大日本帝国が事実上植民地支配していた朝鮮半島の楽浪郡遺跡の大規模修復作業に深くかかわった実績を重ねていますが、本人によると「無職の貧乏暮らし」。日本の伝統芸能たる漆を寺社建築のみならず、家具や室内装飾にも応用することに深く関心を抱いていた頃、万年筆や喫煙用パイプなど外国向けの新しい漆芸に魅力を感じます;

『とにかく、いっぺんその会社に行ってみようと顔を出したのが、ちょうど、会社の大塚新工場の起工式の日だった。出席すると、常務取締役の並木良輔という人が従業員や会社関係の人たちを前にこんな大演説を始めた。「きょうは、専門家の話によると、1年中で一番悪い月難と、日難の日で、しかもまた、午後2時というただいまの時刻は、今日中でもいちばん不吉な時間だという。そのいちばん悪い時刻を見計らい諸君とともに起工式を挙げる以上、今後、この工場ではろくなことが起きないものと決意されたい。もし、いいことが少しでも起きたら例外として感謝し、悪いことが起きたらあたりまえで、禍いをかならず福に転じてみせるという気構えに立っていただきたい」云々。この並木良輔の演説には大いに共感を覚え、おもしろそうな会社と思って入社を決意したのだった。...』

■ 漆塗の万年筆の歴史も、パイロット万年筆の歴史も、このような意志ある人々によってつくられたのですね。エンドユーザーのさらに末端の私ですが、漆製ももちろんプラスチック軸でも、いっそう感謝して使うことにします。

■ 漆の小さな実が、今はちょうど葉が落ちて赤みがかっている頃でしょうか。見に行きたいなという気になりました。